2006年06月27日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

芝居のなかの「ゲーム」

 一週間ほど前になるが、シアターコクーンで上演中の「ヴァージニアウルフなんかこわくない?」を観た。前売りは買ってなかったんだけど、「大竹しのぶ快演!」という新聞の劇評を読んで俄然観たくなり、並んで当日券を手に入れた。

 この芝居は学生時代にアトリエ公演をしたことがあり、まず懐かしい思いがあった。エリザベステーラー主演で映画化されたのも観た。テーラーが主役のマーサを10sも太って演ったことで当時はかなり話題になった。あれから30年も経って、この演劇が上演されるというのが不思議な感じだった。「時代は巡る」ということなんだろうか?

 確かに主演のしのぶちゃんは「快演」。登場人物は2組の夫婦だけなのだが、次から次へと偽善の暴き合いと罵り合いが息もつかさず繰り広げられる、かなりインパクトの強い芝居なのだ。夫役の段田安則、若夫婦役の稲垣吾郎、ともさかりえもなかなか好演。見応えがあった。

 今回の公演を観ての収穫はもう一つある。学生時代には見えなかったあることに気がついたことだ。それはこの劇の至る所にTA(交流分析)で言う「ゲーム」が散りばめられていること。というか、「ゲーム」で成り立っているといってもいいくらいだ。セリフの中にも「ゲーム」という言葉は何回も出てくる。折しもオールビーがこの脚本を発表した60年代には、バーンの「人生ゲーム入門」がベストセラーになっていた筈。多分、いやきっと影響を受けたにちがいないと確信した。

 「ゲーム」という概念は、TAの中でもとても興味深いものだ。それはコミュニケーションの一種なのだが、お互いに自分や相手を傷つけたり、否定感をもたらしたりするように仕向けられている。意識的なこともあるが、無意識であることも多い。自己や他者に対しての根深い否定感が根底にある者同士の間で行われる交流であるとされる。

 「ヴアージニア…」は、この「ゲーム」を意識的に仕掛け合う主人公の中年夫婦が、若い夫婦の無意識の「ゲーム」を暴き立て、自分たちのゲームに巻き込んでいくという展開になっている。「さあ、次はどんなゲームをしようか?」というセリフや「××ゲームはどうだい?」というセリフまである。これはバーンが、日常の人々の生活のなかで見られるゲーム的交流に「さあ、とっちめてやるぞこの野郎」とか「あんたのせいでこうなった」とかいう口語体のユニークな名前をつけていることとも呼応している。

 バーンの「人生ゲーム入門」という本は、当時のアメリカでは大評判になったというが、邦訳は分かりにくく余り面白い本とは言えない。加えて50〜60年代のアメリカの家庭生活がモデルになっているのも、ピンと来にくい原因だろうと思う。しかし、この芝居には、そうした時代や文化の差を超えて「ゲーム」の本質を捉えられる面白さがあるように感じられた。

 今この日本で生活している私たちの周りにも、よく観察してみれば似たような「ゲーム」は沢山ある。新たに命名したいようなものも見つけられるだろう。私たちは本当に「親密な交流」を持ちたいと願いつつ、それがなかなか得難いためにその代わりとして「ゲーム」をするのだ、とバーンは言う。

 「ヴアージニア…」の主人公夫婦も、本当は労り合い、理解し合って暮らしたいと切望しているにもかかわらず、現実には罵倒し合い、他者を巻き込んでまで「ゲーム」をしてその「憎しみの絆」を確認しようとするのである。それでしかつながりようのない人間のぎりぎりの切なさを、オールビーは「ゲーム」という交流の連続を描くことで浮き彫りにしているように思える。

 ちなみにこの芝居は今月一杯上演されている。もう何日もないけど、当日券は15〜20枚くらいは発売されているようだ。興味のある方、「根性で並んでやろう」という意気込みで是非どうぞ!
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2006年06月24日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ビッグイシュー勝手連

 今日男Nが恵比寿駅西口前で「ビッグイシュー」を買ってきた。この時期に合わせてベッカム様が表紙のやつ。NO52である。私もこの間渋谷駅南口で買った。今まで余り目にせずなかなか買えなかったのだが、結構近くで売ってることが分かった。

