2008年09月18日


405 <七色仮面の告白日記>

ピアっちゃお

ここ二ヶ月、
様々なテーマのピアグループに参加してみました。


※〜ピアグループは、同じような悩みや問題を持った者同士で、
体験を語り合い、共有することを目的としている。
(心理学用語集・引用)〜※


自分はピアグループを、
「特化したテーマのある、非構成エンカウンターグループ」
のようなものかなとイメージして参加したのだけど、
ピアGと非構成EGが別の括りであることが、
参加してみて自分なりにようやく掴めてきた。


ピアGにも「ここで話されたことは外部公開しない」や
「人の話に耳を傾ける」
「自分の価値観を押し付けない」といった、
非構成EGに似た約束事がある。


しかし話される内容は、ピアGは「過去や最近」の体験を話し、
非構成EGにある「今、ここで」体感したことを話すといった違いがある。


自分はピアGに参加し、話す相手の事実はそうなんだなとは思うけど、
ピアGにおける「聴く」「話す」に対し、
「その時の感じ」や「今はどう?」といった感情にフォーカスしないことから、
事実の共有はあっても共感のしづらさがあった。


これって、聴いている側としては大きいのよね、、


自分が参加したピアGのファシリテーターは、
話された内容に対して心理的な介入をせず、傾聴しては他に振るを繰り返していた。
自分も含め他の人が話された内容が置いてきぼりな感じがして、
「あれはなんだ??」
「うーん、気になる…」と思いながらも、
それがピアGのスタイルなのかもしれないなと。


いやん、馬の前にニンジンだわ、、


ともあれ自分が参加する上で、自身が非構成EGへの参加が多かったことや、
ピアGと非構成EG違いを履き違えたことによって起きた気持ちは、
経験しなければわからないことだ。


ピアGもファシリテーターの力量やセンス、
日程を非構成EG並に組めば様相は変わるのでしょうからね。


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2008年09月11日


405 <七色仮面の告白日記>

たまご残しの自己分析

日曜日、その週分のまとめ買いをする。

日曜は、スーパーの購入金額1500円以上につき、ポイント5倍!

すでに一度、ポイント還元割引券を手にしてしまうと、日曜日はまとめ買いになる。

主に買う物は、傷みにくい野菜、ハム・ソーセージ、豆類といった、自分なりに消費しやすい物を、とにかく1500円以上なるように購入する。

そして週末の冷蔵庫は空に近くなる。


でも、冷蔵庫扉の裏上に大抵鎮座する「たまご」は、いつも残る。

それも1、2個は賞味期限を越してしまい、あえなくサヨナラ〜


6個入りなのに…
一番消費しやすいだろうに…


たまごは、マヨネーズとあえるとかなければ、苦手じゃない。

考えてみたら、たまごほど使い勝手の良いものはなく、自分には「いつでも食える」という発想がある。

そして、たまごは「あたりやすい」イメージから、賞味期限を気にする。


もったいないよな…


そりゃ一般的通念では、養鶏家の有り難さとか、世界で飢えに苦しむ人々とか、そういう類の食糧問題につなげようと思えばつなげられるけど、

それを自身の心理的な問題に発展させた場合、


「あぁ、たまごを賞味期限過ぎてサヨナラした自分は、ダメ…申し訳ない…」


この例えは大げさだけど、そういう自責もありつつ、出軽さにあぐらをかいちゃって、
いざというとき「待ってました〜」と登場する、たまごだけに感じる豪華さを兼ね備えた感じが、
「いつでも食える」と思える感覚に安心するみたいな。


思うにね、たまごは生命の源の物体化??だから、
たまごに親を見ているのかも…(強引投影)

あっ、交流分析の「いつか〜脚本」だったりして…(強迫神経)


これって、壮大だよな〜


自分はたまごを残してしまうことで、その裏にある自分の感じを捉えてみた。(BGMは、「地上の星」)

食糧は大事です。特に食品業界に携わる方は、自身の食糧に対する意識があってもよろしいのでは?


