2007年09月20日


405 <七色仮面の告白日記>

終電/恵比寿〜中野にて

大体CSNに来ると、帰りが終電になることが多い。

そんな終電車内には一種独特の雰囲気がある。
何をどう感じるかはその時の自分のエネルギーにもよるけど、
「怖い」でもあり「ワクワク」もする。

「怖い」というのは、絡まれるとか突き落とされるとか、
リアルに近い想像めいたもので、
「ワクワク」というのは、終電に自分なりの「オトナ」っぽいと思うこと。

でも共通するのは、乗客のエネルギーに圧倒されてしまうことだ。

終電の車内というのは、
お酒を飲んでワーワーしゃべる人、
一仕事終えて疲れた身体をつり革で支えるサラリーマン、
どこの国籍だかわからない女性のマシンガントーク、
携帯ゲームに夢中になっている人。

それらの人は、終電にしか乗らないわけではない。
けど、それらの人を終電で見かけることで、
何か殺伐めいた哀愁さを感じることがある。

みんなそれぞれに想いがあり、それぞれに日々を送っている。
単調な車内であるにも関わらず、乗客の一人ひとりに生活がある。

終電とはその日一日の列車の最終であることだけど、
きっと「終」という単語に感じる何かがあるんだ。

自分の中に「終」に対して、一抹の安堵感やギリギリ感があるのか。
帰宅する安堵でもあり、電車に間に合ったギリギリという物理的なこともあれば、
「終」から連想する様々なことだったり。

でも自分は物理的な「終」は分かることができても、
感じることはないように思う。

作業が終わることや問題が解決すること、
人間関係に終止符を打つことは本当の「終」ではなく
「片付く」という言葉が似合い、
感じとしても「なくなる」意味からも遠い。

だとしたら、「終」はどんな感じなんだろう。 ナンセンスな想いを胸に、 意識的に「終電」を選ぶのかな、今夜も。。


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2007年09月13日


405 <七色仮面の告白日記>

地球はワタシが廻す

地球は自分を中心に廻っている

そんなことは、社会現象や政治の立場で捉えれば
そんなことはないのだけど、
でも日常の生活では、それほど否定することではないのだろうか。。。

自分自身、この世に誰一人同一人物がこの地球上に存在していなく、
自分自身を他者の目で自分自身を見ることができなく、
それは思考や感情も同じ。

例えば「東京都中野区にある中野駅北口タクシー乗り場2メートルのところ
午前1時9分にいる自分」まぎれもなくそこにいるのは自分、
でもそこに「いる」事実を他者の目で見ることはできない。

その場所にいるのは自分だけど、
そこに結びついた日常行動の一瞬は、自分中心ではないのか。

その基軸というのは、多くの惑星の地球のアジア地域の日本の
東京の中野の中野駅北口にいる自分が、
その場所にいることを選んだというのもあるけど、
今いる自分の場所を中心として、地球に存在している自分という意識も、
働くことがある。

それは社会情勢や環境問題等に無関心というのは違い、
それによりふって降りかかることは、
その人その人の中でそれぞれ違うものであるということ。

それが「ワタシ」という一人の人間の在り方。

自分にとっていいこと
自分にとってイヤなこと
自分にとってつらいこと
自分にとって悲しいこと
自分にとって腹たつこと

そんな自分の感情を中心にしてあらゆる出来事を見てみると、
意外と地球は自分によって、、、
いや自分の感情によって廻っているような。。。 とするなら、
自分を中心に地球は廻っているようなものだな と感じます。

「自分を中心に地球が廻る」って、
意外とネガティブなイメージになりがちだけど、
ネガティブというより、それだけ自分の感情を大事にしていることと
紙一重なのかもしれない。