 「ビッグイシュー」は、以前このブログでも紹介した(こちら)ように、ホームレス支援の一環として販売されている雑誌で、毎月1日と15日に発行される。東京ではこの他にJR新宿駅の各改札口付近やデパート前、高田の馬場、目白、池袋、御徒町、有楽町、東京、中央線の御茶ノ水、飯田橋、市ヶ谷、四ッ谷、中野、荻窪、国立、立川、京王線の府中、二子玉川の各駅前付近で売られているとのこと。勿論大阪、神戸、京都、名古屋、千葉、神奈川など他の都市にも売り場はある。青森、宮城、広島でも販売している。

 詳しい売り場は、各号の巻末に載っているので、偶然手に入れた人は、是非まだこの雑誌を知らない友人や知人に教えてあげて欲しい・・・と、今日は何故か宣伝めいたブログになっちゃったけど、ホームレスってほんと人ごとじゃないのよね。

 高齢者も多いけれど、最近は若いホームレスも増えてるらしい。特に地方から出てきて、フリーターやってその日暮らしの若者が一歩つまずくと、すぐ転落しかねない境遇でもある。サンプラ時代にはそういう「ホームレス予備軍」みたいなクライアントさんにも結構会った。男Nだって危なかったわよね。

 それがたった200円とはいえ、支援ができるようになれたっていうことは、特筆に値する喜ばしい事態ではある。まさに今日こそ男Nの「支援記念日」。

 別に頼まれたわけじゃないけど、当NPOでは陰ながら勝手にこの「ビッグイシュー運動」を応援することにしている。一人でも多くの人がこの雑誌を手にしてくれるよう呼びかけたい。
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2006年06月22日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

大いなる「無意味」との戦い

 男Nの力作「サッカー論」がめでたく終了したところで、私の「サッカー談義」も今日で最後にしたいと思います(多分)。ずっと「人のふんどし」で書いてきた感もあるので、今日はできるだけ自分の思いを綴ってみようかな。

 私が感嘆するのは、サッカーに限らず一流のアスリートたちの肉体と精神が、極限に近い強靱な完璧さを実現していることです。勿論資質もあるでしょうが、常人には真似のできない世界で彼らはそれを磨き上げ、維持しているのだと思います。

 思えば今この時代に100メートルを9秒台で走ったり、一本の棒を支えに6メートルのハードルを跳べたとしても何の意味があるでしょう。ましてや一個のボールを取り合い相手のゴールに入れることそのものに、人間の生活に密着した「理由」も「意味」もありません。スポーツというのは、今や大いなる「無意味」です。その「無意味」を身体と心の極限を賭けて生きることにこそ、スポーツの「意味」はあるのでしょう。

 以前観たつかこうへいの名作「熱海殺人事件―モンテカルロイリュージョン」では、かの木村伝兵衛部長刑事が元オリンピックの棒高跳び代表選手だったという設定になっていて、こんなセリフがありました。「棒高跳びは、昔ローマの奴隷たちがライオンに襲わせるために投げ込まれた城塞の塀を跳び越えて脱出するための命がけの行為から生まれたのだ」。そしてその行為の意味が剥奪された現代になお「ブブカは僅か1センチ高く跳ぶために日夜血を吐くようなトレーニングを続けているのだ」と。

 確固たる「理由」と「意味」が付与された本物の「戦い」があった日本で、その直後に生を受け、半世紀以上を生きて、私は、ただただ生命をつなぐことに懸命だった時代から、急激にその目的や意味が無意味化するプロセスに立ちあってきたような気がすることがあります。私自身もその中に巻き込まれ、もがき、そして今もこの「無意味」を生きるということと闘っているのだという感じがします。

 確かに「意味」はないよりあった方がいいでしょう。「自分の存在はただ偶然で何の意味もない」ということに堪えられるには、かなりの精神力が必要です。どこにも意味が見いだせず悶々としながら、それでもも死なない限り明日は来て、退屈でしんどい日常は果てしなく眼前にあるのです。

