2007年08月02日


405 <七色仮面の告白日記>

カン、カン、カーン!

ここに三つの単語があります。
主観、客観、傍観

それぞれの意味考察は避けるとして、
自分にはこれらの単語が時として混在し、
不明瞭になることがあります。

例えばある物事を捉えるとき、
主観なら自身の価値観や経験に基づいた立場で判断し、
客観なら物事を第三者の立場で見て判断し、
傍観なら物事自体に触れずに関係のない立場でいること。

どれも当たり前そうで、
実は大変難しい立場なんだなと感じることが多々あります。
何かしらの出来事に対処するとき、客観視しようと試みるものの
主観たる客観になったり、客観めいた主観だったりと
それぞれの立場を知りつつもなぜか偏りが出てきてしまいます。

特に自分の気持ちに触れるときは、
いくら「客観をもって」感じていると思っていても
それ自体に客観のかけらもなかったりして、
どうも「主観」になることがある。

「とっても不愉快!」
そう思う裏には、何かが潜んでいる。

それを手繰り寄せるために気持ちの分析といったことをする。
分析に客観性は必要だけど、その分析には主観は入る。
分析自体、感情の合理化であることはあるけど、
ではどうしたらその「潜んでいる」ことに近づけばよいのか。。

それは「不快」と思うことに理由などない自分への肯定感だ。
不快に思えば、それを不快として不快を表現すればいい。
下手に分析といった「客観」を用いることで、
自分が不快に感じた表現の決断に「待った」をかけることはない。
ストレートにつなぐ感情に妙な弊害を自分で加えて、
自分の心を台無しにすることもない。

「自分はこんなことが不愉快だ、だからこうしたい」
これがTAでいう「A」の言動かはわからずとしても、
主観か客観かどうかの前に自分がどうしたいか、
どうリスクを背負えるのかが重要なんだ。

たぶん主観も客観もバックボーンに自分の「A」があってこそのこと
だと思う。
気持ちがくすぶるのなら、それは「A」の判断ではないのかも
しれない。
それでディスカウントするならそれでよいし、
ならその次どうするのか。
むしろそんな気持ちを、傍観してみてもいいじゃないか。

社会は自分の周りだけではない。
そんな中で、自分がどうするのか。。

それを教えてくれたのは、
遠く霧雨の降る信州の山々と林でした。

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2007年07月26日


405 <七色仮面の告白日記>

テレフォンわーく

久方ぶりに、両親と電話で話しをしました。

きっかけは、自分宅に親戚からお中元が届き、
それを受け取ったよということを知らせるためでした。

そんな連絡は必要なのかと思いながらも、
両親と何かを話す「きっかけ」が欲しかったからだ。
まず母親が出た。
「あらぁ、久しぶりねぇ」と、相変わらずの調子。

なかなか連絡できなかったことや、最近の出来事を「早口」で話す。
そうすると電話口の後ろから父親の声がしたので、
所在を確認し電話に代わってもらった。
「おぉ、ご無沙汰! 元気か??」と、いつもの父親節。
すると父親はいきなり
「そういや、江戸博物館でやってる鉄道博見に行ったか??」と、
言った。
自分はなんでまたそんな会話が、、なんて心で思いつつも、
「行ってないよ、何かあるの??」と、聞き返した。
「お前が知らないなんてなぁ」と笑いながら話をし、
その流れで、今夏母親が帰省する際の切符の話をした。

大抵「うん、うん」と聞く自分。
そうして、また母親に代わり「たまには遊びに来なさいよ、
また焼肉食べに行こうね〜」と言い、 受話器を置いた。
不思議な感覚だった。

以前とは、全く違った終話。
なんだろうか。。 それは本当のコトが言えずに話すことと、
全てのことを知ってもらえた上での話すことの違いだった。

思えば両親との電話のやりとりは、
自分のパターンが顕著に出るシーンだった。

母親には自分が何でもないないように「早口」で話し、
父親には父のとりとめない話を「うん、うん」と聞く。
早口なのは、何でもないようにしたいから
うなずくのは、とりとめないようにようにしたいから。

