2007年06月14日


405 <七色仮面の告白日記>

405という木

両親へのカミングアウトもし、
数日後にはカウンセリングもし、
そのことをブログにアップし、
みなさんからストロークやコメントをもらい、、
さて、肝心な自分は今、何を感じているのか。。

あの告白自体は、
その後の生活を快方へ導いているには違いないのだが、
それに伴う自分の気持ちが現実にまだマッチしていない。。

あまりにも長い脚本を演じていたせいかな。。

時々思うのは、よくも我慢してきたなとも思うし、
もう少し早ければ、、なんて意味のない後悔をしたり、
そういや昨日、部屋から見える垣根の一本の樹木が、
枝切されていました。

自分は今の部屋(二階)に越してきてから、
この樹木を眺めるのがひとつの習慣になっていて、
晴れた日、雨の日を幾度も経て
すくすくと枝が伸び、葉を付けていく様子を見ていた。

垣根とはいえ、部屋から樹木が見られるなんて、
これまでにない環境で、自分なりに気に入っていた。
そんな樹木が枝切された。

ふと、かなりんタロットを思い出した。
「無駄な木」というカードだ。
有用な木というのは人の役に立つために、
すくすく伸びても枝は生活のために切られたり、
果実は食糧のためにもぎ取られたりしてしまう。

でも無用な木は、何も役に立たないので、
枝も切られずどんどん成長し葉をつけていく。
そして、その木陰には人が集まってくる。。
(確かこんな意味だった。。。)

どうやらこの樹木は、垣根という役の割には育ちすぎて、
一階に住む人達には日当たりを悪くし、
だから枝切されてしまったのか。。

この樹木に、何を思ったのか。
親のためにと思ってつけた枝や果実は、
有用であったと思いこみ、それは無意味な我慢と忍耐によって
もぎ取られたという、逆説的な有用な木。
有用でありたかったという自己愛的な木。

それが、自分だった。
あれから毎日ボンヤリし、
時々、父親からメールや電話がかかってくる。
これから405という木は、どんな木になっていくだろうか。

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2007年06月07日


405 <七色仮面の告白日記>

言う力 言えない力

先日、父にCSNで話しをしたいと申し出て、
恵比寿に来てもらいました。

ことの経緯、それは今の自分の現状を知ってもらうことにあった。
自分の現状、それはこれまでの自分の歩みを父に伝えるための
ある種の告白めいたものだ。

その前に、、、 これまで自分のブログを読んで、
気づいた方もいるかもしれませんが、
自分のセクシャリティは「ゲイ」なんです。

ゲイについてや、それにまつわることは今回は触れませんが、
自分はこのセクシャリティで人生の半分、
いや過半数以上は生きてきたということです。
自分はゲイであることを両親や世間に対しずっと隠し通し、
多少その要素を垣間見せながらも、
ひたすら「ヘテロ」であることを演じ続けました。

ヘテロを演じること、それは自分を更に別の自分へと誘い、
心の分離や離人感とも違う、奇妙な心持というのか、
対世間的なのか、つまりは素の自分ではいられないことが、
おおよそ演じることの由縁かもしれません。
自分のセクシャリティを隠していることは、
自分を裏切っているわけでもなく、認めていないわけでもない。
自我でわかるのは「ゲイの自分」をどこかディスカウントして、
こんな自分は両親には必要とされていない、愛されないと思うこと。

そういう想いから発した数々の「愛されていない」の確認作業、
自分はNOT OKなんだと思う脚本を持ちつつ、
その時々の精一杯の選択で、これまで歩んできました。

でもその選択は、現実を見据えるAの未成熟や、
発散されないCの強暴が判断を誤らせ、
自分の生活は破綻し、身体レベルでは危機を迎えていた。

そして世間的には、過激な部類に相当するような結末となった。
そこから脱するためには、根本にある自分のセクシャリティと現状を
両親に伝える、告白という対決だった。

※※※※※※※

場所を恵比寿に選んだのは、
告白に際し感情的になるのを防ぐために、
第三者のかなりんを立会いにして行うためでした。
その日は父一人が、何かを察するような顔もちで恵比寿に来た。

