中ほどまでぱらぱらと拾い読みしていくうちに、見慣れない言葉が目に飛び込んできた。曰く「増殖するおれちん」。ん?「おれちん」て何だ?興味を引かれてその記事を読み進めてみた。
それによると、「おれちん」とは第一人称の「おれ」と「ぼくちん」とを組み合わせた言葉で、「自己愛を膨らませ共同体には閉じている」、そんな人物のことを言うのだそうだ。京大の小倉ナントカいう助教授の命名とある。どうも「共同体の価値観が崩れて経済論理が社会全体を覆うにつれて」急速に増えているらしい。その小倉助教授によれば、小泉純一郎、堀江貴文、中田英寿が現代の「三大おれちん」だという。「全能感に溢れ、言ったことを実行する」のが特徴。うーん、なるほどね。
だけど言ったことをおいそれとは実行できない大多数の若者たちはどうしているのかというと、ネットで擬似的にそれを果たしているのだという。「昼は『分能感』の塊として働くのを企業に強制され、ニートとして『無能感』にさいなまれている」現代の若者たちが、「夜ネット空間で『全能感』を解放させる」のは無理からぬことなのだとその助教授はおっしゃっている。ふむふむ…。
とここまで読んでふと湧き起こったのは、「自己愛を膨らませているのは果たして若者たちだけなのか?」という疑問である。「自分のことだけ考えて他者には無関心」と言うけれど、私たち年配者だって大多数がそうなんじゃないのか?大体「共同体の価値観」を崩したのは、経済界を吹き荒れている「市場原理主義」なわけだし、今回の不二家の事件だって「消費者」という「他者」への全くの無配慮が引き起こしたと言えるんだし。大きな顔して「今の若者たちは…」などと言えるんだろうか?
病的に肥大した自己愛は「人格障害」を引き起こすが、人間なら「自己愛」は誰にでもある。大事なのは「自己愛」が自分だけではなく他者にもあるということを認められる「知性」であるのだろう。本当の「インテリジェンス」とは、難しい知識を備えていることではない。「他者の存在」に思いを馳せることのできる能力である。それがあってはじめて「他者との関係性」を生きることができるのだと思う。
若者だけでなく、大人たちでさえそうした本物の「知性」を備えた人物は少なくなっているような気がする。そのうち老いも若きも打ちそろって「一億総おれちん」にならぬよう気をつけなくちゃね!
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