2008年06月12日


405 <七色仮面の告白日記>

通りゃんせ

小、中、高校とうまく友人関係が築けぬまま大学に入学した。

キャンパスライフなんて、とても素敵でときめきを与えるような意味に捉えた
当時の自分は、それを信じて疑わなかった。

ベビーブーム世代で、大学に入るのが困難な時代、勉強嫌いな自分がやっとこさ補欠合格したのは大学の夜間部、
こうして「素敵なキャンパスライフ」を送ることができるようになった。


時同じくして、ゲイライフも実家にいながら密かに始まりつつあった。
どちらかというと自分にはパーソナリティの部分からして一番フィットし、
それこそキャンパスライフより「ときめき感」が大きかった。
言わずと知れた新宿二丁目への出入りも、多くなった。

キャンパスライフを始めたものの、どうしてもつまづくのが新たな交流づくり。
時代の反映か、当時の夜間部で社会人は見当たらず、校舎内は同年代ばかり。

交される話といえば、バイク、車、スポーツ、ゲームソフト、女子のこと等々。
ほとんど高校の延長にあるような雰囲気で、幻滅したのを覚えている。

大学というのは、高等かつ専門分野の学問うんぬんを…
なんてどこ吹く風の校舎内は、自分は自分の居場所を見つけるので必死。
誰に何を話していいのかわからず、ただ時が過ぎていった。

ゲイライフはといえば、一応「若さと好み」だけである程度チヤホヤされ、
黙って道を歩いてても声をかけてくる人がいる。

それこそ一晩共にしようものなら、そこから知らぬ間に交流の輪が出来始め、
「紹介するよ」「一緒に飲もうよ」と、面白いほどに知り合いが増えていった。

クローズにして話すことなく、どんな「男性」がタイプとか、どんなアイドルが好きとか、
カラオケも平気で女性アイドルが歌える環境は、初めての感覚だった。

そして日頃の不満を「何なのよ、ふんっ!」と、ひとつでもオネエ言葉の毒舌に変えて吐けば周りが笑い、
その場を独り占めできる感覚が快感だった。

「高慢ちき」という態度が、いわゆるステータスのように思えたし、笑ってくれる周りがいたことを、
それこそ信じて疑わずにやってきた。

新宿の出入りには金がかかり、ある程度のこ洒落た服装も必要。

そのため、昼はバイトで金を稼ぎ、夜は大学という「勤労学生」になり、一般社会からは褒められるものの、
実情は、大学そっちのけになっていった。

大学で孤立している自分、
バイト先や両親の前での「いい子」を演じる自分、
そして新宿でオープンにはしゃぐ自分。

この大きな三分裂感は、年齢を追うごとに肥大し、処理力を越え、自虐の道のはじまりでした。



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2008年06月05日


405 <七色仮面の告白日記>

こころの置き土産

カミングアウトをしてから一年。

振り返ってみると、
当初はカミングアウトをしたことで「生活」というカテゴリーでの対策がすすみ、
それにより全てが解決したように思えた。

でもそうじゃないと気づかされたのは、今年のエンカウンターグループだった。

そうじゃないこと、それはカミングアウトに至るまでの歩みの新たな自己分析と、
カミングアウト以降の行動・思考・感情、例えるなら「こころの置き土産」への取り組みだ。

カミングアウトはカミングウトで恐怖にかられたけど、
それによって浮上した問題の取り組みがこんなにも辛く、厳しく、シビアに感じるとは思わなかった。

先日のニュースで、保護観察中の元教師が再逮捕された。

予測だけど、刑務所で「社会更正」を目的とした日々の中、
元教師が逮捕に至った「小学生を対象にした、残虐な画像のサイトアップ(事件詳細は不明)」
という行為への精神的振り替えりが、元教師の中でどう行われたのだろうか。

このトピックを出したのは様相こそ違えど、
自分のカミングアウトとそれ以降の取り組みに、なにかなぞらえてしまう感じがあるからだ。

それは元教師への弁護ではなく、逮捕して刑をくらって終わりではないということ。
逮捕という区切りにより、自分のした行為の自己分析の必要性を感じずにはいられなかったことだ。

