2008年07月31日


405 <七色仮面の告白日記>

一言のドラマ

「辛いです」

この一言に限らず、「いやだ」とか「こわい」でもいい、
これらたった一言に、いくつものドラマや思いがあるのだろう。

「辛い」「悲しい」を感じれば、当人にとってそうなんだろうし、
仮にラケット感情だと気づいていても、辛いものは辛く、悲しいものは悲しい。

その一言に隠されたドラマは、本人にしかわからないし、本人ですらもなんだかわからないこともあるだろう。

一言の奥にあるドラマ、どんな思いが籠もっているのだろうか。

下手に詮索するのではなく、一言の素直さに浸りたいものだ。

素直に浸ることは、忍耐ほど強くなく、我慢というほど縛りのないような感覚で、
留まってみる自我の強さが必要なのだろう。

そしてその感覚は、その一言を発した当人以外に感じることができないんだと、
思い知らされることへの自己への「ゆとり」くらいはあってもいいな。

そんな風に思う自分を抱えて、これからどうしたいのか。。

短命な酷暑を味わい、晩夏には、何かあるかないのかと物思いにふけたいものです。



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2008年07月24日


405 <七色仮面の告白日記>

ナカノなでしこ七変化

きっかけは、一冊の殴り書き用のノートを見つけたことだった。

思えばこれまでの自分のブログは、我ながら「自己愛」に満ちたものだなと、つくづく感じた。

両親や関わった人、社会に対しての被害者意識、弱者感覚を、
自分の心模様としてずっと呪怨のように残し続け、ブログで表す。

ブログを書く際は、自己愛からくる被害者意識な思いが、いつも基準になっていた。

今でもその感じはあって、それを完全に払拭したり、受容しているかは、感覚ではわかっていない。

今までのブログはそれはそれで「405のブログ」ではあるけど、
でもさすがに「もういいだろう」と感じ初めた。

この殴り書きノートを見つけるまでは。

もういいだろうとは、その被害者意識だけではなく、別の視点を意識するというだ。

自己愛強者の自分には何ともしんどく、アンビバレンツな状態を引き起こしたり、
下手すればスタンプを貯めかねてしまいそうな思いだ。

こう言ってる自体がもうすでに「自己愛に入っている」気もあり、
別の視点とは得にくいものなのだろう。

なぜそうしたいのか。

それは被害者と表裏一体にある「加害者」の意識を、自分で持ちたいからだ。

別に事件を起こすとかでなく、また今までの思いや感じを「事なかれ」にしたり、
値引きをしたりするのとは違う。

加害者意識があることで、様相の捉え方にこれまでとは違うものを与えそうだからだ。

例えばある一つの出来事に、自分の課題や傾向から発する感情が湧き起こる。
それはそれでいいけど、じゃあ「どうするのか」に繋げるために、
被害者、弱者視点だけではあまりにも偏っていないか、もしかしたら同時に加害者でもあるのではないか、という感じがしたからだ。

ゲイのことも、病気のことも、金銭問題のことも、過去の何もかもを、
自分に味方らしきもの、たぶん自己愛を守るための被害者呪怨を装備していないと、生きていけない感じがしていた。

その感じが、もううんざりしている。

それともう一つ、先週のCS応用実践講座での講師である高瀬先生の一言。

「自分を慈しむ」ということ。
どんな自分だっていい、何かができなゃいけないわけでもない、それでも自分を慈しんでやることを。

慈しむ感覚は、今でも「なんだろう」という感じがする。
例えで、ペットのインコ「クリちゃん」の話をしたけど、
あの時は何を感じたのだろうか。

自分は「加害者にもなりうる」ことと「慈しむこと」を糧に、飛び立ちたい。

そう簡単にはいかないものだろうし、また被害者視点になることがあるかもしれない。
更には強迫的に意識するかもしれない、でも自分の中では加害者視点を通じて「人や社会」を、慈しむ感覚で「自分」意識していたい。

