2007年07月23日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

支配欲求

 昨日のTA(交流分析)学習講座で、「どうしても人を自分の枠にはめて思い通りに動かしたくなる」という話が出ました。「支配性」というやつですね。これは、エネルギーの強い人よく見られる傾向です。飽くなき「権力志向」の源泉には、こうした「支配欲求」があります。集団の統治に関わることになると、政治や企業での権力闘争から、家族のなかでの力関係まで、この欲求の引き起こす現象は至る所に見られますね。

 特にエネルギーが強い人に限らず、どんな人の心にもこの欲求はあると言えます。ときには金銭欲や名誉欲よりも強い。というより、金や名誉というのは、とどのつまり人を支配するためのツールとして欲求されることが多いですね。それほど「人を支配する」というのは魅力的なことなのです。どうしてそんなに魅力的なのかといえば、それが最も難しいことだからなのだろうと思います。

 人が人を100%支配できることなどまずありません。人というのは自分の思うようにならない最たるものです。そこで組織は上下関係をつくり、権力の付与を駆使して管理体制を敷き、支配の構図を作り上げます。人の行動のある一面だけはこれで何とか支配できるのですね。しかしそうした構図のないフラットな組織では、誰も自分以外の人を支配できません。そこではお互いの合意を根気よく練り上げていく地道な努力が必要になるのですが、これに耐えられる人は思いのほか少ないようですね。理想郷としてのフラットな組織をめざした「共産主義」が、人間の権力と支配の欲望にまみれて地に落ちた現実は、いかに人間が「支配」の欲求に取り付かれるものであるかを物語っているように思います。

 本当に「フラットな関係」を築くのは、一番そうありそうな「夫婦」とか「恋人」の関係でも結構難しかったりします。というか、そういう関係こそが難しいと言えるのかもしれません。なぜなら社会的に支配欲求を満足させられる人はそういないからです。自らの「支配性」を、社会的にも思い存分発揮できるのは、かなりエネルギーの高い人です。それ以外の人は皆「支配される側」に甘んじて我慢しているのですね。そこで、自分が支配できそうなパーソナルな関係にその欲求を持ち込むのです。昨今問題になっているDVなどはその一例でしょう。

 力づくで人を支配しようとするのは本当は虚しいことだと思うのですが、そう感じる大人の感性が育っていないとどうしても陥り易いところですね。家族のなかで対等な関係を持てずに、親や周囲の大人から支配されて育つと、それに対する怒りが大人になってからも子どもっぽい支配的な行動を引き起こしてしまいます。暴力的なものでなくても、「拗ねる」、「不機嫌を振りまく」、などの態度で周りの人を操作しようとすることもあります。これも「支配」の変形ですね。

 私の母はとても支配性の強い人でした。母子二人の暮らしで、おまけに母は外で働くこともなかったので、支配の対象は専ら私に集中しました。だから私は「支配ー被支配」の関係しか知らずに大人になったようなものです。自分のなかにある支配性の強さに気づいたのは随分歳を重ねてからでした。今でも時折顔を出すこの厄介な代物とは、これからも心して対峙していくしかないと思っています。

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2007年07月16日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ある心象風景

世界は私のなかにある。

私が笑えば世界は笑い、
私が泣けば世界も泣く。

私が瞼を閉じれば
世界は闇の中に消え、
私が目を開ければ
世界は再び姿を現す。

客観的な現実などどこにもなく、
標準的な価値もただの幻想。

私が喜びで満ちれば、
世界は美しく輝き、
私が怒りに震えれば
世界も鋭い牙をむく。

この世界を支配するのは、
いつだって私一人。

そうあの日までは・・・

あなたが私の視野に入り、
目を閉じても消えなくなり、
そして世界は私のなかから
私の外へと広がって
もう思うままにはならなくなった。

あなたをそこにおいたままで、
世界を再び私のなかに取り戻すには
私に注がれるあなたの視線を、
私に差し伸べられたあなたの手を、
一体どうしたらよいのだろう!