かといって、罪を犯した人の自己分析が功を奏するかといえば、一概には言い切れないはず。

分析を果敢に取り組めば再犯は防げるだろうが、人により「しない」という選択が適切な場合もある。

いずれにせよ人には見たくないもの、感じたくないもの、思い出したくないものはそれぞれにある。

話を戻すと、自分のカミングアウトはあくまで核となる問題を取り出したにすぎず、
肝心なのは取り出した問題を、以降自分の中でどうかたちにしていくか。

ここ最近の自分のブログが、まさにそれを証明しているようだ。

それこそ今でも見たくない、触れたくないものはたくさんあるかもしれない。見られたとしても、重箱の隅にあるかもしれない。

自分は今、どこへ向かっているのかわからない。

過去や現在に怒りや悲しみを感じても、
関係者にこすっからさで接しても、
これまでのいきさつを、演技的裏面で「不幸な自分」を表現してしまうことも、

その先に待っているのは、自分への照り返しだと思うことが、
今精一杯の「できる」感じだ。


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2008年05月29日


405 <七色仮面の告白日記>

息子の役目

現在、父が直腸ガンで二度目の入院をしています。

とはいっても、今回は快復のための入院で、
手術も無事終わり、あとは退院を待つだけとなりました。

特に以前両親が住みこみで働いていたお店の関係者には、
見舞いに来たり父にメールで励ましたりしていたので、
母とも相談して直接会いに行ったり、メールで報告を済ませたのです。
ひとまず安心かなと思ったところ、
そのうちの一人からこんな一文のメールが届きました。

「405は息子の役目をちゃんと果たして立派です。」

メールの送信者は、住みこみ先の子でした。
それを読み、なんだかイヤな気分になりました。

息子の役目を果たす??
立派だ??
なんだそれは??

確かにこれまでのいきさつを考えると大変だったし、
自分も母もホッとはした。

その大変さを知らないくせにとか、
「役目を果たす」的なそんなものじゃない。

やっぱり辿りつくのは、
住みこみの家の子どもと父との確執なんだなと。

その家の子ども達は、現在でいうDV家庭で
自分の父に「父親」を投影した気持ちもわからなくはない。
そして父がその子ども達を、非常にかわいがっているように見えたのも。

でもそれによって、自分は自分の人生脚本を描いてしまった。

父をとりやがって…

悲しみと怒りの混在を感じる自分。
立派というストロークに、裏面を感じる自分。

自分の子どもの感情反応であっても、
それって何さみたいな。

感じた分だけ、それがまるで上に向かって吐いたものが
自分に降りかかり、自分が吐いたものだらけになってしまうようなありさま。

「それはイヤです」と言いづらい関係だと、難しい返事。

もしかして、自分が無意識に報告という手段で自分をディスカウント、
あるいはゲームをしかけたのか。

ちょっと考えてみます…


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2008年05月22日


405 <七色仮面の告白日記>

しんたんが伝えたこと

ある日、子ぐまのしんたんが自分に尋ねました。

『ぼくは人なんか大キライ、405はキライじゃないの?』

自分は答えに詰まった。
キライってどういうことなの?