殴り書き用ノートの最後のページに、こう書いてあった。

「中野へ引っ越して、失ったものを、これまで自分の人生を携え、再スタートだ。
06年12月26日」



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2008年07月17日


405 <七色仮面の告白日記>

通りゃんせ 〜出生〜

「…女の子が産まれてくるかしら」
「名前はマリコにしよう」

自分は母の羊水に浸かりながら、この会話を聞いた。
しかし、いざ産まれてみると男の子。父親は慌て名前を考え、今の自分の名前をつけたそうだ。

そのせいか、自分は自分の名前が好きではない。由来を聞けばなるほどと思うので、由来通りに生きてみせるどころか、すっかり名前負けした感じだった。

ともあれ、自分がはっきり「女の子かしら」と聞いたかどうかなんて、胎児の段階でわかるわけもない。

だが両親からこの話を聞いたのは事実で、それが自分にとって何を感じさせ、考えさせているのかも知らずに、あっけらかんとしていた。


幼い頃の記憶というのは、今の自分の有り様を正当化するものではないかと思うほど、帳尻を合わせる都合のいい残物だ。

動機づけにせよ、言動にせよ、過去の出来事の感情を鮮明かつ、そのときの状態で今に喚起されるのは、いくら心理学の手法を使っても、全てをリアルには感じられないと思う。

なぜなら、幼い自分が今の自分として考え感じるなんてあり得ないことであるし、
その逆で、今の自分がいくら幼い頃の感情を辿っても、どこか今の自分の感情がちらつくからだ。

でも過去の出来事を知ったところで、今の自分に肯定感を持てる生き方になったのかはわからないし、別の人生を歩めるという手直しが利くはずがない。

別の人生というのは想像を理想化しただけで、今の感情から解き放たれることにはならないぶん、余計に今の自分への否定感を強めるだけだ。

それが胎児の記憶に何らかの関係があったとしても、産まれつき脳細胞の何かの働きが鈍かろうが、歩んできた人生に後戻りもできない。

自分が人や社会的なものに対して、異様なまでに憎み怨むのは、後戻りすら叶わず、誤った認知すらどうすることもできない、自分自身への無力感なのか。

産まれつき「期待に添えられない」と感じただろう自分は、人や社会的なつながりや価値観というものを両親の尺度に求め、それを頼りに生きるほかなかった。

期待にそぐわないと怒られる、自分が何かを希望することを申し訳ないと感じていた。だから「おとなしくいい子」でいるしか、思いつかなかったのだろう。

ここまで被害者意識あるいは被害妄想ぶると、逆に自己認識に麻痺するところが出てくる。
それが受動攻撃か自傷行為による、歪んだ自我の確立だ。

それは「〜のせい」にすることで自分を守り、今の自分の生き方を認めたくない裏付けにしたい、自己愛なんだなと思う。

自分が何をもって「いい子戦略」をとったとしても、
幼少期の記憶には、男の子で産まれよかったのか、
住み込み先の子ども達への嫉妬と可愛がる両親への怨み、
そして後に父から聞いた「育て方がわからない」という放棄されたように言われたことだ。



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2008年07月10日


405 <七色仮面の告白日記>

砂の坂

ここ最近の心模様、

まるで自分の足にチェーンで繋がれ、かなり重い球をつけたまま、
砂の坂を上っているようだ。

重い球は否定感であり、
上るために使われるエネルギーは砂という感情に足をとられ、
そして坂の下には人生脚本の結末がある。

その結末も「どうせ人なんか」というものに加え、
いくつもの剣山が鈍く光っている。

自分は何度も何度も、この砂の坂を上った。

ポーシャ・ネルソンの5つの自叙伝みたいだけど、
時には重さに引きずられたり、
力技で頂上に辿り着きそうなところで力尽きたり、
思い急ぐがゆえにチェーンが絡まったりと、
そんなことを繰り返した。


そう、こんなことがあった。


先週のある日、
かなりん宅の「サンタ(犬)」が、CSNの事務所や研修室のある一階に何度も下りてきた。

サンタともう一匹のフウタ(犬)は、
散歩以外はほとんど二階のかなりん宅にいる。

いつもサンタとフウタは散歩のために、
二階から階段を使うのだけど、
フウタはタッタカ上り下りするのに対し、
サンタは年齢のせいかいつも必死というか、
やっとこさ下りては上る。

でもサンタは階段の途中で自分の顔を見ると、ドドドっと駆け下り寄ってきて、あいさつをしてくれる。

そんなサンタが何を察してかその日に限って、
何度も一階に来てくれた。自分が帰るときも、途中まで下りてきていた。

何か伝えたかったのだろうね。

言葉こそないけど、
サンタは「ボクは見守ることができるんだ。ボクは階段の上り下りは得意じゃないけど、それがボクなんだ。だからちゃんと来いよ」と言っているように、
自分にはそう伝わった。

その日はかなりんと話しているうちに終電に乗り損ね、
自分はかなりんからタクシー代を借りつつも、恵比寿から自宅の中野まで歩いた。

近付きたいのに近付く前に自分や相手を値引き、
何か言ってくれればと思っても何もできなくて、
自分を見捨てないと言ったのに遠くへ行くのかと子どもの感情が暴れ、
そしてその激情によって、自分から見捨ててしまう。
そう、最後は相手が眼中どころか自分の心の中にすらいない。