自分はこの先の世界や地球を、どう廻していくのだろうか。。

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2007年09月07日


405 <七色仮面の告白日記>

スーツートントン

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2007年08月30日


405 <七色仮面の告白日記>

メトロマンチック

先日のブログで、
男Nに「405は地下鉄が好きだよね」と言われた。

確かにそうだ。
一人暮らしを始めてからの大半以上は、
地下鉄沿線に住んでいる。

地下鉄の魅力。
それは地上にある景色や季節感をもなく、
時間の感覚も時としてわからず、
ただ無機質な駅構内やひたすらに暗黙を走る電車や
押し黙る人の流れが好きだった。

地下鉄が意味する深層心理はどんなものかはわからないけど、
地下鉄には何か惹かれる魅力がある。

でも最近は、地下にも景色があるように感じ始めた。
同じ地下でも繁華街や郊外では雰囲気は異なるし、
繁華街でも銀座や新宿、六本木辺りでも色が違う。

もちろん、その場所にいるからという意識が働くものの、
何もそこがただ無機質なわけではなかった。

地下はきっと、
地上には出し切れない人間の想いやその土地の裏姿が詰まって
マグマまではいかないにしても、
パワーを持っているのかもしれない。

地下鉄のドアに写る自分の顔は、
地上の景色を行く電車にはないものを見せる。

きっと、地下鉄が好きなのはそんな人間のパワーなるものを
重ねているからかもしれない。

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2007年08月23日


405 <七色仮面の告白日記>

それでもエンカウンター

エンカウンターとの出会いは今から5年前、
あのときも今頃の時期だった。

当時はまだサンプラザ相談室主催のワークで、
自分は通い始めて2年目にしてようやく重い腰を上げて参加した
グループワークだった。

あのエンカウンターでは見知らぬ他者へ初めてカミングアウトをし、
これをきっかけに個人カウンセリングも進み始めた。
それからいつになく「自分の本当の心に触れて発する」ことに
意識しはじめた。

それから3回目のエンカウンター。
5年前と同じファシリテーター。

懐かしい感覚よりも、
エンカウンターに参加すること自体が面倒くさかった。

2日と短期とはいえ、
何か感情の動きを起こることへの無意識な抵抗もあるだろうし。

まぁそんなことよりも、
とにかく出かけることだけに専念した。

終わってみて、やはり「何か」を持ち帰った。

言葉の不自然な威力、参加者への転移、値引き。。
交流分析(TA)やカウンセリング用語を
総動員してもしつくせない表層の動きよりも、
無意識同士のぶつかり合い。

そりゃ不全感のひとつやふたつはあるだろう。
でも不全感には、自分の無意識にある要素なんだろう。
無意識の要素は本音か嘘かも嗅ぎ分ける。
いかに動物的で直感的な感じ。