ねぇ、丸明社長、三笠フーズ社長さん
↑最近の締め方



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2008年09月04日


405 <七色仮面の告白日記>

客観的聞き間違え

どうも「聞き間違え」が多いんだよな。

先日も会話中にレインボーブリッジと話されていたのを
「ラベンダーブリッジ?」と聞こえたし、

厨房の裏方の仕事と言うのを「厨房の親方の仕事?」だったり…

「ラベンダーブリッジの方がステキ!」
「厨房の親方もありじゃん」と
フォローを真に受けても、
初対面で聞き間違えしちゃうと、相手は「???」だろうなと。

でも、そう聞こえたから「それって何?」の意味も含む訳だから、
別に構わない気もする〜


自分も時々「へっ?」と、思うね。

この辺りが自分では「自己一致」だと思うけど、どう?ロジャースさん。


『私はね、あなたと違って、自分のこと客観的に見えるんだよ』

この辺り、「合理化な不一致」なんじゃない?
バーンさん…


もとい福田康○さん。


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2008年08月28日


405 <七色仮面の告白日記>

自己確信への道筋

人生において、成功や失敗は数多くある。

その表層的な現象の裏に、無意識が作用している。

成功と思っていても、実は無意識の支配性が関与、あるいは「親の除外」であったり、
失敗と思ってしまうのは、無意識の否定感の確認、「子どもの汚染」だったりと、
人それぞれの人生脚本や他者との交流には、意識では捕らえきれない無意識が、
作用してしまう。

机上で交流分析やカウンセリング理論を学び意識でわかっても、
自分の無意識がどう作用し、人生脚本の何に根付いているかの「深い気付き」と、
とりあえずでもいいから「行動」がない限り、
学んだ理論はただの「知識」に留まってしまう。

それを痛感させられたのは、行政主催のピアカウンセリング単発講座と、自立支援のしゃべり場への参加で現状の自己を開示、
そして両親とのやりとりや、親戚絡みに起きている問題、同じ病気の友人の言葉に、
自分はどう「居て」どう「感じた」かの思いがあったからだ。

上記の参加や出来事のその場で感じたことを直後に考えてみても、
単なる自己満足か意識はどうだったかに気持ちを集中しないと、
そのとき感じたことが正当化されたりおろそかになったりして、
それこそ学んだ知識は「お飾り」になる。

それが顕著だったのが、今月初めのブログで中野でそれまでの自分から変わると記しながらも、
前々回、前回の落ち込み気味のブログになる。

そしてまた何かのきっかけで、前向きな気持ちになる。

これもパターンではないかと。

でも自分はそうやって気付いては考察して悩み、悩んで行動決断して新たに気付いていくことといったその繰り返すプロセスが、

「現実に対処する自分の力」になると信じている。

そのための行動、思考、感情や、決断するときのリスクを背負うという過剰な気持ちに、
「自分の確信」を恐れたり自信喪失することはなく、
それは先に述べたプロセスを幾度も繰り返して身につけていくものだと。

失敗した、上手くいった、楽しかった、不全感だったと感じるのは、
単に自分の感情内でしかないことで、無意識が不満足でも、意識で自分を許せる道筋を少しずつ造ることで、無意識に変化を与えられるのではないかと。

そして何より、そこに誰かが居てくれたからこその感じ方なんだと。



「先のことは考えない。すぐ来てしまうから」

アインシュタインの言葉ですが、
これを聴いてじんわりと溶け込んでいく気持ちになった。

それは、自分が焦りと不安に如何にイライラしていたかということへのカンフル剤だったし、
適性な防衛にもなるから。

時間が自身の不安の整理のために、時間を止めたりはできない。

時間の概念はさて置いておき、常に動いている時間の中で、
行動、思考、感情そして決断と結果とリスクを、動いている時間の中で焦らず見据え続けて、
幾度も起きる出来事につまずいたり、傷ついても「自分の確信」を持って対処することで、
自分なりの信念の育成と、人生脚本の脱却が図れる一因になると思った。

成功や失敗と言った位置づけや社会的価値観に揺さ振られない、
自分本来の安らぎや心の安定のある「成功者の脚本」をめざしたい。

そこまでいかなくても、自分を誉め称えられるくらいにはなりたい。



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2008年08月21日


405 <七色仮面の告白日記>

教訓は奇跡に

父に将来の夢について話そうとしたとき、

「夢なんか持つな。夢を持つとロクなことにならないんだ」

母に友人関係の悩みについて話そうとしたとき、

「人はね、いつでも独り。孤独なのよ。」


自分が小学高学年から中学生にかけて、そう教わった。


そんな両親の期待は、自分を公務員に就いてもらうことだった。
多分、両親にはその当時まで明るみにならなかった、公務員神話を自分に望んだのだろう。

それは一般に言われる、「両親が子どもに託したがる将来の願い」であり、
そこには両親のフィルターから見た子どもでしかなく、
自分の性格や傾向興味といったものは、反映されにくいものだった。

