2012年02月09日


405 <七色仮面の告白日記>

お互い、さまざま

朝5時、私はある音で目が覚めます。
それはお隣さんのトイレを流す音だ。

どうやら朝早く出かける仕事みたいで、
私は無理やり起こされたようでイラつきを感じても、
でかい物音もなくトイレを1回流す程度なら、
お互いさまだしと布団をかぶります。

しかしあるときから2回、3回と流すようになり、
ゴーッという音を聞くたびに布団をかぶっても眠れず、
ひどいときには10回も流すことがありました。
1時間ほどしてお隣さんが出ていく音を確かめて
再び眠れろうとしますが、時間は6時。。

これがたまになら「何かあったかな」と思えるものの、
毎日のように続くとさすがに私も耐え切れず、大家さんに相談をしました。

そして、その日のうちに返答がきた。
大家さんいわく、お隣さんは「そんなに流してない!」と反論したらしいが、
私は2回くらいならまだしも、1時間に10回流すのは眠りの妨げになると訴え、
再度大家さんに掛け合ってもらったところ、
お隣さんは何かしらの病を患い、そのためトイレへ行く回数が多いのだと言う。

かといって、そのために私が寝不足になるのもどうかと伝え、
それならばと大家さんの提案で、トイレを何回か溜めて流すよう促してくれ、
翌朝からトイレの流す音は聞こえるけど、10回というのはなくなりました。

今朝も大家さんから「あれからトイレの音はどうですか?」と電話があり、
「トイレの音が響きにくい物件があるんですがねぇ、オホホ」と、
気にかけているのか商売なのかわからないことを話していました。

さて、別の話…

家から駅までの近道に、車一台が通れる十字路があり、
その南側と東側に面して玄関がある、見た目に古い戸建ての家が建っています。

この東側玄関前がどうやら私道のようで、
「私道につき通行を禁ず」と立て看板があり、
「ここは私道なのに、区役所は何もしてくれない」と張り紙があり、
よく見るとその付近だけコンクリートが陥没していて、
いかにも何かありそうな雰囲気です。

私がこの道を通りはじめたある日、杖をついて立っているおばさんと出会いました。
道行く人を見ているようで、私も何気なくその人の前を通ったら、
「ここを通ろうなんて甘いんだよ」とつぶやかれたのです。
そう、その人はこの私道の持ち主で、しかも面と向かわずにつぶやくんです。

以来出くわすたびに「近頃の人ときたら」とか「緊張がたりない」とか言われるので、
私は嫌な気分を避けるために、そこを通る場合は女主人がいないかを見計らうか、
見かけたら別ルートで行くようにしています。

なのに一昨日、女主人の姿を見かけて一瞬どうしようかと考え、
ちょっと通ってみようと思い知らん顔して通ったら、
案の定「通行料500円でも取ろうかしら」と、つぶやかれました。

私も嫌な気分になるくらいなら、私道の定義を知って通行しなければよいのでしょう。
しかし車一台が通れる道で公道との線引きはあいまいで、
私有地という考えなら嫌な気分になるのはお門違いのようだし、
人によっては、狭い私道に関しては「お互いさま」ではないかという意見も。

お隣さんとの一件とは別物として「お互いさま」では済まされない様々なことが、
近所でもあるのだなと思いました。

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2012年02月02日


405 <七色仮面の告白日記>

プー鍋

寒いわ〜
こうしてキーボードを打ってるそばから、手が冷たくなってくる〜
去年は12月になっても暖かかったせいか、
クリスマスから年末、年明けの急激な寒さが身に沁みます。。
天気情報元にもよるけど、東京では13年前に観測した節分寒波以来の寒さだそうです。

毎年、寒い時期には鍋物をつくるのですが、
今年は餃子鍋か、キムチ鍋をよく食べています。

餃子鍋なら市販の餃子パックに付属している醤油系か白湯系のだしを溶かして餃子をポン、
キムチ鍋ならこれも市販のタレを湯で溶かして肉か魚をポン、
共通して野菜、豆腐か油揚げ、しらたきかマロニーを併せて煮ます。
その鍋物に欠かせない野菜ですが、この寒さのせいか非常に割高!
なので「もやし」をよく使いましたが、最近になって白菜の値段が落ち着いてきたので、
ここぞとばかりに使いまくってます。

