その何週間か前からとびとびに連載されている「現代セルフポートレート百選」の
第6回目。選者と解説は笠原美智子氏。
このシリーズは小さな記事ながらどれもすごくインパクトのある写真ばかりで、
毎回「おお!」と感嘆していたのだが、これはその中でもとりわけすごい。
「セルフポートレート」の主はロバート・メイプルソープという写真家。
笠原氏によると1980年代の写真界のスーパースターだそうである。
氏の文章を引用すれば「彼の偉大さは、一歩間違えばポルノグラフィーと
一蹴されるような性表現の分野に果敢に踏み込み、時代の倫理観に挑戦し、
物議を醸しながらも、それをアートとして確立させたことである。
特にゲイのセクシュアリティーをテーマにした作品は、抜き差しならない
当事者の目線を感じさせる。」とある。
掲載されているのは、彼がエイズに犯されて死ぬ前年に撮影したという
ポートレートである。黒の背景に、黒のタートルネックを身につけた彼の顔と、
杖を握りしめた片手のみが白く浮かび上がっている。真正面から捉えたその顔は、
窪んだ目の挑むような眼差しとこけた頬、そして何かを噛みしめるように
キッと結ばれた唇が、何ものをも寄せつけぬ緊張を漲らせている。
握っている杖の先には骸骨が施され、それをまるで対峙する私の胸に
突きつけるかのようにグイと差し出している。
これこそ「究極の自由」だと私は思う。
これほどのすざましさに耐えなければ「自由」は手に入らない。
「自由」をとことん追求すればそこには「死」の風景がある。
その手前で決然と踏みとどまって冷徹に「死」を見据えるようとする
その覚悟こそが「自由」なのだ。
この写真を前に胸苦しさを覚えつつ、私は絞り出すようにそう思い、
そして打ちのめされたような気分に襲われたのである。
くしくもその日の夕刊のコラム「心の玉手箱」に前検事総長、松尾邦弘氏が
1974年から翌年にかけて起きた連続企業爆破事件の犯人についての思い出を
書いた記事があった。主犯は若い男女2人なのだが、その女性の方は、大学がある
東京から故郷の釧路に帰省するたびに近所の子ども達にお土産を買って帰るほど
思いやり深い性格だったということに触れ、その彼女が「一抱えもある大きな缶に
爆薬を詰めてビル爆破を準備している姿との落差が埋められない。」と氏は
書いている。
しかしこんなことは結構あるのだと私は思う。
何かに捕らわれて不自由な人ほど「思いやり」という甘い幻想にも流されやすいのだ。
「死」の取り返しのつかなさをとことん見据えられねば、人は甘い菓子(あるいは歌詞)
を残して自分を、そして他人を死に追いやる。不自由さの極みである。
「死」は甘美なものではない。
それをメープルソープの写真は私たちの前に命を賭けて暴いてみせているようだ。
そこには極限の「生」があり、そして「自由」がある。
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