あぁ。。
でも、それでも 無意識だろうが意識下だろうが
それも、自分なんだ。  


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2007年08月16日


405 <七色仮面の告白日記>

405サマー2007

この三ヶ月は、昼夜逆転の生活になっていた。

色々なことが片付きはじめ、
それまでの疲れを癒すかのように、
眠ることが中心の生活だ。

無理に起きる必要はない。
無理に外に出てる必要はない。
無理にスケジュールを立てる必要はない。
こんなことをしていれば、昼夜逆転にもなりそうな感じ。

そういや去年の今頃は朝から仕事に出かけ、
通勤ラッシュの地下鉄の駅で、
何度ともなくめまいを感じていたっけ。

朝の駅ほどエネルギッシュなものはないだろうと
心を奮い立たせては、
人波に疑問を感じることもなく、
ただただその日を過ごすことに必死だった。

よくまぁ、続いたもんだ。

一年前、昼夜逆転とはいえこんな生活が送れるとは、
思いもしなかった。
毎日のように寝すぎた頭は、思考回路ゼロ。

自我状態や脚本は考えない。
時間なんてどうでもいい。
人なんてどうでもいい。
先のことなんてどうでもいい。
ただ思いつくままに過ごす。

そういや先週は終バス近い便で宛てもなくフラフラして、
途中電車と接続する停留所で降り、
駅のベンチで何本も電車を見送ってはボーッとしていたっけ。

夜の駅ほど静かなものはないだろうと
心に波すら立たず、
電車を降りる人達に無関心で、
ただただ進みの遅い夜の時間を過ごした。

やれやれ。
さ、ちょっとは昼の時間でも過ごしてみようかな。

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2007年08月09日


405 <七色仮面の告白日記>

外見の世界を泳いで

ブランドものに目がない時期がありました。

小物はフランス、
洋服はイタリア そういや髪形や身体にも金をかけていました。
美容室は原宿、
身体はスポーツジムでボディをつくる
ライフスタイルもお洒落かつ派手に。
住まいは世田谷一等地、
行きつけのバーではボトルキープ 夜の展開はスリリングに。
声をかけるのは着席後30分、
声をかけられたら一夜のお遊び

一般社会ではまだ受け入れられていない
ゲイセクシャリティを日々包み隠し、
それを花開かせるかのようにマイノリティの世界では外見を装い、
日々その流れについていこうとしていた。

等身大の堅実さよりも、薔薇の世界を選んだ。
中には、堅実にゲイライフを送っている人もいます。
でも自分はそれがゲイのライフスタイル流儀であると思ったし、
憧れでもあった。
選ばれるために一夜でもいいから「らしく」楽しみたいということ
よりも、無防備な快楽と虚栄に走った。

でもいくら外見を装っても、メッキはメッキ、立て板に水。
分相応にあわない生活は、何かを犠牲にしている。
それでもなんとかその生活スタイルを維持しようとする。

わかってた、
自分の問題を包み隠してその場の快楽と虚栄に力を注いでたこと。

ブランド物を持っていたらモテるのか、
身体がいいならチヤホヤされるのか、
住まいがいいなら選ばれるのかという自問に
そんなにもてたいか、
そんなにチヤホヤされたいか、
そんなに選ばれたいかという自答をしつつ。
でも答えはいつも「選ばれてなんぼ」だった。

内面から入る選ばれ方なんて数少ない。
それは自分もしかり。
内面を見ようとするほどに、恋愛の惚れた腫れたができる相手か、
いざこざゲームにふさわしい相手なのかぐらいで、
その相手自身のことは二の次。
自分の問題がどうにもならずして
あまりにも相手を受け入れる度量ないか、
あまりにも自己愛的発想が多いのか。

第一内面について話すことほど、危険なことはない。
なぜなら、外見重視の世界だから。
もしそれに触れたくないなら外見に勤しみ、お遊びを続けていく。
でも自分にはそれは長続きができるものではなかったし、
必然的に長くは続かなかった。

それは「年齢」だ。
「はなのいろはうつりにけりないたづらに。。」

年を追うごとに実年齢ではピークをすぎ、
生活では現実味を帯び始めてくる。
ただでさえ、男30代というのはなかなか選ばれにくい世界。

もしピークを過ぎても選ばれたいのなら、
社会ステータスや明確なビジョンを持つか、
現在流行りの身体つきか「男役」に徹する人。
現実味を帯び始めるなかで、外見は以前と同様に求められ、
どこか無理をしている自分像。
それでも出会いが欲しければ、どうしても外見になる。
その人自身をイメージづけるのは、皮肉にも外見の情報だけ。
それはWebでプロフィールを投げかけてもレスポンスがないものが、
実際に会って仮に年齢やプライベートを言わず、
それなりな格好とか雰囲気をしていれば、
声はかかるしそれなりの展開の見込みはまだある。

これぞ外見の世界の極みだと感じた。
外見の極みを知ることで、
等身大の「さじ加減」を調節できるようになり、
ようやく肩の荷が下りた。

今でもチヤホヤされたいし、モテたい願望はある。
でもかつてと違うのは外見だけの薄い勝負服だけでなく、
ゲイの世界の儚さと危うさと、
ゲイでないと感じられないギリギリ感を楽しみ、
そして外見のうちに秘める心中に「共感」できるからだ。

そして「外見重視である」意味合いとゲイ格差をしていたのは
誰よりも自分だったと気づいたから。


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