大き目な両手鍋に具材を入れるので一回では食べきれなく、
残りは次の日にまわしてしまいます。
手軽で腹もちのいい、なんとも優れた料理です。

寒い時の料理に限らず、残金がピンチというときに、
この鍋物で救われることが多々ありました。

そもそも鍋物を作りはじめたきっかけは、私が一人暮らしを始めて間もないころに、
派遣社員の女性が夢を追いかけるドキュメント番組で、
“月末になると残金がなくなるので鍋物をつくる”と、話していたことです。
冷蔵庫の残り野菜、スーパーの見切り品等具材はなんでもよく、
それをただ湯で煮込み、ポン酢をつけて食べるというもので、
それに「うどん」を入れれば贅沢だと語ってました。
彼女はそれを「プー鍋」と称してました。

13年前といえば、ITバブルの前兆、労働者派遣法の改正があり、
新たな働き方として、事務職系での人材派遣社員が脚光を浴びました。
当時から格差社会は進行していたものの、
派遣社員という不安定な雇用ながらも、高い時給で何とか暮らしていける時期でした。

次の仕事紹介を待ったり、バイトもしない無職状態である「プー太郎」の食事、
それが「プー鍋」の由来だったと記憶しています。
このネーミングの軽い響きは、「次がある、次」と信じられるような時代だったから、
彼女同様に私も「プー鍋」と言っては、とにかく食べられればという感じで、
「次こそは」と暮らしていたような気がします。
そしてのちに、私はサンプラザ相談センターへ出向いたのです。

13年ぶりの寒波から鍋物を作る機会が増え、
今でこそ好きな具材を使え、味付けもできるけど、
下ごしらえの度に「プー鍋」の懐かしい味がよぎるのです。

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2012年01月26日


405 <七色仮面の告白日記>

これからの卒業ソング

先ごろ、東京大学が今後5年を目途に、
入学時期を現行の春から秋へと移行すると発表された。

大学側は、国際競争に打ち勝つためには、
アジアの研究拠点としてブランド力を高める重要性があり、
そのためにはアジアの優秀な人材を確保するのが目的だそうだ。

私は大学の運営がどうこうより、
東大の秋入学導入決定が、日本の各大学から小中高までも東大に合わせるようになって、
元来の春入学という慣習が消えてしまうことが、
これから先どうなるのか気になったんです。

と言うのも、秋入学が進めば現段階では小中高まで及んでいないけど、
いつしか日本の教育機関の卒業シーズンが春ではなくなり、
そうなるとこれまで春になぞらえてきた卒業ソングが、
合わなくなるんじゃないのかと、いらぬことを想像してしまったからです。

卒業ソングで思いつくのは、「なごり雪」「春なのに」色々な人に歌われた「卒業」。
最近のランキングでは「3月9日」「さくら(独唱)」も該当するらしいです。

季節は春、卒業や旅立ちをテーマにした歌は、
それぞれの人達が歌を耳にした場面で、そのイメージは決まっていくのでしょう。

「春なのに、お別れですか」
「今、春が来て君はきれいになった」

これがもし10月入学に合わせて9月卒業なら、
残暑で夏バテ気味の頃に卒業式があり、「お別れです、さみしいわ」
だなんて言える状況だろうか。
ただ、うっとうしいように思えるし、ましてや「春」じゃないしと揶揄されたら、
卒業ソングのイメージも様変わりです。

春に卒業という儀式が根付いたために、それに合わせて作られたかもしれない歌は、
もしかしたら変わっていくのかもしれません。
そもそも「卒業ソング」という決め方もユニークですよね。