 だからといって、いや、だからこそ、そう簡単に「君の存在には意味がある」と言ってもらいたくはないし、言いたくもない、というのが私の中にはあります。「大いなる無意味」を「理由もなく」、しかし「全存在をその一瞬に賭けて」戦うということにこそ、スポーツに生きる選手たちに対する私の感動と投影があります。

 さあ、今夜はブラジル戦。もう早々に寝て4時に起きて観戦しましょうか。かっこいい男たちの「理由なき戦い」を。ねぇ、男N。
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2006年06月20日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「大人の花」の魅力

 昨日は久々の梅雨の晴れ間に誘われて、午後から神宮に菖蒲を見に出かけました。学生時代に見て以来何と40年ぶり位になるでしょうか。

 あの頃はささくれだった心をもてあましながら、良く一人で街中を歩き回っていたものです。学校のあった渋谷から多分目的もなく歩いて、ふと足を向けたのが神宮で、それがたまたま菖蒲の時季だったんだと思います。圧倒的な優雅さで咲き競う花の群れに息をのむように見入ったその感覚は、不思議と今でもはっきり覚えています。そして「必ずまた来よう」と誓ったその時の思いを抱き続けて、あっという間に月日は過ぎました。その間花たちは何と40回も繰り返し優雅な姿を見せていたというのに。

 私はこの時季の花が好きで、何年に一回かは鎌倉に紫陽花を見に行ったりしているのに、神宮の菖蒲は近すぎるのが仇になったのか、いつも時期を逸してしまっていました。「今年こそは」と思っていたので、いいときに梅雨の中休みがあってよかった。まぁ、雨と菖蒲も相性は悪くはないかもしれないけれど、私と雨の相性が悪いのよね。それに昨日みたいな薄い日差しも菖蒲にはよく似合うんです。

060619syoubu01.gif  ほっそりとしなやかに、しかし先端をナイフのように研ぎ澄ませた葉の群れが、鮮やかな緑で水面を染め上げる。真っ直ぐに伸びた茎の先には、重厚で柔らかい形と質感をもった花びらが垂れかかる。深く心にしみいるような白、そして様々なニュアンスを見せる紫。エレガントさの中に鋭さを秘めたその姿は、水で育まれた命を湛えるにふさわしい端正さです。まさに独特の「大人の花」の貫禄があるのですね。若かった私がこの花の群れに衝撃を受けたのもその「大人の風情」の魅力に打たれたからなのでしょう。

 初めてここを訪れた頃には随分人出があったように記憶しています。今回は平日の夕方近くでそれほど多くはなく、のんびりと散策できました。花の見事さもさることながら、広大な庭園を包み込む木々間を吹く風は何とも心地よく、都会のど真ん中で思いがけない森林浴を楽しみました。さすがに40年も経つと「衝撃」とか「感動」とかは薄れ、ゆったりとした気分で花を愛でる境地になっています。花は変わらずとも私の方が変わったのだなぁ、とその感慨には深いものがありました。これを機に花の時季ならずとも手軽なリフレッシュ空間になりそうです。
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2006年06月16日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「戦う理由」と「生きる意味」

 男Nが応えてくれなかったからというわけではないけど、今日もW杯ネタ。早く応えてくれないとシロウト談義が止まらなくなっちゃうよ〜。

 何がかなりんをしてさして詳しくもないサッカーに執着せしめているかというと、またまた日経に沢木耕太郎氏の一文が掲載されていたからなんですね。今回は題して「道を開く『戦う理由』」。おゝ、何とも興味を引く題名ではありませんか。さすがは「深夜特急」、W杯もまたさすらいのノンフィクションの趣でございます。

 沢木氏は先日の日本の試合を観戦し、そしていたく絶望するのです。なぜなら観客席にいる彼の目からも「選手たちの落胆と動揺がはっきりと見て取れた」からです。今までの日本が敗れた試合は、どれもボクシングで言えば「判定負け」風であったのに、今回は完璧「ノックアウト負け」、「それは私たちがワールドカップで初めて目撃する日本代表の無残な負け方だった」と氏は嘆いています。