今や世界は私の支配下にはなく、
けれどもあなたのもとにもない。

世界は私から果てしなく広がって、
あなたからも流れ出して、
顔のない無数の存在を呑み込み、
容赦なく刻まれるときの裂け目で
幾多の視点が交錯する。

混沌の様相を帯びつつ、
ずっしりと重みを増した世界を、
私は今、誰とともに担えるのだろう!

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2007年07月09日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

アサーティブトレーニング

 先週の土曜日、7月7日に当法人主催「岩井美代子のアサーティブトレーニング」が、渋谷区女性センター・アイリスにて行われました。15名の参加があり、初顔合わせも何人か。女性10名、男性5名のグループでした。
一言で感想を言えば、「やって良かった!」。

070707at1.gif  みよみよの愛称でファンも多いトレーナーの岩井美代子さんとは、ともに三鷹市社協の精神保健相談を担当する仲。この相談は、一週間に2日行われていて、もともと私のカウンセラー仲間が2日とも担当していたのですが、彼女から私が受け継ぐことになったとき、2日とも私一人でやるのは無理だったので、二人で分担することにしました。
それでくしくもグループワーカーの二人が同時期に入ることになったというわけで、不思議な縁を感じます。曜日が違うので普段は顔を合わせないのですが、数ヶ月に一度はどこかで会って食事をしながらいろいろな事を語り合っています。以前このブログにも書きましたが(こちらこちら)何回か休日を一緒に楽しんだこともあります。

 今回のワークもそんな食事の席の話から生まれました。二人が相談を担当してからもうかれこれ5年も経つんだから、何か一緒にやってみたいねぇ、とどちらからともなく言い出して、それじゃコラボレートの前に交換グループワークみたいなことをやってみようか、ということになり、それじゃあまずはみよみよから、ということで、企画が進みました。

070707at2.gif  アサーティブトレーニングは、サンプラザ相談センターでも何回も開催され、私もファシリテーターのお手伝いをしたことがあります。以前はアサーショントレーニングという名称で行われていたこともあり、こちらは様々なワークシートを使いました。
アサーティブジャパンが開催するワークに参加したこともあります。みよみよのワークは是非一度体験したいと思っていました。
本当によい機会を持つことができました。

 何回ものアサーティブトレーニング体験を経て、今回参加して感じたのは、ワークというのはファシリテーターによってこんなにも違うものか、ということです。勿論メンバーによるところも大きいのですが、ファシリテーターの醸し出す雰囲気や力量がそのワークの質を左右するのは否めません。その点でみよみよのワークはさすがと思わせられるところが随所にありました。

070707at3.gif  その大元を辿れば、多分みよみよの柔軟で深みのある人間性に行き着くのだと思います。彼女は決して「アサーティブは素晴らしい」とは言いません。「アサーティブであることがあなたを助けることもある」という言い方をします。
私もTAのワークをするときは「TAはただの道具に過ぎません。使い勝手がいいと思ったら使ってください」というような言い方をします。それは、「完全なものなどどこにもない」ということが身にしみているからです。そういう実感があってはじめてファシリテーターである自分の不完全さを許し、メンバーである他者の不完全さも抱き取ることができるのだろうと思います。

 最後に参加した方々の声をいくつか書き留めておきます。

○…自己尊重は日々意識しないとできないと思っていましたが、今日はそれが自分のなかにあるのを見つけることができました。だめな自分でも、それもありというふうに認めて、ゆっくりとやっていこうと思います。(40代女性)

○…とても楽しかったです。グループで話をしていて、最近日常のなかで人を実感できるコミュニケーションが余りなかったんだなあと気づきました。(30代男性)

○…ちょっと体調が悪くて参加を迷ったのですが、来てよかったです。グループの雰囲気がよく、リラックスして参加できました。(20代女性)

 みよみよに感謝!そしてアシスタントのSさん、参加者の皆さんありがとうございました。
 
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2007年07月02日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