一般的に「新たな旅立ち」とか「将来の希望」を大事にしましょうとはやし立てる割に、
「入学ソング」というのは聞いたためしがありません。

「学校だわ〜 あぁ、早起きはイヤイヤん ベイベ〜」←思いつき

こんなカテゴリーの歌があったら、面白いですよ。きっと、たぶん。。
別れとか思い出とかを懐かしむような「卒業ソング」が流行るのは、
日本特有なものでしょうか。

一般の私には「歌い継がれてきたもの」も文化と呼べるなら、
「卒業ソングは春がいい」と粘れるくらいの日本の慣習が残ってもよさそうなのに、
結局は大学までも欧米化になり、いつしか「残暑は卒業の季節」が蔓延していくのでしょう。

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2012年01月19日


405 <七色仮面の告白日記>

行動しました日記

1月も半ばが過ぎ、私の中ではすでに2ヶ月が経ったような気さえします。
今年こそは財布を新調させようと、そのことばかりに気を取られ、
2012年度版の予定表のリフィルを買っていない。
大して予定が詰まることはないので、つい先送りにしてしまいがちです。

スケジュール帳の予定表といえば、
事前に予定を書き込むことが本来の使い方ですね。

私がよく使う予定表は、ひと月が見開きのマス目タイプのもので、
縦に月曜から日曜までの1週間分7つのマスがあり、
横はページをまたいで大体5段になっていて、
割と1マスが大き目で書き込みしやすいものです。
そこへ、該当日に病院へ行く予定があると、「9〜 病院」、
プライベートの予定であれば、「15〜 ○○さん@新宿」という、
自己流の書き込みをします。
書き方に個人差はあるでしょうけど、大方これが一般的な使い方でしょうか。

ここ5年は、朝からの終日が予定で埋まることはほとんどなく、
仕事をしていたときは「9〜 仕事」と月曜のマスに書いて
金曜まで一本線を引き、土日に予定がなければ空白という、
使い方としては「確認帳」程度のものでしかありませんでした。

年度が替わるたび、新しい予定表に差し替えるのはいいけど、
その年に書き込んだ予定表をただ捨ててしまうのは、
なんだかもったいないようで、どうしたもんかと思っていました。

そして二年前から、予定を書いた空白や予定のないマスを利用して、
その日の行動を簡潔に記すようにしたのです。
曜日のマスに事前に書き込んだ内容とは別に、新たにその日の行動を書き加えるという
いわば「行動しました日記」のようなものですね。

例えば、○月×日に病院へ行くとする。
×日の欄に、「9〜 病院」と書き込むところまでは、それまでと変わりません。
その日一日を終え、その日の行動を寝る前に起床時間から書く。

例えば、「〜730、8〜最寄駅、“9〜 病院”、11〜 コーヒー@新宿、
カメラ屋、本屋 15〜 バス-最寄バス停、スーパー、〜17 家」といったように、
簡素に行動した時間と場所を書くだけなのです。

最初のうちは書き込むことが少なかったけど、
次第に自分なりの書く内容を決めるようになり、
まず起床時間は「〜○時」と書く。
二度寝、昼寝をしたら「○〜○時 寝」。
どこで何をしたかより、行先や行った場所を書く。
一日家にこもっていたら「終日:家」と書くようにした。
そして、日記のように今日の振り返った気持ちを書かないことが、
必須かもしれません。

以前、日記を書こうとしたとき、あまりに思い詰めて書くことが多く、
寝る前に書く行為でかえって目がさえたり、書いた内容にウンウン考えたりで、
ひと月も続けられなかったのが、
これだと気持ちを辿ることもなく、時々三日とかまとめて書くことがあっても、
「何をしたっけ?」と考えて書ける範囲なので、
これが私の性分に合っているんだと思います。

こうして私の予定表、兼行動しました日記は、
確認の役目だけでなく、その日の記憶が辿れる日記にもなる、
私にはちょっとした代物となり、今年で二年目になります。

ちなみに…
去年の1月19日「14〜 東体、→下車駅 スーパー」と書いてあった。
カラダを動かして、帰りにスーパーで買い物して帰ったということです。

そうそう、二年前の誕生日はどうだろろ。
「17〜 歯科、大久保ドンキ」。
この日は年内の歯医者の予約がここしかなく、誰かと会う予定もなかったので、
誕生日なのにヤダなと思いながら診察して、
帰りにドンキホーテで自分へのプレゼント買いました。
それも長時間座ることが多いので、穴あき座布団。。。どんだけぇ〜