 そして彼は言います。「ジーコにも問題があった。しかし、それよりさらに大きな問題は選手の側にあった」と。「私はスポーツの勝ち負けをすべて『精神力』に還元してしまう見方を好まない」と前置きしつつ「しかし、オーストラリア戦での日本の敗北の姿は、技術や体力の問題である以上に、精神的な何かの欠如であるようにも思える。」と続けています。

 その「欠如しているもの」それが「戦う理由」だと氏は言うのですね。「東欧圏やアフリカ圏のいくつかの国のように、国家や国民を『戦う理由』にすることはできないかもしれない。それなら自分自身のためでもいい。この大会を自分の悪夢としないために、いやなにより自分の限界を打ち破る契機をつかむために・・・」と。

 このあたりでちょっと「おやっ」と思い、ふっとよぎったのが「トラパ」こと「トランスパーソナル心理学」。いや似ているこの感触。以前聞いた諸富祥彦氏の講演での氏のアジテート風語り口。「若者に『何をしたいか?』と問う時代は終わった。今こそ『君は何のために生まれて来たのか?』と問わねばならない!」

 「生きる意味」とか「目的」とかを見失い、それを自分の中に探し続けて多くの若者たちが漂流する今の日本。その空気を日本代表である選手たちもまた吸って生きている。昔は正真正銘国家のために戦った若者たちがいたこの国に、今はもう「国家」という概念すらないように思えます。

 ブラジルの選手たちは、そして初出場のトーゴやアンゴラの選手たちは、やはり半分以上は「国家のために」戦うのでしょうか。韓国なんかには「国家」を背負った悲壮感さえ感じられました。そしてもはやそれが「戦う理由」にならない日本の選手たちは何を「自分のため」に見出すのでしょう。

 「そんなものなくていいじゃない」と言ったらサッカーファンに袋叩きにあいそうではあるけれど・・・。「いいじゃないの、負けても悲壮感なく軽やかにかっこよく」ではいけませんかねぇ。どだい「人間は偶然の存在である」という実存主義思想にかぶれた世代である私には「生きる意味」なんて言われてもぴんとこないのよね。まして「戦う理由」なんて・・・。どうなの男N?
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2006年06月14日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

W杯シロウト談義

 男Nとサッカーについてちょっと話をした。彼はずっとサッカーフリークで、いろいろと情報もよく知っているのだが、私は新聞に出ている程度のことしか知らない。ゲームそのものについてもよく分からない。未だに「オフサイドって何?」というくらいのレベルである。

 そんな私ではあるが、生来「お祭り」は大好きだからオリンピックだのW杯だのは人並みには関心を持って観ている。先日の日本戦は夫が2階で映画を観ているのを尻目に、階下のTVでのうのうと一人で観戦した。昨日の韓国×トーゴ戦も観た。トーゴの闘いぶりが愉快だった。イングランドやオランダの試合も観た。正直言ってちょっと終盤は飽きた。でも虎の子の1点を守りきるって難しいのねえ・・・って日本戦を観て改めて感心した。

 W杯の開幕前後の日経に蓮實重彦氏と沢木耕太郎氏の対照的なコメントが掲載されていて興味を引いた。蓮實氏は「サッカーファンなら日本の勝敗に一喜一憂せずに世界の超人を見よ」と言い、「ロナウジーニョは肉体が動物の域にまで進化した超人、残念ながら中田英寿は非常に優れてはいるが人類の領域」と述べている。ジーコ監督の采配には「アウエーの試合で勝たなくてもいいけど絶対に負けられない、という戦い方を身に付けることができなかった」ことと「次回に活躍が期待できる若者がいない」という点で問題があるとし、「冷静に見て日本代表が一次リーグを突破するのは無理じゃないか」と悲観的だ。

 片や沢木氏の方はジーコ監督をWBCの王監督とともに「日本における新しい『代表監督』の像を提示した」と賞賛し、王監督の示した「品性、品格の高さ」がジーコ監督にも感じられると言う。そして「彼らが代表監督としてやったことは基本的にただひとつ、大きな枠組みの中で選手たちに可能なかぎりの自由を与えたことだ」と続けている。