でも今は、自分の本来の姿は知ってもらえている上での会話。
以前と同じように早口で、同じようにうなずいても
それはそれでいいのだと思う。

なぜなら、両親に何かを求めることがなくなったから。
きっかけを求めていたのは、自分が現状に対しまだどこか不慣れで、
何かをもって知りたかったからなんだ。

その根底には、まだ両親がいた。
どうしているのか、どう感じているのか。。

きっと自分が両親に対して描く「イメージ」のクセなんだろう。
イメージは自分勝手な産物だし、
イメージしたところで何も起きないこともわかった。

第一、知ってもらっているんだから。

今回の電話は改めて「自分」というコトをを再確認した気分だ。
両親に求めるのはないけど、
ちょっといい子のなるくらいは、自分にとっていいのかもしれない。 ブログランキング・にほんブログ村へ ↑ブログを読んだらクリックしてね!
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2007年07月19日


405 <七色仮面の告白日記>

いつもの症状

そもそも、外見ほど惑わされやすいものはない。

真面目そうに見られるのに実は真面目なんかじゃなく、
賢そうに見られるに実は賢くなんかなく、
かっこよさそうに見えるのに実はかっこよくなんかなく。

外見の基準なんてのは、
各々の準拠枠だったり、世間の価値観で決まってしまう。
大体何によって、「良し悪し」なんだかわからない。

自分が良けりゃ、それでいい。
自分が嫌なら、それでいい。 たかがそんなもんさ。

なのに、それに苦しんだり悩んだりしてしまうもの。
それに厄介なのは、外見によってその中身までも、
あたかもそうであるかのように決め付けてしまうこと。

真面目そうだから、ああ見えても真面目なんだ、
賢そうだから、ああ見えても賢いんだ、
かっこいいから、ああ見えてもかっこいいんだ。

自己基準なんてのは、勝手な想像でしかなかったり、
良いように仕向けたいだけ。

大体何によって、「その人を知る」ことなんだかわからない。

自分が良けりゃ、それでいい。
自分が嫌なら、それでいい。 所詮そんなもんさ。

なのに、それに絆されたりイカれてしまうもの。
どうしたのかって??? 多分いつもの症状ですね、
報われないくらいがちょうどいい恋ですw  

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2007年07月12日


405 <七色仮面の告白日記>

アメニカレヲオモフ

ようやく梅雨らしくなってきた今年、
毎年うっとおしいと感じ、気分が滅入るのですが、
今年の梅雨はなんだかいつもと違っています。

思えば年頭の引越しから始まり、
短期の派遣、ブログのレギュラー、両親へのカミングアウトと
目まぐるしい日々でした。
気持ちもそれに比例するかのように起伏があり、
そしてようやく、安定した日々になりつつあると感じています。
その主たるのは、カミングアウトによって得たとも言える生活の安定で、
その安定はこれまでの感情の起伏を平坦にし、
仮に何かが起きても、比較的穏やかでいられることが
起因しているのでしょう。

そしてこんな気分でいられのは、
どこか余裕がある証拠なのかもしれません。

そんな梅雨の朝、 雨音で目覚めることが多くあります。
耳障りな音もなくただ雨がシトシト、
地面や樹木を叩く音だけが聞こえる。

布団に潜りながら、雨の音だけ。
「あぁ、静かだなぁ」 そんな雨の朝、
時期こそ違えど、最後に付き合った彼を思い出します。

彼と初めて一緒に迎えた朝は、雨が降っていました。
それまでは付き合うことを正式に交わさず、
頻繁に食事をしたり、電話をするような関係で、
交際前の適度な緊張感を持つ間柄でした。

日増しに自分の心は彼へ傾き、
彼を正式な「彼」として付き合いたいと思った。
そう心に留めていたある日、 いつものように彼と食事をし、
初めて夜を共にすることになった。

激しさより、むしろ安堵感と付き合いたいという静かな想いだけが、
よぎっていたのかもしれない。

そして迎えた朝、
彼の仕事の関係上、雨天時は仕事が休みということで、
彼は仕事先に「今日は休みます」と連絡をし、
ぼんやりとした朝のひとときを過ごすことができた。

このとき、今まで抑えていた激しさが波立ち
初めてであろう自分の口から「付き合ってほしい」と、伝えた。
彼は静かに頷いた。そして雨音だけが聞こえていた。

彼とは約三年間の交際を経て、
最後はあまりにも出来すぎか彼の間抜けさで終止符を打ったけど、
今でも彼の存在は、どこか「好きなのかな」なんて思ったりしてしまいます。
今の心の平坦さはその頃の平坦とは全く違うもので、
交流分析的には「自分が育てたA」で得たものであるには違いない。
その平坦を誰かとの関係性によって損なわれがちになるとき、
交流分析はそこで起こる問題について冷静に直視する意味で、
有用であると思う。