こんな風に、日々の行動したときの詳細な気持ちまでは感じ取れないまでも、
何をしたかだけでも「そういえば」という記憶がよみがえり、
「あのときは…」と浸ることもあります。

とはいえ予定自体はそんなにないので、
誰かと会ったということなら、その時の印象を思い出したりして楽しめたり、
時には苦々しく感じたりできるものの、
それ以外はさすがに記憶に残るようなことはないです。
今後これを続けていつか振り返るとき、
何か面白いものが出来上がるといいなぁ。。

そう思うと、このブログも一緒ですね。
さ、早く予定表買わなきゃ。

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2012年01月12日


405 <七色仮面の告白日記>

恋にもレシピあり

T君とは、高校二年生のクラス替えで知りあった
クラスメイトです。

背格好は私より小さいがややガッシリして、
授業や休み時間の過ごし方を見ていると、
万遍なくスポーツをこなし、理数系に強いものの
そのイメージから少し違う無邪気な面があり、
クラスで目立つタイプとは言い難いが、
私には気になる人と映った。

当時の私はすでに自分のセクシャリティを心得ていたけど、
それを開示できるほどオープンにはなれず、
ただの男子生徒の一人でいた。

私はT君が気になりつつも話すきっかけすらつかめず、
目で追うことだけが精一杯で、
顔と名前と素行を頭の中でしっかりとインプットし、
一学期を終えてしまった。

二学期が始まり、T君とようやく話すことができた。
きっかけは、席替えでT君の友達が私の隣の席になり、
その友達と話し始めたことから、
いつしかT君と話せるようになったのだ。
最初に何を話したかは思い出せないが、
話せたときのドキドキ感は薄く残っている。

話す内容といえば、私が興味のない音楽やアニメ、
スポーツ、テレビゲームのことばかりで、
私はT君と話したいがために「うんうん」と興味があるように聞き、
時にはしたくもないゲームをやって、話を合わせようと努めていた。
私はただただ、話せればという想いしかなかった。

しかし、話を合わせようと努めれば努めるほど、
私のT君への想いが高まるだけで、
それを口にすることは断じてできない、強いものになっていった。

そんな私をよそに、T君は次第に女の子のことを話しはじめてきた。
T君は当たり前のように「あの子かわいいよな」とか
「おまえはどんなのがタイプ?」と、聞いてきた。
私は多分、あまり好意的に話を聞いていなかっただろう。

そんな気持ちとうらはらに、私は「この子いいよね」と言ったり、
わざと女の子に近づいては「今度あそぼう」と誘ってみせたり、
時にはT君が関心のある女の子に声をかけ、
Tくんとその女の子がデートできるようにセッティングまでした。
「おまえ、根性あるなぁ」なんて言われるのも、
ゲイ特有の女の子との関わり方が功を奏しただけで、
私はT君との仲を深めたいからこそできたにすぎない。

そしてT君が女の子に断られるのを知ると、
それもそれで私は「残念だったね」とすました顔で、
心では喜ぶのだった。

こうしたアンビバレンツな心模様は、
このとき既に身につけていたのかもしれない。

そうこうして2学期末頃のある日、
T君は私の家へ遊びに来てゲームに夢中になり、
気づいたら遅い時間になっていた。
別に帰って帰れない距離でもないのだけど、
私が執拗に引き留め、泊めることになった。

私の部屋にT君用の布団を敷き、私はベッドで眠った。
団地住まいの家では、何かあればすぐわかってしまうにも関わらず、
ゲイの男として、そして性の男として私はT君を意識し、
宵のうちにその衝動を行動として現した。
T君は無邪気に拒否した程度で、それでも受け入れた。