女性センターの未来

 先週の土曜日に渋谷区の女性センター・アイリスで利用者懇談会があった。今年度から館長が代わり、また女性センターがあと4年半で今借りている主婦連のビルの契約が切れるということもあって、「今後の女性センターの活動をどのようにしていったらいいのか」ということが、主な話題となった。

 当日は新館長の他に区長も出席して論議が交わされたが、このセンターが将来の「男女共同参画社会」実現のための拠点になり得るのかどうか、その分岐点に来ているという認識が少しずつ強まりつつあるという感じを受けた。

 但し出席者は100を越える登録団体のうちの僅か十数団体。多くの団体がそれほど「女性センターの未来」になど関心がないことも伺えた。利用料がただということもあって、大体がお稽古事などの集まりの場として借りているだけで、運営に積極的に関わろうという意識も高まらないのが現状のようだ。

 思えば「主婦は仕事か」という「主婦論争」が世間をにぎわしたのは、一昔も二昔も前のことである。「ウーマンリブ」とか「フェミニズム」とかいう言葉も今は余り聞かれなくなった。「ジェンダー」っていう言葉だって、若い世代には「何それ?」ってなもんじゃないだろうか。

 会議に出席しているのは殆どが中高年の女性たちである。彼女たちは(かくいう私もその一人だが)、一様に声高でエネルギッシュだ。多分経済的にも恵まれているのだろう。何年も地域活動をしてきたという自負も大きい。「次世代へのバトンタッチ」というのは命題だが、肝心の「次世代」の若者たちはなりを潜めている。

 CSNからは私の他に二人の若い男性メンバーが出席した。「若い女性」も殆どいないこういう席では、「若い男性」の存在は異色中の異色である。しかし、若い世代を引きつけられないような活動は、そのうちに衰退してしまう。彼らの発言がこういう場でどう受け止められていくのかを見るのは興味深い。

 そのうちの一人であるUさんは、「こういう活動には若者に対する視点が欠けている」と発言した。渋谷には様々な若者たちが集まってくる。漫画喫茶を泊まり歩くホームレス寸前の若年者も増えているという。彼らにとっては、「男女平等」より「明日の糧」の方が切実な問題だろう。区長は「コンサートなどの発表の場や集う場をつくるなど、区としても色々な手建てを考えている」というようなことを答えていたが、果たしてどこまで有効なのだろうか。

 日々若い人たちの様々な課題に接している身としては、今あちこちで叫ばれている「男女共同参画」というテーマは、どこか上滑りして「テーマのためのテーマ」という感じがしてしまう、というのが正直なところだ。「結婚」「子育て」「介護」などは、相も変わらぬ古くて新しい女性問題である。しかし今新たに生まれている「シングル女性たちの生き方」というテーマはまだ「女性問題」としての地位を獲得してはいないように思える。

 結婚の保守性から逃れ、「男女平等」の理念のもとで社会での自己実現を目指した若いシングル女性たちは、段々に先の見えない不安と疲労に苛まれ始めている。
そしてこれはそのまま「シングル男性」の問題としても敷衍する。「男女共同参画」というテーマではくくりきれない根深い何かが、じわじわと進行している。この課題をどう活動に結びつけていくのか、「地域」「行政」というキーワードをどう活用していくのか、女性センターの未来とCSNの未来は果たしてリンクすることができるのか、そんなことを考えつつ、また明日の会議にも出席してこようと思っている。
 
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2007年06月25日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

曖昧耐性

 昨日のA子さんのブログと、 moon-light-power さんのコメントを読んでいて、「曖昧耐性」という言葉を思い浮かべました。カウンセリングの勉強をしていたときに盛んに出てきた言葉です。

 カウンセリング場面では、はっきりと決定できないような事態が頻繁に生起します。良いようにも見えるが、悪い感じもする。好きなようにも思えるが、嫌いにも感じる。そうしたいけどしたくない。人の心というのは常にそういう引き裂かれた状況を孕んでいるものです。しかしそんなどっちつかずの状況を抱えているのは落ち着かない。とても居心地が悪い。それをとにかくどちらかに決めてしまえば楽になる。不安から逃れられるような気がする。ともするとそういう心理に陥りがちなのですね。