自分はというと、この告白をすることを決めてから、
脚本抵抗による体調不良にあいながらも、
なんとかこの日を迎えたのだ。

母に対しては、以前から現状の一部を伝えていた。
しかし、根底のゲイであることは伝えていないことから、
現状に対しどこか中途半端な感じがあった。
そして、今回父に話すべく内容を、母には事前に伝えていた。
母がこの日来なかった理由も、わからないでもなかった。

カウンセリングルームで父を目の前にし、
緊張、恐怖、動揺の全てが自分の心を駆け巡った。

「Aをつかえ、Aをつかえ、Aをつかえ」と心で唱えながら、
ゆっくりと話しはじめました。
自分の現状、そしてそれらの根底には自分がゲイだということ。。

父は現状問題の一部に反応しながらも、
ゲイであることも含めてなのか、
「なんでもっと早くに言わなかった、バカだなぁ」と、
穏やかに言った。
このバカだなぁという一言は、侮蔑するのではなく、
明らかに自分なりの愛を感じた。

そして「前向きで考えよう」と言ってくれた。
リアルに泣いた。
話すたびに涙が出たのは、聞いてくれてる嬉しさなのか
あまりの恐ろしさからの解放のせいか。
そんな涙の理由なんて、どうでもよかった。
ただ一つ、父に初めて懇願して抱きしめてもらったことが、
自分の応えだった。

そして何かがスッと抜けた感じがした。
両親はゲイであることをうすうす感づいていたらしい。
ただ両親も、そのことを自分に直接聞けなかったようだ。
告白という対決は、自分のC妄想を覆した結果だった。
その日はただ、呆然とした。

※※※※※※※

しばらく経ち、この出来事をようやく整理できはじめた。
父は「夢じゃないのか」と思ったそうだ。
そして父から母へ。母は泣いたそうだ。
この告白で全て言えたかと言えば、そうでもない感じでいる。
なぜなら、この告白はあくまで自分のゲイというセクシャリティと
現状を言っただけで、それで何が解決かといえば、解決なんてない。

「言うか、言えないか」が根本にあってのこと。
そもそも解決するのは現状の整理であって、
セクシャリティがゲイであることは何ら問題がない。
むしろ、セクシャリティがゲイだからそうなんだとして捉えられるのは、もってのほかだ。

なぜなら、これは405として自分自身のことだから。
言えない力は、いつしか言う力に変わった。
今は心の安定が取れ始め、ようやく素の自分で進めそうな
そんな感じだ。

このことをブログに書くことは、自分への具現化です。

CSNメンバーの力、そして何より、このことに直接対決した

父にエールです。

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2007年05月31日


405 <七色仮面の告白日記>

さようならタロウくん

TAに「結末のない脚本」というのがあります。

例えば仕事をしているとき、
時間が迫っているわけでもなく、
その後に何かあるわけでもないのに、
早くその仕事を片付けてしまわないと気が済まない。

それでその仕事を片付けてしまうと、
やることがなくて不安や落ち着かない感じになる。
何もしないでいる時間でも時給が発生するという想いになり、
殊更何かをしなくちゃいけない気分になります。

これは「仕事を早く終えよう」という
ビジネスライクなものではなく、ただ早く済ませたいだけの感情です。
更にこのようなことを繰り返していると、
肝心なところで詰めが甘くなるのです。

メールを誤送信したり、社内文書で「てにをは」を間違えたり、
簡単な計算ミスをしたり。

仕事に関してだけではなく、プライベートでもよくあることです。
ブログを書いていて、いざアップして見返してみると
言葉が変だったり、誤字があったりするときもあります。

そのときの気持ちは、「たぶん大丈夫だろう」なのです。
この感情こそ、クセもの以外の何ものでもないのです。

そしてこれは、人との交流にも表出することもあります。
例えば知人から連絡が来なくなったとき、
「こうなるのは、相手が自分のことを嫌いだからだろう」と
勝手に推測してしまうのです。

「大丈夫だろう」というものとは違うけれど
「なになにだろう」という推測から「なになにだ」という確認、
確信に至らない点においては派生元は同じだと思います。

その確認、確信を怠ると相手への値引きが始まったり
ゲームが始まったり、脚本に入ったりするのです。

本当のところは色々な事情があるにも関わらず、
自分のこれまでの経験や思い込みで現象を判断し、
ラケットの怒りや悲しみ、不安に取りつかれます
これを回避するには、確認が一番なんですよね。

