2007年03月19日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「生きる意味」第2弾!

 今日はこれから出かける予定もないし、男Nがまだうだうだと寝床の中でとぐろを巻いている間に、先日のブログに引き続き「生きる意味」についてもう少し突っ込んだ考察を試みたいと思います。エヘン!…って、こういうことを言おうとする時って何故か講演口調になるのよね。まぁ「突っ込んだ考察」とかいっても、ヘーゲルやデカルトを論じる気はない(というか論じられない)ので、たいしたことにはならないと思いますが。

 実は最近参考のために受けた心理テストの質問のなかに「あなたは人生に意味があると思いますか」というのがあって、私は「全く思わない」に○をつけたんだけど、「ええ〜っ!意味がなければ生きられないじゃん」という声が一緒に受けたメンバーからもあがりました。そのテストは「人間力を測定する」と銘打ったもので、明らかにその質問には「非常にそう思う」と答えたほうが得点が上がるのだろうと思えました。要するに、「人生に意味がある」と思っていること=人間力がある、ということになるらしいんですが、短絡的ってのはまさにこういうことを言うんじゃないでしょうかね。

 「意味」を辞書で引くと、まず第一義は「その言葉のもつ内容」とあります。確かに私たちの使う言葉には全て意味がありますね。しかしそれはその言葉を使う人たちに共通したイメージなので、必ずしも固定されてはいません。言葉とイメージが誤って結びついたり、時がたつにつれて違うイメージを持つようになった言葉は沢山あります。「意味」なんて所詮は抽象的な概念なんだということが、こういうことからも分かりますね。

 その次に「表現や行為の意義・動機」と出ています。この間のブログに書いた「日々の営みの意味」はここに当たりますね。私たちの仕事や活動、遊びや睡眠といった行為や、芸術的な表現や創作にも通常何らかの「意味」があります。即ちそこには必ず「〜のため」といった目的や「〜したい」という動機が働いているとみなすことが出来ます。かのサルトルは、「人間存在には意味や目的はないのだ」ということを主張する根拠として「人間は道具のように使用目的をもってつくられたものではない」という趣旨のことを言っています。確かに人間が道具をつくるときはそれを何のために使うかを明確に意図していますね。サルトルのように神を否定し、人間を「偶然的な存在」として捉えれば、ここで言う「意味」は雲散霧消してしまいます。
  
 三番目に「表現や行為のもつ価値」というのがあります。「生きる意味」といった場合にはこの「価値」という代物が色濃く係わってくる感じがしますね。そして「価値」というのも概念のなかにしか存在しません。TAで言えば「準拠枠」ですね。何を「価値がある」とみなすかどうかは、その人がどういう準拠枠を持っているかによります。殆どの国民が「お国のために戦う」ことを「価値ある行為」とした時代もありましたね。そういう時代はそれがそのまま「生きる意味」になったりします。今は万人が納得するような「価値」はなかなか見当たりません。そこで「生きる意味」もそれぞれが自前で見つけなくてはならないから、男Nみたいなことになっちゃうんですね。
 
 とこうして見てくると「生きることに意味があるか」なんて質問は、ほんとに意味なく思えてきませんか?ましてやそれが「人間力」に結びつくとは私にはとても思えません。そんなことをふとんの中でぐだぐだ考えてるより、掃除でもして、おいしいものつくって食べた方がよっぽど人間力はつくと思うよ、ねえ男N!

 
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2007年03月16日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

生きる意味

 昨日男Nのブログに「生きるということは大いなる無意味です。」というコメントをつけました。今日は、この「無意味」ということについてもう少し言及しておこうかなと思います。

 「人生の意味」などというといかにも壮大かつ深遠なテーマで、よりによってこれから出かける用事を抱えた(今晩は当NPOのお助けマン、Bさんの弟君のライブなんです!)この時間のないときに書くようなことでもないとは思いつつ、男Nが「僕は何のために生きてるんだろう…」などとひとりごちているのを見ると、つい何か言いたくなっちゃうんですね。

 要するに何が言いたくなっちゃったかというと、「君は別段何かのために生きているわけじゃないよ」ということなんですね。「ひとが高尚な哲学的テーマで悩んでいるときに余計なお世話だ」という声が聞こえてきそうですが、男Nとてふとんの中でうだうだと、半分眠っているような頭でぐるぐるいじくり回しているだけみたいだし、まぁそのくらいのレベルに合わせたトラックバックと思ってくれればよろしい。