でも誰かを好きになる時、
交流分析の解釈で今の自分の心情を図るのは、味気ない気がする。
そして、彼を思い出すときも。。

そんなことを言えるのも、きっと今が平坦だからこそ、
どんな終わり方をした恋にも
自分なりのOKさを持っているだけなのだろう。

「きっと雨のせいかな。。。」

雨は人を詩人にさせると、勝手な言葉を引用しながら、
彼の顔を思い出しては、今の自分を感じています。

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2007年07月05日


405 <七色仮面の告白日記>

トモダチはいますか?

友達という言葉、
どうも馴染みがないというのか、馴染めない。

確かに自分には、友達が少ない。 いや、いないに等しい。
かと言って、いないからどうのということはない。

まがいなりにもそういう「友達」がいても、
自分は「友人」と呼ぶ。
別に「友達」という存在や、言葉に罪はない。
使いまわしとかトモダチという言葉の響きに、
どうも表面的なイメージや軽さがあってならない。

表面的に感じるのは、 自分の経験から感じたことなんだろうし、
経験による、友達という言葉の呪縛からの逃避なんだろう。
それだけに、友達というのに敏感だ。

じゃあ友人はいるのか。
そう考えてみても、友達同様少ないように思う。
それは、なにを持って友人と呼ぶのか、わからないからだ。

仮に共通の話題をもっていたり、 飲みに行く相手というのは、
友人なのか。。

例えば、CSN。 ここでも友人はいない。
メンバーは同志、もしくは仲間という感じだ。
メンバーを特別視しているわけではない。
でも、友人でもない。

人と交流する上での話題は、それなりにある。
鉄道関係、昔のアイドル、洋服、化粧品、、
でもそれを人と話すのは、そういう媒体と交流しているだけで、
その人そのものと話しているわけではない。

その相手を「友人」とするのかどうか。
もしその人そのものと交流するのなら、
それはその人との交流なんだと。
だから、友人ではないような感じがする。

きっと、不器用なのかもしれない。
何かの準拠枠なのかもしれない。
であるがゆえに、ストレートな感情の交錯を、
どこか「人との交流」と思ってしまう。

こだわりでもなんでもない、それが自分のスタイルなんだろう。  

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2007年06月28日


405 <七色仮面の告白日記>

セックスに泣かされて

自分はセックスが好きなのか。

そうなんだ。
そうかもしれない。
そうではないのかもしれない。
そんなことはない。

ただ、自分が「あぁ、男なんだ」と思うのが、
ある基準をセックスに求めるところ。
そのある基準とは、、

何かしらの欲求の高まりを感じる時に、セックスがある。
おそらく、大方の男子に見られる傾向じゃないだろうか。
「セックスは暴力だ」 「セックスは、TAで言うところのFC」
振りかえれば、セックスは自分の捌け口でもあり、
逃げ道でもあった。

自分はセックスによって、相手への投影と幻影を見ていた。
セックスを通じて、自分の受入の確認をしていた。

誰でも彼でもいいという訳ではないけど、
セックスに求めていたのは、自分をセックスという行為で
行きずりの自己存在を感じていたから。

一瞬でも、その相手に選ばれた。
一瞬でも、その相手に愛された。
でもそれは、幻影。

行為ができたという達成感はあっても、
行為中は早く終わらせたい、しんどくなるという気持ちが強い。
身体で気持ちいいとか感じることは、ほとんどなかった。
それこそ恋愛上にあるセックスは、
いつ飽きられるか、またいつ自分が飽きるのかの責めぎあい。

かつて付き合った人の中でも、そんなことばかり考え、
本気でセックスしたいと思ったことは、
相手への縛りか、捨てられないための手段でしかなかった。

収拾がつく自我強度があれば、セックスに固執することはなかった。
それでも自分には どうしようもないセックスへの憧憬があり、
どうしようもない自己醜貌の代替のためであり、
どうしようもないいやらしさへの恍惚さがある。