その日以降、学校ではいつも通りに振る舞うも、
二人で遊ぶとなると「カラダ」というものがついてきた。
このことが、かえって私を不安へとかきたてた。

私は「好きだ」と言わなかったかわりに、
なぜ受け入れたのかも聞かなかった。
それは私がゲイで、T君が女の子が好きであることに他ならない。
受け入れた以上、T君がゲイの可能性もあるだろうし、
私も一度は「好きだ」と言ってもよかったのかもしれない。

でもそんなことができれば、
私はとっくにセクシャリティを開示して、T君だけでなく
学校でもゲイとして振る舞えたはずだ。
それができなかったからこそ、
興味のない話を合わせたりしてきたのだ。

臆病という卑怯さは、このときからなんだろう。

しかしそんな関係も長くは続かず、
あるときT君本人から迫っておきながらも急に態度を変え、
「やめよう」と言われてしまった。
途方に暮れた私は、言うがままにしたのだ。
そして3年生のクラス替えで離れるとよそよそしさが増して、
交流もなくなっていった。

T君との場合、私はセクシャリティのハードルを感じただろうし、
仮にそれがクリアされても、T君をどう好きだったかわからない。
T君は、私が手に入れたくて手に入らないものを持っている気がして、
それをカラダを通じて私のものにしたかったのかもしれない。
もしかしたら、カラダだけでよかったのかもしれない。

逆に、T君が私をどう見ていたかもわからない。
一時期の興味で私を性の対象と見たにすぎないのか、
もしかしたら本当はゲイなのかもしれない。

私の恋愛は、今でもそんな憶測から自問自答するのだから、
高校時代とそんなに変わりないなと嫌なほど気付かされます。

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2012年01月05日


405 <七色仮面の告白日記>

いい子の正月の過ごし方

毎年、年末年始は両親と過ごしている。

幼少の頃から、正月3が日は連続して家族で親戚の家へ出向き、
10年前からは、大みそかに0泊2日のバスツアーへ参加したり、
元日に病で寝たきりの親戚を見舞ったりしてきた。
ここ数年は次第にそういうこともなくなり、
家を基準で過ごすようになった。

それでも今回は3が日の間に市内の神宮へ初詣へ行ったり、
父の意向で東京へ出たいとのことでスカイツリーを見たり、
おそらく家族で初めてであろうカラオケにも出かけた。
結局は、家でじっとしているのが難しいのだ。

スカイツリー見学では、
父が2年前に食べたマクドナルドのハンバーガーが気に入ったようで、
それをしきりに食べたいと言っていたので昼食にそれを食べ、
満足気に2つたいらげた。
カラオケでは、
母がいつか家族でという気持ちがあったようで、
皆がそれぞれ違う志向の選曲を歌うので「今度それを歌おうかしら」と、
手拍子をしながら楽しんでいた。

私は帰省してまでわざわざ東京へ出かけたり、
両親の散歩に付き合ったりとそんなに出て歩きたくないのだ。
でも「おまえが退屈なんじゃないかと思って」とか「散歩のかわり」と言われては、
外出に付き合うことにしている。
しかし楽しんだ様子を見ていると、私も行ってよかったなと思う。
その背景には、日々の両親の閉塞感を感じることがあるからだ。

どちらかが風呂に入ったり先に寝たりすると、
堰をきったように母なら「父さんったら…」父なら「母さんは…」と、
互いに鼻のつく点や、言われたこと、思ってることを私に話す。

それは今に始まったことではなく、
聞いていると、腹ただしかったり、なんでそんなことを言うのかと
疑問に思ってしまうことが多くあります。
「肝心なことを話し合わない」「何をしたいのか言わない」傾向が強い
二人の関係では、なにか問題があっても、面倒くさいだの逆ギレだの、
顔色を伺って言わなかったりと、起きた問題についてなおざりにするのだ。

こういった話を聞くのは、私にとって耳の痛いことでもある。
話の至る所で、私が取り入れた思考や行動が多いからだ。

また今回は、問題行動かなと思うような出来事もあり、
いよいよ高齢世帯であることを実感することもあった。
そんなときでも、「どうしてほしい」を本人に言わず、ただ行動で示すだけなのだ。