 土台人というのは無意味なことに弱いのですね。どうせやるなら意味のあることをやりたい。それで何をやるにしても血眼になって意味を求める。確かに「賽の河原」みたいな無意味なことをするのはすごく虚しい。すぐに汚れるところを掃除するなんて真っ平だし、誰も食べない料理をつくるなんてこともまずない。日々の営みには必ず「意味」があります。お父さんが毎日ラッシュにもまれて会社に行くのは「家族を養うため」だし、お母さんが我先にバーゲン品を漁るのは「少しでも安くいいものを買うため」だし、息子が受験勉強をするのは「いい学校に入り、引いてはいい会社に入るため」だし、娘がダイエットに励むのは「きれいになって男の子にもてるため」です。そう、私たちのやっていることは毎日「意味」だらけ。それもかなり明確なね。そうじゃなきゃやってられないくらい大変だってことでもあります。

 さて、それでは「生きる」ことの意味ってなんだろう…って考えた途端にぼわーっと明確さが薄れてたちまちぼやけて見えなくなってしまう。日々の営みの「意味」をいくら積み重ねても「生きる意味」にはならないのですね。もっとご大層な意味が欲しい。例えば「世のため人のため」とか、「理想と正義の実現のため」とか、まぁ今はちょっと小ぶりになって「自分のため」っていうのが流行りみたいですけど。

 それにしても何と抽象的なこと山の如しなんでしょう。ふとんにくるまってこんなことばかり考えてたら、まさしく「意味の迷路」にはまってしまう。「そんな意味のないことはおやめなさい」と私は言いたい!

 と、こんなところでもうタイムリミットです。次の機会にもう少しじっくりと考えてみたいと思います。
 
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2007年03月12日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

感情の反映

 今年のキャリアサポーター養成講座・実習コースでは、カウンセリング技法のトレイニングの一環として「マイクロカウンセリング」の学習を採り入れています。これは、アメリカのアレン・アイビーという人が考案したもので、様々なカウンセリング技法を体系的に整備して実習できるようにつくられています。技法はピラミッドのような三角形で階層化されており、その一番下の基盤となるところには「基本的かかわり技法」の数々が挙げられていますが、昨日のブログでA子さんが書いていた「感情の反映」というのもここにある技法の一つです。

「感情の反映」とは、「来談者の情動の世界を正確に感じとる技法」であるとされています。クライエントさんは、まず「こういうことがあった」とか「こんな風になっている」とかいう事柄や状況の説明から入ることが多いのですが、そのとき語りながらどんな風に感じているのかについては殆ど意識を向けていません。また、感情というのは非情に曖昧で、「どんな感じですか?」と尋ねても言葉にできないことがままあります。カウンセラーがクライエントの準拠枠や感じ方を正確に捉えることが、カウンセリングに最も重要とされている「共感」の基礎となります。

 カウンセラーがクライエントが知覚している世界を感じ取り、それをその人に伝えることによって、クライエントの自己への気づきを促し自己理解を深めるよう導くことは、援助の質を高めるのに役立ちます。カウンセリングというのは、言葉で話されることを聴くばかりでなく、その人の見方や感じ方、即ちその人の「存在」そのものを聴くことだと言えます。それにはクライエントの非言語的なメッセージに注目することが大切です。口調や仕草、声の調子や表情などは言葉以上に雄弁な手がかりとなります。

 ピラミッドの「基本的かかわり技法」の段は、幾つかの細かい階層から成っていますが、「感情の反映」の他には、「呼吸や視線、身体の動きによるかかわり行動」「開かれた質問と閉ざされた質問」、「言い換えと励まし」、「意味の反映」などの層があります。その上の層には「焦点の当て方技法」、指示や助言、フィードバックを含む「積極技法」、「対決技法」があり、そして「技法の連鎖および面接の構造化」の層を経て、「技法の統合」というピラミッドの頂点に達します。

 このピラミッドを登っていくのはなかなか大変なことなんですね。全ては最初の「基本的かかわり技法」がしっかり身についているかどうかにかかっています。基盤が軟弱であれば、登っている途中で崩れてしまいますからね。ですから今回の講座では、この部分に殆どの時間を割きました。A子さんはちょうど仕事が忙しい時期で、心ならずも講座に遅れたり休んだりしたことが何回かあったので、十分な理解に至らなかったのかもしれませんね。

 各受講生が行った3回連続のCRP(カウンセリングロールプレイ)に「このマイクロカウンセリング技法で学んだことを生かす」というのも、今年の重要な課題の一つです。それとは別に各技法ごとのCRPも毎回講座の中で行いました。しかしいつも痛感させられるのは、A子さんも言っているように「頭で分かっても身体が分からなければだめ」ということです。技法はあくまでも技法でしかありません。それを使いこなす「主体」がいてはじめて生きるのです。