「わからないよ」ってしんたんに言ったら、
しんたんは怒りだした。

『ウソだ!405も人キライなはず!なのになんではっきり言わないの!』
と言って噛みついてきた。

自分は「だって人にキライって言うのも、感じるのもイヤなんだよ。」
と言うと、しんたんはさらに怒りながらこう聞いてきた。

『キライって言ったり、怒ったり、感じたりしたっていいじゃん!』

確かにそうだ。
だって自分のキモチがそう思うなら、それでいい。
それは自分でもわかってるはずだ。

自分は「人にきらわれたくないし、こわいんだよ」と答えた。

しんたんは『じゃあ405は405のことをきらわれたくないし、こわいんだね。』と言った。

「それは他人だからであって、自分のことはきらいだな」と言うと、

『405は他人にきらわれたくないのに、自分がキライってヘンだよ』

変だね、そうだね。
じゃあどうすればいいのかな、しんたん。

『他人もキライって言えばいいじゃん、思えばいいじゃん、感じればいいじゃん』

簡単そうでできないこと。
でもそれを越えない限り、他人へのキライの先にある自分の感情に気づけない。

しんたんが怒りを通して伝えた、自分への信用の一歩なのだろう。

そうだろ、しんたん。

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2008年05月15日


405 <七色仮面の告白日記>

嗜好品と自我

人それぞれに、嗜好品があるかと思います。
アルコール、タバコ、菓子類といったものは、
一般的なところでしょうか。

それらは過度すぎると身体に何らかの兆候が出て、
さらにそれが行きすぎ生活に影響が出はじめると、依存症と呼ばれるところでしょうか。

適度と依存の境界は、大人の自我で調整すると思います。その自我も人それぞれにあるので、何をバロメーターにすればいいのかといえば、
「〜過ぎないように」や「一日の目安」とかで適量を知るくらいでしょう。

でもそう簡単に、目安通りにいくものでしょうか。

ストレスフルなときなんかは、ヤケを起こしてそんな目安は度外視するだろうし、
楽しいときは多少のハメは外してしまうもの。
そんなことを気にして、思うようき楽しめないなら、やめたほうがいいと思うけどやめられない。

そんなとき、人はどう感じながら嗜好品を楽しむのだろう。

身のまわりには色んな誘惑があり、大人の自我で調整しながら適度に楽しむのがベストで理想なはず。

それを越えようするのが「欲」だろうけど、そのときの葛藤は、自分は楽しい感じがしない。

楽しいことをしたいのに、生活に影響が出るからと考えて、結局楽しめなかったりする。
まして依存症とか言われると、ますます不快な気分になる。

酷だよな…

嗜好品と依存の表裏一体を楽しむ大人の自我を獲得すれば、そんなことないのだろうけど。


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2008年05月08日


405 <七色仮面の告白日記>

根気は乱気

去年からレギュラーで始めたこのブログ。我ながら続いているものだ。

もちろん自分が参加するより先にブログを書いているメンバーもいるわけだから、
なおさらこのブログ自体よく続いていると思う。

自分について言えば例え週一でも、去年からブログで書きたいことを残していて、
それを振り返るにつけ、「日常を歩んできてきたんだ」と、
大げさだけど自負する。

日常を生きるとはごく当たり前そうで、でもそうでもない。

一瞬一瞬の自分の決断や感情の積み重ねが「日常」にまとまり、
それが連続すれば月となり年となる。

その日常の積み重ねは、自分にとってとても苦手だ。
それは自分の中にある日常の歩みが、とても「根気」のいることのように思えるからだ。

日常を根気よくというイメージが自分にプレッシャーやストレスをかけ、その代償を何らかのかたちで要求したがるから。

自分は根気強くない。コツコツというタイプでもない。むしろものぐさ太郎だ。

この根気のなさは、仕事でも人間関係でも生き方でも、ひょっこり顔を出す。

自分の根気のなさは、何かをしていても面倒くさいが根底にある。

例えば仕事で「ここまで」とわかっても、始めるとやり終わらないと面倒だけど落ち着かない。
こういうことを繰り返すと、続いていくことに苦痛を感じる。
ましてや目に見えないものに、じっくり取り組んでいくことなんてもってのほか。すぐに結果が出ないと落ち着かないし、投げ出したくなる。

だからといってコツコツ根気よくやれていたのは?と問われれば、ないこともなかった。
例えばエアロビクスは、病の宣告でヤル気を失い今は辞めてしまったけど、始めたのが遅かったにも関わらず、
あちこちのスタジオによく通ったりした。なかば強迫的な勢いだったけど、苦もなく、楽しかった。