 カウンセラーが自らの不安に負けて、目の前に起きていることを、早急に何らかの価値観に当て嵌めてしまうと、その陰に隠されているかもしれない本当の姿が見えなくなってしまう。だからカウンセラーには、曖昧な事態を曖昧なまま抱えていく力が要求される。それが「曖昧耐性」と呼ばれるものなのですね。

 確かに人は曖昧な状況には弱いですね。良いか悪いか、好きか嫌いか、役に立つか立たないか、全ての事柄を白か黒かどちらかのカテゴリーに分類してしまわないと落ち着かない。「混沌」というのは人を不安にさせる一番の原因です。

 因みにタロットの最初のカードは「混沌」を表す「マジシャン」です。それから徐々に「教皇」「皇帝」「法王」と、価値観と秩序の世界へ進んで行きます。混沌を、善悪、美醜、正邪といった価値観で分類し、秩序立てて行くのです。そしてこれを守るために「戦車」「力」「裁き」などが総動員されます。しかしそれも、人の力ではどうにもできない「運命」「死」のカードを経て、「節制」と「悪魔」のせめぎあいの後、「塔」のカードのところで崩れ落ち、世界はまた混沌に引き戻されてしまいます。

 私のタロットの師である伊泉龍一先生は、「『分ける』」ということは『分かる』に通ずる」とおっしゃいました。「人は分からない世界に耐えられない」のだとも。しかし世界は分けられないもので満ちている。この世の秩序の「塔」が崩れ去った後無となった世界には、この世の価値観とは無縁の「星」「月」「太陽」が現れます。「『塔』以後の世界は危険と魅力に溢れている」と伊泉先生は言っておられました。

 このCSNを立ち上げる前に伊泉先生に占っていただいたら、「星」のカードが出ました。「現実的な利益や名声には結びつかないかもしれないが、その他の得がたい何ものかを得ることができる。きっとやってよかったと思うでしょう」とのことでした。この占いの結果をときに思い出してはかみしめる昨今です。
 
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2007年06月18日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

私のヰタ・トメトアリス

 この季節になると、我が家の食卓には必ずトマトが並びます。何故なら私の大好物だからです。しかしこの頃は本当に「うまい!」と思えるようなトマトになかなか出会えないですね。近くの八百屋やスーパーで売っているトマトにはとうに見切りをつけました。最近は専ら生協から仕入れています。

 私がトマトを好きになったのは、子どもの頃にとてもおいしいのを食べたからだと思います。昔は、大きな背負いかごをかついだ農家のおばさんがこのあたりを
一軒一軒回って野菜を売り歩いていました。うちにも毎週のようにやってくる馴染みの人がいて、夏になると真っ赤に熟れた大きなトマトを幾つも持ってきてくれました。その頃はまだ氷入りの冷蔵庫でしたが、その氷の上にトマトを載せて冷やし一日に何個も食べました。汗みどろになって学校から帰るやいなやランドセルを放り出して冷蔵庫を開け、おやつ代わりにその赤い大きな実にかぶりついた子どもの頃の記憶は、その鮮やかな色や濃厚な甘みを湛えた味とともに今でもくっきりと蘇ります。

 世の中が豊かに便利になっていくのと引き換えに、トマトはどんどんまずくなりました。かごを担いだおばさんの姿もいつしか見なくなり、子どもの頃のあの味は今や幻想になりつつあります。

 少し前まではその幻想の味を追い求め、ネットショッピングでやたら高いトマトを注文したこともあります。その名も「幻の塩トマト」。何と9個入りの箱が3,800円。届いたときは、小ぶりのダンボールに宝石のように並べられたつややかなトマトに胸高鳴らせながら、まるで貴重品でも扱うようにそーっと一粒を取り出したものです。この1個が400円以上につく。ケーキより高いトマトです。否が応でも期待は高まる。いよいよあの幻の味と「ごたいめ〜ん」なるか!!
 