神経質になるほどではないにしろ、
これができるかできないかは、自分にはとても大きいこと
だと思います。

ちょっと頑張ってみようかな。。

「なになにだろう」を回避する意味で「だろう」をもじって
“さようならタロウくん”

※今日は誤字脱字は大丈夫かな。。w


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2007年05月24日


405 <七色仮面の告白日記>

涙が教えてくれたこと


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2007年05月17日


405 <七色仮面の告白日記>

ワンダーランドin 本屋

休日、お決まりのカフェ巡り(とは言ってもチェーン店)
でコーヒーとパンを食すこともしますが、
同じくらいに「本屋」へも出入りしていることに気づきました。

本屋で何をするのかってそれは趣味の本を立ち読み乱読し、
特に買うわけでもないのです。
一通り趣味の本を読むと、新書や小説コーナーもウロウロして
気になるタイトルをつまみ読みします。

こうして色んな本をつまみ読みしているだけで、
七色の自分としてはその世界に憑依したり、
書いてある内容にどっぷり洗脳されるということが
時として多くあるのが難点です。

先日、薬に関する内部告発?らしき本を読み、
「薬なんか信じられないなぁ」とあっさり感じてしまったり、
江戸時代のお遊びに関する本を読んだら、
「あぁ、花魁になりたい。。」とトリップしたり、、

そういえばかなりんから借りた三島由紀夫氏の本を読んだら、
主人公への投影なのか憧憬が強くなり、
先に読みすすめられなくなることがありました。

これは目にリアルに飛び込むテレビドラマを見ると、
顕著に現われるのですね。
任侠ものを見ると、妙にその世界感に心奪われ
「世間様なんてぇのは…」みたいになったり、
今年放映された派遣社員が主人公のドラマを見ては、
ついその気になって次の日から仕事してみたり。

やっぱり難点かも、、
本屋というのは面白い反面、自分にとっては巣窟にもなりがちな
場所でもあるのです。

さて、明日は何の本を読もうかな。。  


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2007年05月10日


405 <七色仮面の告白日記>

七色のはじまり

なぜかレギュラーになったということで、
ちと自分のことについても書いてみようかなと思います。

今年のコールデンウィークのとある日、
両親とともに、入院している父方の親戚の叔父さんを見舞い
その帰り、母が上京してまもなく勤めた食堂の元オーナーの奥さんが 営んでいる小料理屋へ行きました。(この時点で複雑…)

奥さんはお客さんがいるにも関わらず、
突然の来訪に歓迎してくれ、
近所に住む奥さんの息子Iくんも呼び、
わいわい飲んでは食べたりしました。

その会話で、「405が小さいとき“Iくんはいいよな、
お父さんに可愛がってもらって” と、言ってたよな」と、
話し始めました。
これを聞いて、自分では気づかないでいた幼い頃の感情らしきものを
味わい初めていました。

このIくんとは、現小料理屋の奥さんが元食堂のオーナー夫婦だった

三人兄弟の末っ子として生まれ、
自分は両親がこの食堂で住み込みで働き始めて生まれました。
オーナー家族とうちの家族は血縁関係もないのに非常に仲むつまじく、
ひとつ屋根の下ということもあり、交流は家族そのもので、
うちの家族がその食堂を離れてからも、こうして会い続けるほどです。

そういう環境下で自分は一人っ子なのに、
なぜか兄弟らしき人がいるという状況で成長してきました。
ですが、オーナー夫婦の旦那さんは家庭を顧みないタイプで、
自分の父がその三人の父親代わりになることが多く、
それは奥さんと自分の父が夫婦ではないかと間違われるほどでした。

そして物心ついたころ、自分はある否定感を持っていました。
それはその三人の子供の内の一人のIくんに対してです。
Iくんは明るく元気でおもしろく、
病気がちでありながらも素直に甘えられるタイプで、
自分はボンヤリしてどんくさく、無口な性格なので正反対です。

また当時の体型は肥満で、
いつも「将来はお相撲さんね」なんて言われてたりしていました。
なのにスポーツ嫌いという性根もあり、
スポーツ大好きの父からしてみたら、
なんて取るに足りないのかななんて思っていました。