自分のセックス観には相手が存在していない。
求めているのは行為そのものではなく、相手であることもない。
そこには、自己愛しかない無防備な性処理であったこと。

いくら何人とセックスしようが、
いくらわいせつな行為をしようが、
つまるところ、自分が昇天するほどの快感より、
自分の性的関心を満たすだけの行為でしかない。

そのためにどれだけのことをしたのだろうか。
残ったのは、それでも尚相手を求める懲りない性分と、
破滅した身体だけだ。

男は、少なくとも自分は、セックスに泣かされる。  

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2007年06月21日


405 <七色仮面の告白日記>

野方に胸キュン

東京は広いのか狭いのか、
なんて地理的なことを考えるより、
過去に好きなった人との関わりのある街を基準にすると、
情緒的な感覚を持って狭いなと感じてしまう。

このあいだ、CSNの会合で鷺ノ宮へ出かけた。
鷺ノ宮へ行くには、自分の住んでいるところから、
とある街を乗り換えがてら通過しなくてはならない。

その街は、野方。
今から5年前、好きになった人が住んでいた街だ。

彼とは、わずか2ヶ月で破綻した。
付き合った訳ではないので、破綻もなにもないのだけど。
彼の外見は背が高くスラッとし、話し方は大人っぽいのに、
時々見せる無邪気さが、自分の理想そのものだった。
彼に会える週末は会いたくて会いたくて、
会う約束のメールをするだけでも「ドキドキ」した。
メールの文章からも、彼の香りがしていた。
金曜日、夜を過ごすのは大抵彼の家で、
ただ二人でテレビを見ているだけだったけど、
自分はずっと緊張していた。
翌日は遅いランチを野方駅周辺でとり、
夕方帰るというのが基本だった。

彼への想いというのは、今思うとかなりの転移があり、
そのウワッとくる感じは自分なりの恋するパターンだった。
でもそんなことを知らない当時は彼に夢中で、
仕事も上の空になり、平日のどうでもいい時間にメール確認したりと、
かなり入れこんでいた感じだった。
しかし終わりというのか、彼との関係を清算を見据えた感じで終えた。

最後に彼の家に行った日、その日は初めて二人で飲みにいった。

ここは一つ、素の自分を出してみよう。
彼はどう反応するのか。
それで好きになってもらえたらいいのになぁなんて、、、

それは自分の「これでもか。。。」だった。
振りつけでカラオケをし、ぎゃ−ぎゃ−騒ぎ、、、
でもどこか楽しめない感があった。
そして彼の家へ向かったのだが、
素の自分がどうとかこうとかは何も言われていないのに、
彼のどんな反応にも恐怖を感じた。

その夜、眠れなかった。
そんな自分の想いを抑え切れず、
自分は彼が寝ている間にメモを残し、帰った。
「もし付き合えるなら、夕方メールください、メールがなかったら、
これで最後にします」

恋の盲目さ、ここにありといった感じで、
恋愛ドラマ並のことも、自分には大きな決断と勇気がいった。

野方駅前の踏み切りで電車の通過待ちをしていると、
彼からメールではなく、携帯電話が鳴った。
あれ、なんだろう、電話に出るべきか出ないべきか。。

どうしようなんの返事だろう。。
電車の通過待ちのわずかな間、とても長く感じた。

自分は電話に出なかった。留守電も入ってなかった。
そして駅のホームで、自分は泣いた。

彼の言いたかったことは、今だわからない。
彼の返事を聞くのが、非常に恐かった。
妄想が支配し、別に彼がそのあと何かしたわけではない。

このあと、サンプラ相談室に行けなくなった。
なぜなら、サンプラの最寄中野駅から「野方」ゆきのバスが出ていて、
その字を見るだけで、ダメだった。

あれから5年、そんな野方の街を歩いた。
彼と食事をした店、あの踏み切り、人目はばからず泣いたホーム、
おりしも時間は、あの頃きまって帰った夕方。

あの頃とは変化のあった自分、
懐かしさとともに、あの頃の自分に投げかける言葉もなく、
胸をキュンとさせていた。
違ったのは、あの頃と別方面の電車に乗ったことくらい。

今、野方と同じ中野区に住み、暮らしている。
でもこの街は、どこか同じ区でありながら、別のような気がしている。
そんな思い入れのある街は、東京にたくさんあるけど、
胸キュンと隣合ってる東京も、好きです。


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