主観、客観、傍観
それぞれの意味考察は避けるとして、
自分にはこれらの単語が時として混在し、
不明瞭になることがあります。
例えばある物事を捉えるとき、
主観なら自身の価値観や経験に基づいた立場で判断し、
客観なら物事を第三者の立場で見て判断し、
傍観なら物事自体に触れずに関係のない立場でいること。
どれも当たり前そうで、
実は大変難しい立場なんだなと感じることが多々あります。
何かしらの出来事に対処するとき、客観視しようと試みるものの
主観たる客観になったり、客観めいた主観だったりと
それぞれの立場を知りつつもなぜか偏りが出てきてしまいます。
特に自分の気持ちに触れるときは、
いくら「客観をもって」感じていると思っていても
それ自体に客観のかけらもなかったりして、
どうも「主観」になることがある。
「とっても不愉快!」
そう思う裏には、何かが潜んでいる。
それを手繰り寄せるために気持ちの分析といったことをする。
分析に客観性は必要だけど、その分析には主観は入る。
分析自体、感情の合理化であることはあるけど、
ではどうしたらその「潜んでいる」ことに近づけばよいのか。。
それは「不快」と思うことに理由などない自分への肯定感だ。
不快に思えば、それを不快として不快を表現すればいい。
下手に分析といった「客観」を用いることで、
自分が不快に感じた表現の決断に「待った」をかけることはない。
ストレートにつなぐ感情に妙な弊害を自分で加えて、
自分の心を台無しにすることもない。
「自分はこんなことが不愉快だ、だからこうしたい」
これがTAでいう「A」の言動かはわからずとしても、
主観か客観かどうかの前に自分がどうしたいか、
どうリスクを背負えるのかが重要なんだ。
たぶん主観も客観もバックボーンに自分の「A」があってこそのこと
だと思う。
気持ちがくすぶるのなら、それは「A」の判断ではないのかも
しれない。
それでディスカウントするならそれでよいし、
ならその次どうするのか。
むしろそんな気持ちを、傍観してみてもいいじゃないか。
社会は自分の周りだけではない。
そんな中で、自分がどうするのか。。
それを教えてくれたのは、
遠く霧雨の降る信州の山々と林でした。
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