 一口かぶりついて「・・・・」。皮がやたら硬いし果肉はやたらすっぱい。期待していたあの妙なる甘味の「か」の字もない。それでも諦めの悪い悪あがきかなりん。「もしかしてこの1個だけがはずれたのかもしれない」ともう一つ、
そしてもう一つとかぶりついてみた。みたけれどどれも同じ。ならばとわざわざ火を通してトマトソースを作ってもみた。みたけれど、特においしくもならない。
釣り書きにある「昔ながらの濃厚な味。生で食べても火を通しても絶品!」の文字がやたら虚しく見える。これならば近所の八百屋のすっぱいだけのトマトと何ら変わりがない。「チクショウ!だまされた。もう2度とヤフーのグルメショップで買い物なんかするものか!」と唇噛んだかなりんでした。

 その後、さすがに生協のトマトはいくらかまし、ということに気がつき、そして夏季限定予約販売のトマトに出会い、今年は「農薬半減特別栽培トマト」というのもなかなかというのを知り、今では「幻」とまではいかずとも、結構いい線いってるトマトライフを満喫しております。

 それでもやはり忘れられぬあの味。
 
♪Where have all the tomatos gone…

 
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2007年06月17日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

伝え方

先週、もう一度上司と話をした。
残業をせずに週3日は早く帰ると約束した後、早く帰っているのに、
なかなか仕事に集中出来ていない私に 上司はイライラしたらしい。
話はしばらく平行線を辿った。
「もっと気合を入れて仕事をしろ」という上司と、「集中しようと
思っても力が入らない」という私と。
どうすれば私の気持ちは伝わるんだろうって思った。

その時、気をつけていたのは、「私は」を主語にするということ。
「私はこう思う」「私はこう感じる」という言い方をするという
こと。
「あなたは〜だ」という言い方をしないということ。
この間、SSTの講座で学んだこと。
ちゃんと役に立ってる、と思いながら。

私が感じていること、カウンセリングを受けて「うつ」かもしれない
と言われたこと、相手に伝わるように、と思って話した。
上司もだんだん態度を軟化させてくれて、最後は「わかった。仕事を
休んでもいいから、一番早く予約が取れる日に病院に行ってきなさ
い。仕事のことは、その後に考えよう」と言ってくれた。
そう言ってもらえて、やっと落ち着いた。

次の日に、人事で働く女性の先輩に相談した。
仕事を休むには、どういう手続きが必要なのか、ちゃんと知っておこ
うと思った。
その先輩とは2年ほど同じプロジェクトで仕事をしている。
私の今の状態、上司とのやりとり等を話した時、「そうなんだ。
気付いてあげられなくて、ごめんね」と言われた。
その時に、ふっと気が緩んで涙が出そうになった。
誰も頼りにしてなかったのは私自身だって思った。
一人でやっていく、他人なんか当てにならない。
そう思って肩に力を入れて生きてたのは私。
周りの人との間にぴしっと壁を作って距離をとってたのは私。
こんなに長い間、この会社で働いてきて、周りに沢山の人がいた
のに、だれにも本心を打ち明けず、閉じこもってたのは私だって
思った。
わんわん泣きながら誰かに頼ったっていいんだって、甘えたって
いいんだって思った。
これまで、そんなことみっともないって思ってた。
友達の前で泣いたことなんてなかった。
(上司の前では泣くのに)
表面的なことしか話さないですむ人としか付き合ってこなかった。
これからは、少しずつでもいい、会社でも自分の安心出来る場所を
作っていこう。
CSNも、会社も現実。
どちらも私の居る場所。
甘える時には甘えて、嫌なことは嫌だって、自分の気持ちを伝える
ことが必要。
その「自分の気持ち」を評価したくなる気持ちは、脇に置いてみよ
う。
これって、やっぱり自分のACと闘うってことだよね。
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