そういう両親の教訓や願いに、不全感や反発はあった。
話し合いや言い争うこともなく、ただ自分はそれを取り入れようとはしないだけだった。

自分は自分なりに将来の夢を持って叶えたいことや、
友人をたくさんつくって楽しく過ごしたいと、
希望や理想を多いに持った。

でも知らないうちに、自分は教訓を取り入れていた。



幾多の日々が過ぎ、現在思うこと。

両親の教訓は、まんざら反発することでもないなと思う。

希望や目標があるから、それに振り回されたり、自身を過度な精神状態に落としてしまう。

人は独りだということも、親子ですら両者の気持ちを理解しあえないのに、友人という他人ならなおさらだ。

仲良し気取りしても表面の付き合いなら愛想だけよくすればいい関係で、
結局は人という存在意義自体、自分は独りなんだと気づかされたから。

そして両親があれほどこだわった公務員職は、
昨今の役人や公務員関連の事件や不祥事を見れば、
言うまでもない思いになったことだろう。



ただ両親にとって、思惑の違いや予想外だったのは、その教訓が口先論ではなく自分が体験した、
あるいはしてしまったことにある。

そう生きてきた自分は、両親に必要以上何も言わない。
両親も自分に何かを言ったりはしない。



若年層の凶悪な事件を見て常々感じてしまうけど、
自分が受動攻撃で自分を打ちのめし、
怒りを自分に向けつつここまでやってきたのは、
奇跡に近いと思える。

もしこの奇跡がなければ、
自分は犯罪か極限の自傷に及んでいたはずだから。



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2008年08月14日


405 <七色仮面の告白日記>

語り手として

自分のことや気持ちを誰かに語るとき、
その相手との関係性によって、
聴く側つまり自分への感情の反映が、
何かひとつの解答のように感じられることがある。


それは語る側の自分が、無意識にゲームを仕掛けたり、転移や非現実な投影がある限り、
「じゃあ、そうする」とか「これでいい」と決断したとき、
意識的にわかったつもりでも本当は半ば降伏的、
或いは責任転嫁的なニュアンスの感じでその感情の反映を受け、

その結末は、不快な感情や無意味なラケット感情に苛まれる。

語る側の心の揺れ動きに、聴く側と完全合致するのはあり得ないにせよ、
せめて聴いている側の感情の反映くらいは、
素直に受けたいものだ。

そうしたら、自分自身にもっと近づけそうなことなのに。



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2008年08月07日


405 <七色仮面の告白日記>

再会

8月になり、どこもかしこもお祭りを催しているようで、
自分の家の近所にある商店街でも、先日の土日に大々的に開催された。

その日の目覚めは、遠くから聞こえてくる、お祭り2日目に行う踊りのパレードの太鼓の音だった。

明らかに賑わいのイメージが伝わってきたけど、自分はお祭りに足を運ぶ気分になれず、また布団にもぐった。

夜になってお祭りも終わったようで、お腹も減ったこともあり、ようやく外出する気になった。

商店街はお祭りの余韻が漂っていて、そこかしこでほろ酔いで話している人や、浴衣を着た家族連れ、
夏休み中の中学生がつるんでいたりと、人はたくさんいた。

そんな空気を尻目に、フランチャイズ店で晩ご飯を軽く済ませ、
足の向くままに商店街の近所にある、対外的に言う「ゲイサロン」へ行った。

このサロンは古びたビルのワンフロアにあり、入口やその付近は飾りっけのない雑居ビルそのものだ。

新宿辺りでは、インテリアや空間に趣向を凝らしたショットバーやサロンが多くなりつつあるが、
ここのサロンは入口だけでなく、室内のどこもかしこも傷みや汚れがひどく、お世辞にも綺麗とは言えない。

でもここのサロンは、ゲイが現在のようにオープンでない時代から開店しており、
その時代ごとに不特定のゲイの方達が刻んだ歴史と、日常と隔離された非日常で場末な雰囲気が漂っている。

自分はその雰囲気がまんざらでもなく、時々行っては、その空間に浸るのだ。

自分も含めた客は、客同士見知らぬ顔をしながら互いにチェックをし、
それでも「見知らぬ振り」という暗黙のマナーを守りながら、
所狭しと置かれた雑誌や雑貨などに目をやる。

会話はほとんどなくBGMが響く空間で、
客一人一人はチェックした人に「ある種の目的」をもちながら行動し、
あわよくば目配せをして、出会いのきっかけにしている。

その日の自分は寝過ぎたせいかボンヤリしていて、雑貨の棚を一通り見て、破れた皮張りのソファーに無造作に座り、雑誌を読んだ。

向かい合わせの不揃いのソファーには「ゲイ受けする」人が眠っていた。

自分はボンヤリしながらも向かい合わせの存在を気にしつつ、パラパラと何冊か読み、
マナーを気にして明らかに意識した「素知らぬ振り」で、何気に喫煙コーナーへ目をやると、見かけた横顔があった。

