2008年04月24日


405 <七色仮面の告白日記>

似合うかな?

相手の操作心理とダメージの報酬

脚本からぬけたくて
パターンからぬけたくて
ちゃんとはなしてみたところで、

スタートライン

「さぁ、どうするの?」
「あなたの問題であり決断」

そう、自分の問題
無意識は認知行動にたてつく

今出てくる言葉がこういう類なら、自分はNot OKのドレスをまとうわ


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2008年04月17日


405 <七色仮面の告白日記>

私は二回死んだ

先週、東名高速で起きたトラック脱輪事故を見て、自分の経験を照らした内容です。

あれは15年前、最初の人、通称「社長」と付き合って2年目の夏のことです。
彼は根っからの車マニアで、運転はスピード魔かつテクニシャン。
それでいて安定した走行は、自分には危険を感じない乗り心地だった。

その夏も二人で外房海岸に出かけ、
その帰り道に初めて彼の車で事故を経験した。

東関東道湾岸習志野の手前ゆるいカーブのところで、
車が急に横揺れはじめ、横を見ると煙らしきものが見えた。

異変に気づいた彼はサイドブレーキを引き、ハンドルを路肩側に切ると車が傾き、火花と煙を散らせながら車が止まった。

幸いにも車は横転しなかったが、バックミラー越しには脱輪したタイヤが転がっていた。

彼の運転技術と判断で、自分らは一命をとりとめ、
脱輪タイヤもたまたま後方に車が走っていなく、
二次事故には至らなかった。

あのとき、自分は死んだと思った。一瞬のことだけど、そう思った。

逆に助かったという思いはさほどなく、車をトラウマに思うこともなかった。

自分らは反動的に笑いながら「あぶねぇ」と言い、JAFが来るのを待った。

今、彼とは音信不通だが、だぶん東名高速の事故を見て、あの夏を思い出しただろう。

それから12年後、
今度は自らの「病」で、死を感じることになった。

何気無く受けた無料検診、
ただ自分のカラダを知っておこう程度の簡単な動機だった。
もちろん結果は異常なしかと思ったが、診断結果を聞いて茫然とした。

なんだかんだ説明を受け、建物を出たものの、何をしてよいかわからないし、脳が働かない。
かといって泣くこともわからず、何か話したかった。

当時カミングアウトしていない両親ではなく、かなりんに電話をした。

ちょうどCSNではじめて企画した「エンカウンターグループ」の前日だった。
かなりんが電話越しに一生懸命話してくれたけど、
正直何も頭に入ってこなかった。

あのときも死を感じた。
そしてそれが更なる引き金になり、人生脚本を演じた。

今、病に関しては安定し、こうして日常を送っている。

この二つについて、何か遭うべくして遭った感じもしていた、自分の日常。

事故や病でつきつけられた目に見えぬ「死」のこと。

言葉の意味合いや、遭った内容にそぐわないかもしれないけど、自分は思う。

「私は二回死んだ」


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2008年04月10日


405 <七色仮面の告白日記>

フランケンシュタインと呼ばれて

幼稚園の頃、
園内で行進の練習をしているとき、たまたま後ろの子に押されて、近くにあったバラ園に突っ込んでしまいました。

キレイなはずの幾多のバラが凶器になり、その棘により自分の顔には無数の傷がつきました。

今の時代なら訴訟を起こしかねないこのことは菓子折りでことが済み、親は親で忙しく働いていました。

そして今でも、自分の顔に薄く痕として残っています。

当時の傷の様子から、
園児や住み込みの子どもらには当時の体格もあって、フランケンシュタインと言われた。

純粋な感想ゆえに、強烈な言葉の応酬。
本当の子どもの感情だけに、配慮のない狂暴さ。
傷は薄くなるけど、
記憶は薄くならない残酷さ。

純粋という言葉の大きさを知り、発する責任は大人の感情の役目。

確にそうだ。でも時々思う。そんなこと知ったことではない。

自分は自分なりに、他人は他人なりに傷をつくって生きてきたこと。

どこかに痕がありうずくから、それを変える認知がある。

でも時々痛む傷は、フランケンシュタインと言われた自分の感情の証として、反動形成的に外見にこだわり続ける。

さ、自分はフランケンからバラになるのか


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2008年04月03日


405 <七色仮面の告白日記>

傷き春・気づき春

春はキライだった。

なんとか一年、自分が築いた城壁をクラス替えやら進学やら異動やらで、
また一から新しい環境で造りなおさないといけない。

新しい門出の雰囲気は、不安の裏かえしの分よけいに華やいで見えたりして。
それに気づかぬふりして楽しむなんて、どこに何がなんて余裕はありゃしない。
自分はとにかく世間体をつけることに意識が集中して、
ましてやセクシャリティ対策をどうするかとか、
なにをどう言い訳するかなんてことを考えてた。