 人間と技法が見事に統合されるためには、たゆまぬトレイニングあるのみです。技法を身体で覚えこんでこそ、頭で考えなくても自然に使えるようになるのですから。幸い「7色のクライアント役」にも恵まれているので、来年度は沢山のトレイニングができるような講座を考えようと思っています。
 
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2007年03月08日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

危険な春

 男Nがこのところちょっと不調のようですが、これも地球温暖化のせいでしょうかね?「今頃になって調子を崩してる人が多い」と、かの「ココロの精神科医」T先生はおっしゃっているようですが、春はもともと「要注意」の季節なんです。

 地下の虫たちが冬眠から目を覚まして地上に這い出してくると言われる「啓蟄」は、すでに2日前に過ぎました。人間の体内に眠っていたエネルギーもむくむくと台頭してくる感じですね。さてこのエネルギー、うまくどこかへ向けて発散してやらないと、体内にもやもやとたちこめる。これが何とも厄介な代物なんですね。

 「桜の花には血がにじんでいる」とボードレールは詩いました。行き場のない情念がそこに鬱屈しているようなイメージですね。しかしそんなものに捉われるとろくなことにはなりません。幻想を追っても現実はなくなりませんからね。

 男Nも言っているように「魔法は魔法でしかない」のです。魔法でこのもやもやエネルギーは解消しません。「現実への一歩」にこのエネルギーを使えるかどうかが分かれ目ですね。

 まぁ「春眠暁を覚えず」とも言いますから、「春ごもり」もいいかもしれませんけどね。しかしイジワルかなりんとしてはあえてこの言葉を男Nに贈りたいと思います。

「春は曙!」−by清少納言
 
 
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2007年03月05日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

それぞれの一分

 今日有楽町まで「武士の一分」を観に行きました。夫が昨日行って来て「良かったぞ」と言っていたので俄然観たくなりました。さすがキムタク、期待は裏切りませんね。

 この映画で「一分」というのは、「そのために人が命を賭けて戦う理由」として描かれています。最近ではとんと聞かない言葉ですよね。辞書を引くと「その人が一人前の人間として譲ることのできない立場」とあります。そんな立場が私にあるだろうかと考えてみました。

 そうしてみるとないんですね、これが。殆どのことは「まあ、しゃあないか」と譲れてしまう感じがします。命を賭してまで自分を戦いに向けて奮い立たせるものなんて、今の世の中、ないのが当たり前なのかもしれません。「一分」が死語になる所以ですね。

 映画では、キムタクが「大儀」や「信条」のための「一分」ではなく、まさしく「人間の一分」を通そうとする姿を描いていますが、最後にはその「一分」から解き放たれ、自分にとって最も大事なものを取り戻します。言ってみれば「男の一分」に固執しないところがこの映画の後味のよさになっています。山田洋次監督らしい終わり方だなあと思いました。

 そうしてみると、このNPOを立ち上げたのは「かなりんの一分」だったかも知れず、OLA子さんが今苦闘して何とか自分に納得の行く道を踏み出そうとしているのは「A子の一分」だとも言えますね。そうそう「新米主婦mocoの一分」というのも昨日のTA講座の重要テーマでしたね。結構今の時代だって皆それなりに戦ってるのよね。

 それぞれの「一分」のために戦っているCSNのメンバーたちが、皆最後にはそこから解放されて、自分にとって最も大切なものをかち得ることを願っています。

 ところで「7万キリ番」はどなたがかち得たのかしら…?
 
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2007年03月01日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

跳べない理由

 昔小学校で「跳び箱」というのをやらされました。3段、4段くらいまでは何とかなるんだけど、5段、6段になるともういけない。目の前の跳び箱がまるでエベレストみたいに自分の前にそびえ立っているように感じました。目をつぶって必死に駆け出してみるんだけど、何回やっても踏み切り板の前で立ち往生してしまう。「こんなもの跳べるわけがない」とどこかで思い込んでいたんでしょうね。

 私は小さい頃あまり活発な子どもではありませんでした。過保護に育てられた子が総じてそうであるように、私もどこか臆病で人と競争するのが苦手だったと思います。当然腕白坊主たちのなかで俊敏な動作や要領のいい振る舞いはできません。家の中で絵本ばかりを読んでいるような子どもでした。母は私に「自分のイメージ通りの優等生」であることを有形無形に押しつけ、私は知らず知らずのうちにその要求に従っていたのですね。母のイメージのなかの「優等生」は「運動は苦手だけど、勉強のできる子」でした。その当時は「運動のできる子は勉強の面では劣等性」と相場が決まっていたのですね。なかなか今の優等生みたいに「両方できる」なんて子はいなかったのです。