そういった自分の心の葛藤の中で、
見守るという一見暖かさそうでもあり、冷たくもあるその在り方は、
いかに「寄り添う」ということの深さを感じた。

恵比寿から中野の行程はさすがに疲れたけど、熱った思考を冷ますにはちょうどよかった。

砂の坂にいる自分は、自力で上るしかない。
でもそれを見守る誰かはきっと誰かだろうし、
もしかしたら自分自身なのかもしれない。

一個人としてどうすることも、わかることすらできない。
その際たることが、見守ることなんだなと。

これを本当に自分が感じているなら、
これが自分の心の1%でも言葉にできているなら、
砂の坂の上り方も変わるはずだと、サンタが身をもって伝えてくれたように思う。

そんな心模様のつづく今でも砂と重い球に格闘し、
砂が目に入り上りにくい感じです。



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2008年07月03日


405 <七色仮面の告白日記>

風鈴に心みだれて

今日はどこからか、風鈴の音色がきこえています。

「涼しげでいいな」
「うるせーな!」

両方の感じがあります。
もしかしたら、それだけではないかもしれません。

そのいずれを感じるもとには、感性というものが躍っているのか、無意識がなせる術なのか。

どちらにせよ、自分が感じていることには変わりない。でも、ここまでサラリと言える感じでもない。

風鈴の音色ひとつでこんなに考えてしまうなら、対人関係になれば、もっと考えてしまうのは当然のことだろう、と自分が感じる傾向。

更なる深みは、その感じた傾向に対する自分自身への見方、捉え方。

今だ止まないこの苦しさは、苦しいよりも強い様相のある意味を欲したいくらいだ。

でもそんな言葉があっても、解決しないのはわかっている。

でもね、でも考えているだけで、感じているだけではどうにもならないし、どうにかなるはずもない。

ただいつ風鈴が割れてしまうかが、気掛かりだ。

割れないようにするか、割れてもいいのか、割れないのか。

いつだっていいじゃないか。



どこからかきこえていた風鈴の音色は、今は止んだようです。



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2008年06月26日


405 <七色仮面の告白日記>

CSNの片隅で

一昨日、宛てもなく出かけた。

夏を思わせる太陽とその空気は、
自分の気持ちを激しく照らした。

家を出れば人と会い、大通りに出ると更に人、ましてや新宿に出ようものなら、人の洪水。

慣れていたというか、当たり前の光景だった。

でもその日はやけに、行き交う人の表情、発している言葉、隠された感情に、自分は勝手な反応をした。

行動や言葉にしないまでも、反応された相手にすれば関係ないのに、まるで行き交う人の滲む感情を受けている気分。

そして自分は、この人達は一体何を想い、何を感じ、何をしているのかと。

その晩から、体調を崩した。次の日以降の予定をキャンセルするほどに。

そして今日、CSNで会うはずの男Nにメールをし、折り返しの電話で男Nとかなりんと話した。

なんだか二人の声が、染み入る感じがした。

今は染み入った感じを詳細に思うより、「二人が居た」ことを思っていたい。

ブログを通じて二人にメッセージなんて、ちょっと演出っぽくていやらしいけど、

このブログを読む人達に、CSNの片隅の出来事から、今日の二人に限らず「あなたが居て、あなたが居る」という

ごく一般でありそうなのに、そうなかなかない場所だということを、
感じてほしいなと思います。



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2008年06月19日


405 <七色仮面の告白日記>

水無月のジンクス

何かを話そうとする。

相手は誰?
話の内容は?
そのときの自分の感情は?

言葉が出にくい。

どうやって伝えれば、
どうやって返せばいいの…

感じたまま返せばいいだけなのに、
返す言葉をためらってしまう。

そう、感じる。

感情が液体なら、言葉は固体。

感じたまま返すことって、
こんなにも難しく、苦しいなんてさ。

単語がたくさん、
知識がたくさん、
経験がたくさんあっても、

そのとき固体となって返した言葉は、
相手や自分にも何かを残す。

時には重い物として、
時にはそよかぜとして、
時には傷として…

別に明るくとか、
偉そうにとか、
物知りぶったりして話したいわけじゃない。
言葉と感情が不一致なわけでもないんだよ。

ただ、
ただ誰に対しても、
ただどんな内容でも、
ただ感情をわかってても、或いはわかったつもりでも、

言葉にするリスクに、ためらうだけのことなのさ。



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