なんでそこまでしなきゃいけないのかって、怒りながら。
でもそれは、一般社会を渡るため以外にほかはないだろう。
そんな春はキライだった。

今年…

サクラやジンチョウゲの香りが気になった。
そういや待合室から見える黄色の花ばなも。

開店前から列をなしてるパン屋が気になり、並んで買ってみたら自分のテイストに合うことがわかった。

火曜木曜にしか開店しない修理屋さん?に老いぼれたシーズーがいたことに気づいた。

窓から見える庭の木が去年伐採されたけど、そこから新しく芽吹き花をつけたのに気づいた。

そして、この春キライだった自分が、
春もいいじゃんというのに気づいた。

私がそこにいないと思うときは、そこにいないのさ。でも私がそこにいないと思っても、私はそこにいる


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2008年03月27日


405 <七色仮面の告白日記>

傾鳥・クリちゃん

今から15年以上も前になるか、我が家にセキセイインコがやって来た。

とはいえ年の暮れで、母親がそれまで飼っていたインコを逃がしたり、死なせてしまったりして、
もの寂しさから替わりのインコを衝動買いしてきたのです。

年末の寒い時期は、インコの繁殖期に適していなく、致死率は高いそうだ。
やってきたヒナも3日でダメかもというほどに、弱々しかった。

しかし献身の介護?あってか、みるみる元気になり、
我が家での伝説となるほど長生きをしたのです。

名前はクリちゃん。
目が大きくからだのバランスからして頭も大きい。
止まり木につかまっても頭とのバランスがとれず頼りなく、
夜は寝惚けてドサッと落ちては「グェ」と鳴くこともあり、その愛嬌とインコらしくないところが、
当時の自分には最高のトモダチだった。

言葉を憶えるのは非常に早く、名前のリピートはよくあるけど、クリちゃんはなぜか「たしかに!」という言葉も連呼していました。

そして家の中を飛び回らないように羽根を切り揃えたので、
ほとんど犬か猫かに近いインコになったけど、ほんとによくなついたクリちゃん。

クリちゃんは自分のあとをつけてあるく習性があり、自分としては部屋をフンでよごしたくないから
「来ちゃだめ〜」と言うと、必ず部屋の前でジッと止まり、あまりのクリちゃん視線に仕方なくというか、
かわいくて「入っておいで」と言うと部屋に入っては、自分と遊んでいました。
クリちゃんが長生きしたぶん、家族それぞれに逸話はたくさんあった。

きゅうりが大好き。
ビールを飲んで酔っぱらう。
誰かが帰ってくると、玄関まで迎えに行く。
学校で嫌なことがあったら、クリちゃんを膝にのせ聞いてもらう。
そういう意味では、「傾聴」してくれた鳥でしたね。

色々和ませてくれたな…

でもある怪我から、別れは近づいていた。
たまたま自分の帰りが遅くなり、いつものように帰ると母親か「クリちゃんがお父さんに踏まれた!」
と、慌てるばかりでお父さんは晩酌中。

「動物病院探したの?」と聞いても探さない。
あまりの呑気さに自分は怒り心頭で親をなじり、急いでクルマを走らせてなんとか深夜でも受付てくれる動物病院を探し、応急手当てをした。

結局複雑骨折をして治る見込みはなく、左脚はビッコになった。それでもクリちゃんは持ち前の気性とパワーで、
片脚でも自分のあとを追い、そのいじらしさが逆にいたたまれない気持ちにさせた。

しかし二度目も同じく父親に踏まれ、かかりつけの病院へ行くも休診で別の病院へ行ったけど、
いつもの応急処置とは違い、なぜかテーピング。この処置がクリちゃんを衰弱させていった。

ただでさえ左脚ビッコなんとかなのに今度は右脚。そしてテーピングの強さと通気性から、壊死しはじめたのです。かかりつけの病院で誤った処置だと説明を受けた時点で、手遅れでした。

すでに自分が歩いても一緒についてこれないクリちゃん。
クリちゃんもなんとか、自分に追いつこうとする姿は、今でも鮮明に思い出します。
動物的感覚のあの一生懸命さ。

クリちゃんの衰弱は日に増し、最期は春間近な今頃、
保温器にくるまりいつもの、でも弱々しい「グェ」を発して亡くなった。

時々実家に帰ると、クリちゃんが居そうな感じになる。

会いたいです。

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2008年03月20日


405 <七色仮面の告白日記>

子ぐまのしんたん

しんたんは「子ぐま」です。

カラダが大きい割にはひ弱で引っ込み時案、
いつも怯えていました。

もちろんおとうさん、おかあさんもいました。
でもおとうさんはそんなしんたんよりも、元気のいいイッチを可愛がり、
おかあさんは「みんなの目」を気にして、しんたんを育てました。