根気をやっかいな自分の問題にしているのは、自分が好まないものをあえて選択して取り組み、自分の力をディスカウントするところにある。

でも中途半端を禁じているわりに、それでも続けなきゃいけないという縛りをつけ、
自分なりに極限までやっても最後には「嫌だ」の感情に身を任せ、結局ドロップアウトすることで、ダメダメになる。

仮にできたとしても周囲の評価だけは気になり欲しくなる、わがままというか「いい子ちゃん」欲求が暴れる。

あまりにもそのパターンが多かった。何も根気強くが善で、根をあげるが悪でという、決まりがあるわけじゃない。
でもそれがストレスのもとだった。

「いいじゃん急がなくても、やることやれば」

その曖昧な立場にいられず、すぐ結果を出したくなる。仕事も人間関係も、そして人生も。

更に日常において「明日何が起こるかな」なんていう楽しみは、別に欲しいものでもない。

早く明日になり、明日の自分の定位置を見つけてやっていく。それでいい。

そんな気持ちの裏に、安定こそ足元すくわれかねず、進歩もしなきゃ選択もしないという思考がある。
根気が安定を生むというなら、この二つの共存は自分にとって苦痛以外の何者でもない。

きっと社会はそれを善であるかのごとく、その発想にうごめいているのだろう。

「先のことなんてわかりゃしないよ」

そんなこと言っておいて、結局は何かの枠へと誘うこの響きには堪えがたい、イライラ感がある。

自分は、根気と安定神話をどこか敵視している。
たぶんこの感情が支配している以上、自分が生きているこの世界は恐らく脅威であり、敵のひとつかもしれない。
ましてやそれを意識しているようでは、自分で自分を枠にはめようとしていることを、ただひけらかしている感じだ。

自分の尺度が、それを解き放つまでは。


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2008年05月01日


405 <七色仮面の告白日記>

口ずさむもの 我をもつかめず

「私について 
  語られる出来事
 漏れなく聞いてから
  愛しはじめて」

この歌をご存知でしょうか。

きっと恋愛の歌なのでしょうが、
自分には別の伏線があるように思えて、
よく口ずさむ歌のひとつです。

その伏線は自分に向けられたような感じというのでしょうか、
例えばどんなときかといえば、
日常で暴れだす自分の愛情欲求の感情に対してとか、
訳もわからない苛立ち、
無気力にさいなまれたときとかに、口ずさむかなぁ。

「誰かの後に
  ついていきたい
 頼りない生き物
  心がくしゃみ」

自分の人生、自分でつくると言いつつも
世間体たるものを気にし始めると、
このあたりのフレーズが無意識から
「それはないんじゃない?」といいがかりをつけてきたり、
それでもなきゃ「やっぱりな。。」と
安易な妥協をして、感情を値引いたり。

「薔薇かもしれない 
  毒かもしれない
 不思議かも 
  炎かもしれない」

そうだね、自分って何だろう。。。
日常で見せている姿、どんな場面でも自分は自分。
でもその無意識の正体が、きっとそれぞれの場面に出てきては
自分を揺り動かし、人と接し、日々を生きている。
その当たり前さが、自分を苦しめるものだったり。

「薔薇ならどうする 
  毒ならどうする
 たぶん 
  悔やむよあなた」

「その人の正体」という表現は、何かおどろおどろしいイメージがあり、
きっと自分や社会はそういう「正体」といったものに弱いもので。
そのために世間体を装ったり、自分の感情を押し殺したりして
自分で自分で隠し、自分を裏切る。
そんなものなんでしょう、社会を生ききることって…ね。

「私について 
  知らなすぎるのは
 どんな人より 
  たぶん私よ…」

わかったつもりでいながらも、
当の自分が自分であることすらわからない。
例えそれを捕まえ、表現でき、自分で受け入れられたときですら、
自分についての本髄は、わかるものなのでしょうか。。。

自分はこれからも、この歌を口ずさむでしょう。

自分を客観するとき、迷ったとき、そして
自分について語ることができても。

※尚、歌のタイトルは各自でお調べくださいね。
 作詞者に注目でしょうかね。

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