 沢木氏も「果たして、サッカーの日本代表は、ジーコの信頼に応えられるのだろうか」とその能力には幾ばくかの疑念を呈してはいるが、「ジーコという新しいタイプの代表監督を中心に、チームとしての強い一体感を持つことで、一次リーグ突破という困難を乗り越えてくれるかもしれない」と大いなる期待を寄せる。

 この一体感とか自主性ということについては、蓮實氏が面白い見解を述べている。曰く「トルシェ監督は選手を子ども扱いしたというが、抑圧がエディプスコンプレックスを生み、選手の方が最後、自分で考えて動いた。稲本潤一が変な動きをして点を取った全回大会のロシア戦は、ナショナルチームとして一番強かった。今はそこまで強くない」。

 「支配的で強圧的な父親に対する息子の反発が力を生む」というのはいかにもこの方らしい見解ですねえ。それに反して沢木氏の見解は文学的に過ぎるという感もあり・・・。

 この間の日本戦をみる限りでは、「監督ダイジョブ??」ってなところもあるけれど、だからといって蓮實オヤジの「エディプス説」が的を得ているのかどうかも「??」ていうのはあるのよね。まあいずれにしても岡目八目、この先は男Nに任せることにしましょう。

 それにしても日本のサッカー選手ってかっこいいよね!世界に出しても「かっこよさ」ではひけをとらない。一昔前だったらこうはいかなかった。この軽やかでかっこいい若者たちに「したたかな泥臭さ」や「動物的な野性味」なんかを求めるのは何かお門違いって気もしちゃうんだけど、その辺どうなの男N?
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2006年06月12日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

演劇とカウンセリング

 第1期目を多くの収穫とともに先月終了した「キャリアサポーター養成講座」は、今月から修了生を対象とした「実習コース」を開講します。そのプレ講座として10日(土)に「パフォーマンス実習」を行いました。

060610cs01.gif 基礎コースでは、カウンセリングの諸理論やCRP(カウンセリングロールプレイ)が中心でしたが、実習コースではそれに加えて「魅力あるグループファシリテーション」のスキル実習にも重点をおきます。その一環として演劇的トレーニングを導入し、グループの様子を見ながら自在に動けるファシリテーターの養成につなげたいと思っています。

060610cs03.gif まずは軽いストレッチで身体をほぐし、腹式呼吸と発声の練習から。通る声と滑舌の良さはファシリテーターには必須のものです。そこで早口言葉にも挑戦してもらいました。


060610cs06.gif060610cs08.gif  次にエチュードという演劇トレーニングを行いました。設定を自由に決め全てをアドリブで進めていく即興劇です。最初は二人一組で、何パターンか行い、最後にはあらかじめストーリーを組み立てて全員が参加して演じました。

 慣れない訓練に受講生の面々は四苦八苦。しかし初めてやってみて「とても楽しかった」という感想が口々に聞かれました。

 学生時代に演劇をやっていたせいか、私は演劇とグループワークにはかなり通ずるものがあると思っています。「ドラマセラピー」や「サイコドラマ」など演劇的要素を使ったグループワークも多く、「演じる」ことで気づくことや吹っ切れることは結構あります。それに「カウンセリング」そのものが「演じる」ということでもあると私は思っています。

 「演じる」という言葉は、「真実を隠したり取り繕う」というような意味合いで使われることが多いのですが、本当に「演じる」というのはそんな生やさしいものではありません。それは少しでも演劇をかじったことのある人なら痛感するところだと思います。プロの役者はいわば「命がけで」演じているし、何をどう演じようとそれを演じている自分はなくなりはしません。

 いつもカウンセリングルームは私の舞台です。「全存在をかけて」私はそこにいます。主役はクライアントさんです。私は共演者であり演出家であり舞台監督です。1時間の舞台は決してやり直しはききません。観客も自分自身です。冷静に舞台を見つめる目を要求されます。

 グループは「みんなで作り上げていくもの」ということではより演劇に近い感じがあります。ファシリテーターは時には演出家になり、役者になり、そして黒子にもなります。これらの術を自在に使える人材が育つことを願って、今後もこうした「演劇的トレーニング」を続けていくことを企画しています。
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