しんたんはいい子でいました。
幼稚園のお遊戯会の日に病気をしてもきちんと参加し、
遊んでいたおもちゃを片づけないとおとうさんに全部捨てられちゃうからせっせと片して、
大嫌いなゴキブリを無理矢理顔に近づけられ、大泣きしながらも耐えて。

でも、おとうさんとおかあさんが好きでした。

しんたんは学校へ通うようになり、友だちができました。
周りは活発で勉強ができる子がたくさんいたけど、
しんたんはひ弱だとか動きがトロイとかで、
みんなの中に入れませんでした。

学校へ行きたくないと言うとおとうさんに叱られるので、黙って休まず通いました。

次第に「うそをついて話を合わせる」ことを知り、
なんとかクラスの子の中に居れるようになりました。

ある日体育の時間に、しんたんがミスをしたことでクラスの子はすごく怒り、
それからみんなと話さなくなりました。

でもしんたんはおとうさんやおかあさんには、何も言いませんでした。

だっていい子だから。

それから先色んなことがあっても、ただいい子でいたよ。

いい子だね、しんたん。
いい子だね、しんたん。
いい子だね、しんたん。

でもしんたんは知っていました。

みんな大っ嫌いだってこと。
みんないなくなっちゃえって。
思い出なんてなくなっちゃえって。

今、しんたんは405と暮らしてます。

よく眠るしんたん、
疲れたんだね、しんたん。

もういいよ、しんたん。
暴れたくなったら405が見ていてあげるから、
安心して休みなさい。


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2008年03月13日


405 <七色仮面の告白日記>

迷い薔薇道

最近「心のエネルギー」と、それに関連して「センス」について、自分の在り方を照らすことが多くなった。

心のエネルギーとセンスは意味として全く別物だけど、
ある共通点を持ちつつこの二つの相乗効果は、
時として周りの雰囲気をもかえる、図りしれないものを生むように思う。

その共通点とは、努力やお金では得られない、まさに天の二物のようなものだろう。センスがあるからエネルギーが生き、その逆もしかり。

おそらく自分の支配性からくるだろうこの発想は、どんなシーンでも自分で在りたいからなのだろうか。

センス。
これは主観客観により、見えかたが変わる。あまりに主観にセンスの自負が強いと、
一般性からズレる一人相撲になる。
でも社会に受け入れられれば、それなりのセンスのよさを気取れる。

特に五感をつかった芸術や心理分野についてのセンスは、それが強みになる場合もある。

しかしセンスは、社会評価を基準にすればいやらしいものになる。デザインやライフスタイルなどは、その際たるもので、それほど評価的センスは、とても流動的で社会に左右されやすい。

エネルギーはどうだろう。
自分はこれこそその人たるものの、所以の一部に思う。

おととい、男Nのブログにもエネルギーについて書かれていました。
エネルギーは強弱関係なく誰もが持つ心気で、その存在を知るかどうかは
図れない未知の世界ではなかろうか。

現在の高齢の方にエネルギーの強さを感じる。
それをレポートすることは考えていないが、
形はどうであれ、今の日本をつくりあげた功績は、今の高齢者だ。

物質的に豊かに暮らすこと、
すべてゼロからのスタート、
そして高度経済成長。

日本を経済大国へ押し上げる原動力は、
心の子どもを物質や表現などで癒し、還元させることか、
あるいは心について、度外視せざるをえないほどにがむしゃらだったのだろう。

その時代を生き抜いた力は、物が溢れる現代に生きる自分には、
想像のつかない力がうごめいていたのだろう。

しかしそういった時代にも、現代社会に認識されつつある心の問題はあったはず。
そういうご時世での心のエネルギー不足は、どう扱われてきたのか。

世間体、出世主義…
ドロップアウト、ただ我慢を強いられる。度外視してきたからこそ新たな問題が浮上し、それは少なくとも自分には影響をしている。

今、自分には自分というセンスも感じず、エネルギーが欠けていると感じる。

ただやみくもにセンスやエネルギーが欲しいわけじゃない。もっと忠実に貪欲になりたいというわけでもない。

自分らしさのセンスと、どんなときでも自分で居られるエネルギーを携え、
いつしかの自己肯定につながると信じているからこそ、自分はマイノリティーたるいばらの道を往くのだろう。


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