その彼はタバコを片手に、ずっと携帯電話をいじっている。
見知らぬ振りも目配せもなく、自分は彼の横顔を見つめた。

「もしかして」と頭をかすめ、おもむろにメモ帳をやぶり、思いあたる名前を書いて、その彼に近づきメモを渡した。

見上げた顔、それはまさしく4年前に音信不通になった友人だった。

自分はこの場末な空間を裂くように、他の客の好奇にさらされながらも、彼を抱きしめた。
そして涙まじりでとっさに「ごめんね、ごめんね」と彼に言った。

音信不通になったこと、そして「ごめんね」と言ったこと。

それは4年前、彼から突然届いたメールがきっかけだった。
彼とは、自分が一人暮らしを始めてからできたゲイの友人で、
ケンカもあれば楽しく飲んだくれたり、恋の相談もできる、
学生時代までにはいなかった、心置きない友人だった。

その一方で、当時の自分は派遣社員で働き、日々イラ立ちと不安定な気持ちを抱えながら、精神的にも経済的にも余裕のない毎日だった。

その日もクタクタになりながら仕事を終え、帰宅途中に彼からメールが届いた。

「病気になった」

不安定な気持ちと疲労した体で、自分はどう返信していいのかわからなかった。

しかしそのわからなさは初心的なものではなく、
その時すでに自分も彼と同じ病気になっていたという、
当事者としての動揺も重なっていたからだった。

彼はメールで「どうしよう」「助けて」と伝えてきた。

自分は「そう言われても」と、アドバイスや励ましの一言すら伝えられず、
最後まで自分も当事者であることを言わずにいた。

何度かメールのやりとりをし、結局彼は「405もボクを避けるんだね」のメールを最後に、音信不通になった。

「自分も当事者だ」と言えていれば、彼の感情に歯止めをかけられたかもしれない。

しかし自分は「知られたくない」という体裁さを守った。その体裁さのうらには、今でこそ抱える人への信用、そして自分を信用しきれずにいる感情だ。

「自分も当事者だと言ったら、きっと他の人にバラされる」という、子どもじみた言い訳だった。

こうして自分は心置きない友人という存在に対し、友人への信用を自分であっさり断ち切り、自己嫌悪という報酬を得たのだ。

その時から、彼の存在は自分の心にどこか大きな影として残っていた。

心置きないと思っていたはずが、ありのままを伝えなかった自分。ただ、悔やむだけだった。

もう一生会うことはないだろうと思っていたはずが、この日偶然にも彼と再会したのだ。

彼は、自分がサロンに入ってきたのを気づいていたと言う。
でも彼は彼で、自分にどう切り出していいかわからなかったと言い、
メモを渡したことを喜んでいた。

自分は彼に、4年前の思いと今のことを感情任せに、言えずにいたありのままの自分を伝えた。

彼は「そうだったんだ」と静かにつぶやき、逆に気づいてあげられなかったねと、彼は自分に対しての思いを話してくれた。

それからソファーに座り、当時の彼の気持ち、
そして彼が現在抱えている、やむにやまれない現実逃避に、とある依存を帯びた行動をしていると、
その苦しみと自傷行為を吐露した。

自分は、ただ聴くことが精一杯だった。
彼から発する言葉に自分の自我状態や逆転移を感じ、
ただ彼の手を握りしめるしかなかった。

彼もこの4年間、行き場のない怒りや悲しみを抱えて生きてきたのだ。

そして
「相変わらず泣き虫だね」とか「こんなことして405に怒られるね」と

彼の一言一言に、
自分は「アンタも泣き虫じゃない」とか「いつも怒るのはアンタじゃない」なんて、
心で苦笑しつつ「そうだね」と言って笑った。

ふと窓を見ると、夜明けの薄光りがこの場末の空間に差し込んだ。

閉店間際、互いに連絡先だけを聞いて、次に会う約束をせずに、自分は先にサロンを出た。

約束をしない理由、それは4年の歳月を越えた必然的偶然を自分は感じ、以前のようにやりとりをすると、信じたからだ。

帰り道、お祭り翌日の明け方の商店街を歩き、
賑わっていただろう昨日までの非日常とは違う、いつもの日常の光景が目に飛び込んだ。

それを目の当たりにしたとき、
彼との再会により再び起こりうるだろう、自分の持つ依存性や逆転移傾向と、
他者への信用を心で受ける感覚を、掴みきれない感じがした。

何より4年前に言えなかったことが、伝えられた満足感を噛みしめた。

このゲイサロンにまたひとつ、自分の歴史が残り
お祭りの後の余韻が消えたいつもの商店街を歩いて帰った。



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