父はIくんを非常に可愛がり、
わざと父にからかわれるようなことをしたり、
ちょっかいだしたりと子供ながらに映ったその光景は、
本当の親子のようでした。

自分はと言えば何か父に怯えるような感じていて、
甘えてみたいけど甘え方がよくわからなく、
ちょっかいだしようにもそのやり方がわからない。
元気な男の子みたいに振舞うことすら、
自分には酷というのかできないでいたのです。
それはわがままに振舞うと、
Iくんに父を取られてしまうとか 言うことを聞かないと、
捨てられてしまうとか言うことなのでしょうか。。

これが「見捨てられ不安」の始まりなのかな。

そしてその否定感の根源のIくんからも、
ストロークをもらっていました。
体型で「デブ、ブタ〜」と言われていたり、
下半身のことをからかわれたりと、
それもそれで子供ながらにショックというか
「あぁダメなんだ」と思っていたのでしょう。

「Iくんはいいよなぁ」は、
そんな幼い自分が感じた率直な感じなのかもしれません。
そんな自分に対して、父は何をしたのかわからないのです。

確かに、休みの日は時間を見つけて父も好きだった交通博物館へ
連れて行ってくれたり、良い子にしていた褒美に
毎月一回おもちゃを買ってくれたり、物質面での愛情は注がれていた。

なのに、憶えてるのは「恐い父」でした。

しばらくしてIくんは、
「俺は愛情を注がれていなかったんだ…」と言いました。
すると父は血相を変え「何言ってるんだ!親がいて、何不自由なくて…」と
父がしてきた子育てを雄弁するかのごとく語り始めました。

驚いたのはその一言に対する父の反応でした。
これって一体。。みたいな気持ちです。

幼い頃の父は両親を早くに亡くし物質面が不自由で、
非常に苦労をしたと聞いています。
その強烈な想いは、自分の子供にはそうはさせまいと思う
父なりの想いなんでしょうね。

それでいて「見捨てられるのでは」と感じていた自分の対比としては、
どこかに父の脚本が根底にあったのでしょう。
そういう父から私は成長してきたのですが、
今それを言われても、もうそれでしかなく、
自分には自分の想いがあるみたいな感じでいます。

なので「Iくんはいいよなぁ」を聞いた気持ちを味わうとしても、
今更なんだろうという気持ちでもあり、
幼くして感じたこの否定感を癒してあげたいようなそうでもないような。
ただ実感としているのは、それらの経験から幼児決断で
「父の前では装うこと」に徹し
父の基準に合ったカメレオンでいることじゃないかと思う。

それは今でも慣行していることだと思います。
幼い頃の感情と装いを徹してきたことは、
自分の一部の感情を染めて生き続け、今の自分がある証のようです。

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2007年05月03日


405 <七色仮面の告白日記>

ルネザンス

今日はカウンセリングを受けに、CSNに来ています。

受けるまで鬱々とし、重−い気分でしたが、
終えた今はかなりスッキリしているのに、
どこかボンヤリしています。 抱えていることを話って、
こうも違うんだなぁと 毎回思います。

毎回と言えば、カウンセリングを受けるたびに自分の課題に触れ、
傾向や対策みたいな感じで 明日からの心構えをするのが
自分流なんです。

その度に何かしらの想いを胸に、
何かしらの決意で明日からやっていこうと思うのですが、
今日のカウンセリングは、
これまでの以上にしんどいというか、
ついに突きつけられたかという気分です。

いくら「明日からこうするぞ!」と思っていても
根本的なところをどうにもこうにもしないと、
本当のOK感には程遠いんだと
ついぞ知ることになりました。

「その正体を知るか知らないかは大きいのよ」と、
かなりんは言います。

その正体を知って、
その正体の前でたじろぐとも違う、
どうすることもできないでもない、
なんともしがたい状態は、一体どうなんでしょうか。。。

明日は明日の風が吹く、
そんな矢面に立ち、明日から自分はどう再生していこうかな。

かつて芸術思想に人間再生を意味する
ルネサンスというのがありましたが、
自分の場合はさしずめ 「ルネザンス」というところでしょうか。
自分らしい表現ではありますが、
余裕があるわけでもないのですけどね。。


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