 母は「うちの子は体育が苦手で…」と、いかにも表面上は謙遜した風を装いつつ会う人ごとに言ってましたが、その裏には「そこいら辺の子と違って勉強ができるのよ」という自慢がしっかり隠されていたのですね。そんなこととはつゆ知らず、私は「自分には運動能力がない」と思い込んでいました。だから鉄棒でも跳び箱でも到底「できる」なんて思えるはずもなかったのです。

 母自身も運動は苦手だったようで、多分劣等感があったのだと思います。「運動だけできたってしょうもない」といつも言っていました。その母が晩年筋力が甚だしく弱って内臓が支えきれなくなり、子宮や腸が体外に出てきてしまう厄介な病気になったのも、こうした長年の運動軽視のつけが回ってきたわけで、まぁ当然の帰結とも言えます。

 私が俄然運動に目覚めたのはその頃からです。もうそれまでの人生で「勉強だけできたってしょうもない」ということを十分実感し、母の苦しむ姿を見て「人生は筋力にあり」とこれも些か偏った信条を抱くに至ったのです。毎日のヨガを怠らず、ジムに通う傍らジョギングに精を出す日々が続きました。この頃の私は今思うとどこか神経症的なところがありましたね。それでも現在の基礎体力はこの時期に養われたのだろうと思います。

 今は毎日のヨガを続けているだけで、ジム通いもジョギングもやめてしまいました。母の遺伝か、どんなにトレイニングしてもさほど筋力のつく方ではないのですが、自分の内臓くらいは支えられるだろうという自信は持てたからです。何かに憑かれたように運動をすることの過剰さにも不健康なものを感じました。ジムに通っている人たちのなかにこの手の「ジムホリック」を結構見かけます。「楽しさ」のない運動はかえってストレスになると気づきました。

 最近夫と二人でボーリングを始めました。最初はメタメタだったのですが、このところいくらかスコアが出るようになってきました。つい先日新調した13ポンドのマイボールもさほど重く感じられなくなりました。夫は週に2〜3回は行っているようですが、私は仕事で余り行けず、せいぜい月に3〜4回といったところです。それでも行けば6ゲームくらいは投げて、心地よい汗をかいています。

 私は確かにずば抜けた運動能力があるわけではないけれど、人並みには何でもできるんだ、と今はそう思えます。跳び箱だって今ならきっと跳べるでしょう。眼前にそそり立っていた「エベレスト」はまさに私の脚本のなかの「人生の跳び箱」でした。それが等身大の「跳び箱」に変わったのも、この「できる」というイメージを持てるようになってからのことです。

 そこで私は声を大にして言いたい! 跳べない恐怖はラケットだ。恐れるな、ためらうな。紆余曲折は多々あれど、いずれ親は消え果てる。そう、今こそ「Jump! Jump! Jump!」
 
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2007年02月26日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

イベント3題

 このところ寒い日が続いていますね。遅ればせながら冬到来って感じですが、これも長くはもたず、春のペースは例年よりかなり速そうですね。

 そんなこんなで足早に過ぎ去ろうとしている短い2月、ブログアップもまとめてになってしまいましたが、色々な催し物を行いました。3月の声を聞かぬうちに急いでご報告致します。

070210syokugyoukennsa.gif  まずは2月10日(土)に行った「職業能力適性検査」。今回で第3回目の実施となりました。女性1人、男性2人の参加があり、キャリアサポーター養成講座の実習を兼ねて、受講生のKさんがテスターを務めました。いつもパソコンでの集計を担当してくれるBさんが都合で来られず、代わりにSさんがピンチヒッターで手際よくこなしてくれました。フィードバックもより充実してきたと思います。

070225mitakaGW.gif  2月25日(日)には、私が相談員を務めている三鷹の社会福祉協議会が初めて主催したグループワークがありました。題して「コミュニケーションに生かす心理学」。熱心な担当職員Mさんのご努力で30名以上の参加者を集め、広々とした会場での楽しい2時間を過ごしました。地域のイベントらしく、老若男女取り混ぜたなかなかバライエティー豊かなグループでした。初の試みでMさんも私もちょっと緊張しましたが、好感度は高かったようで、次回の開催も期待できそうです。

070226paletteGW.gif  翌26日(月)は、昨年の10月から5回シリーズで開催している、福祉施設ぱれっとホームでの「福祉職のためのグループワーク」の最終回でした。少人数のグループでしたので、エゴグラムから脚本まで、交流分析理論をかなり詳しく踏み込んで学習しました。各人が自分の場合に引き寄せて考察したり、話し合ったり、毎回濃密な時間を持つことができました。最終回の今日は、それぞれが「変容のための決断」を行い、グループのメンバーが皆でその一つ一つを共有しました。今後の人生を自律的なものにする第1歩となることを願いつつ、通いなれた道を帰途につきました。またの開催を楽しみにしています。
 
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