そのせいか非常に疲れるし、妙にイラつくし、現に2度3度怒ってしまった。
でもこういう話を聞き、外出に付き合うからこそ、
なんとなくだが、発想の転換のカギにもなるし、
私の原点に近づくように思うから不思議なものだ。

何より、高齢になりつつある当人同士が自分の足腰で動け、
愚痴でも意思表示ができるうちなら、楽なのかもしれない。

カラオケを終えた帰り道、父はこう言った。
「おまえがもし結婚をしていたら、こんな正月を過ごせなかっただろう」
その言葉を聞き、感謝なのか嫌味なのか微妙な言葉尻を胸に、
こうしていられるうちにという想いがよぎった。

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2011年12月29日


405 <七色仮面の告白日記>

痛みこそ忍耐の入口

我慢と忍耐、この二つの言葉は極端に意味が異なるでもなく、
微妙なニュアンスの違いがあります。

例えば、私が転んで膝に擦り傷を負ったとします。
とても痛いです。
「痛い、いたーい」と叫んでもいいのでしょうが、
大抵は痛さを「我慢」してしまいます。
ケガをした痛さを「忍耐」していますって、おかしいです。

この似て非なる我慢と忍耐、何が違うのだろうか。

独断ですが、我慢のイメージ。
ケガをして自身では痛いとわかっているのに、
それを言いたいけど言わないようなもの。

一方、忍耐はというと、
同じくケガをして自身でも痛いとわかっているけど、
それを言わないでも済ませられること。
ケガをしたのなら痛いのは当たり前という現実的な気構えで、
対自分への決意といったら大げさでしょうが、
自主的に「こらえる」といった印象があります。

私は場合によって我慢も忍耐も必要だと思うが、
何より「痛いなら痛い」と言えることが大事だ。
言わなくても、痛さを解消するための手段を取ってもいいだろう。

痛さは自身が感じることなのだから、大いに感じればいい。
かえってそれを封じ込めようとして「大丈夫です」なんて言おうもんなら、
第三者の存在に向けて公言したことに酔っているだけで、
自身の痛みに目を向けていないだけではないだろうか。

痛みって、まるでダムに溜める水のようです。
交流分析でいう、スタンプに似ていますかね。

ダムには、過去から現在まで自身で認知した痛みといった
記憶や感情が水のように溜り、その水が溜まるのを知りつつも、
放水の仕方を知らない。

いつまでも溜めるわけにはいかず、そこを放水作業によって調整する。
でも身につけた放水作業は自己流だったり、適当だったり、
はたまた放水できずに決壊スレスレだったり。

あわてて誰かに放水方法を聞きに行くが、
うまく放水できなかったり、聞いただけで安心してしまったり、
おそるおそるやるようになったり。

こうして見かねた誰かに調整してもらうこともできるだろうが、
中には調整してもらう前に決壊して水がドーンと溢れることだってある。

もしこれが「我慢の構造」に例えられるなら、
きっと、微調整して放水できるのが忍耐という技なのかもしれない。
それには経験や心を解放するといった手腕が必要で、
何より痛みの水が溜まっていることを自分で察知する心構えが必要だ。
そしていつか、自分の手法で適宜放水するのだ。

これは、何も自身の心の中で起きるだけではない。
人との関わりを築きあげる過程でも、似たようなことが言えるだろう。

ある人の心無い言葉、卑劣な行為に心を痛めているにも関わらず、
我慢のしどうしで接して、それに気づかずにいると、
いつしかダムがドーンと決壊し、怒号のごとく水が溢れだす。
溢れ出たらダムに水こそないが、甚大な被害だけが残る。
自身に投げかけられた痛みのはずなのに、
自身の傷が残るなんて本末転倒もいいところだ。

けど痛みをしていることを知りつつも適宜放水をし、
繰り返し繰り返ししているうちに、
放水の仕方も上手になるに違いない。

もしかして忍耐というのは、我慢を積み重ねてきたからこそできるのだろう。
そして痛めた心は、忍耐へと変えていくものかもしれない。

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