2008年04月07日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「知能」は「知性」に如かず

 先日歯医者さんの待合室でパラパラと雑誌をめくっていたら、
「知性とは何か?」という記事が目にとまりました。
いわゆる「知能指数」(IQ)と知性との関係を取り上げている
らしい内容で、面白そうなのでじっくり読みたかったのですが、
名前を呼ばれてしまったので、雑誌の名前を確かめることもなく
棚に返してしまいました。

 今日は何を書こうかな、とパソコンの前でぼんやり考えていたら、
ふとその問いが頭に浮かびました。
「知性とは何か?」

 米国の認知心理学者であるハワード・ガードナーは、知能を単なる
IQだけではなく多元的なものとして、次の7つの領域に分けています。

 曰く・・・

 @言語的知能(言葉を扱う)、 
 A論理数学的知能(数、記号、図形を扱う)、
 B音楽的知能(リズムと音のパターンを扱う)、
 C身体運動的知能(身体と運動を扱う)、
 D空間的知能(イメージや映像を扱う)、
 E対人的知能(他人とのコミュニケーションを扱う)、
 F内省的知能(自己とその精神的リアリティーという内的側面を扱う)

の7つです。

 いかにも認知心理学者らしい分類ですが、さて、それでは、「知性」が
この7つの知能の総称かというと、どうも少しはみ出るものがあるような
気がするのは私だけでしょうか?

 はみ出るのは、いわば「心性」といったようなものです。
自らの存在をトータルに感じ、それを外界に放って分析する力です。
「知性」とは、そうした「知能」と「知能」をつなぐジョイントの部分をも
含むものなのではないでしょうか?そうして一体になってこそ、「知性」は
輝き、力を持つのではないでしょうか?

 因みに私の使うタロットはちょっと特殊なもので、一枚一枚に挿話が
あるのですが、そのなかに「知性」のカードがあります。それにはこんな
挿話がついています。

 ある夕方、ラビヤという老女が彼女の小屋の前の通りで何かを捜して
いるのを見て、通りがかった人が「何を捜しているのですか?」と問うと、
ラビヤは「私は針をなくしたのです」と答えました。
そこで人々が手伝い始めるのですが、いくら捜しても見つかりません。
そこである人が彼女に「どこでそれを落としたのか正確に言ってください」
と言うと、ラビヤは「針は家の中で落としたのです」と言います。

 人々は驚き呆れて、「家の中で落としたものをどうして外で捜しているんだ?」
とラビヤに尋ねます。すると彼女は「だってここには光があるけど、家の中には
ないからよ」と答えます。

 人々は益々驚き呆れて、「いくらここに光があっても、家の中で
落としたものが見つかる筈がない。光を家の中に持っていって捜すのが
正しいやりかたですよ!」と強くラビヤに言います。

 ラビヤはそれを聞くと笑い出し、「あなたたちは小さいことには本当に
賢い人たちなのね」と言い、「あなたたちはいつになったら自分の知性を
自分の内なる生に使うつもりなの?あなた方はいつも外ばかり捜している。
それは内側でなくなったものなのに!」と続けます。
そして「自分の知性を使いなさい!」と言い残し、口もきけずに立ち尽くす
人々を後に家の中に消えていきました。

 何とも意味深な挿話ですね。
ラビヤは人々の犯す愚を自らやってみせて、実際的なことに
いくら賢くても、それは「知性」ではないいうことを示すのですね。
言い換えれば、内側の闇に光を当てる力こそ「知性」なのだということですね。

 これなどさしずめ上記のガードナーの分類ではFの内省的知能ということ
になるのでしょうが、それだけがずば抜けて高いということはありえません。
言語的知能や論理的知能も深く関わってきますね。
自らの知能を総動員して闇のなかに潜んでいる「見えないもの」を見る。
その力が「知性」なのだと思います。

 見えないものをきちんと見るためには、見えるものをきちんと見ることが
できるという前提が必要です。今は見えるものもきちんと見ないで、やたらに
見えないものばかり追いかけるような風潮も感じますね。

 もし現代にラビヤがいたらこう言うのではないでしょうか。
 
 「いたずらに幻想に流されないために知性をみがきなさい!」

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2008年03月31日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「怒り」はどこへ行った?

 昨日劇団CSNのメンバーが集まって本読みをしました。
取り上げたのはジョン・オズボーンの「怒りをこめてふりかえれ」。
50年代に書かれた大分昔の戯曲です。

 何で今更こんな古い戯曲を取り上げたのかというと、
「怒り」というのは現代にも通ずるテーマだからです。
そしてその「怒り」の後ろにある「悲しみ」や「絶望感」も、
今も変わらぬ人間の心情と言えましょう。

 この戯曲の主人公はジミーという25歳の若者です。
彼は下層階級の出身で、友人の母親がやっていた
小さな菓子屋を継いでいるのですが、まぁ、今で言えば
定職のないフリーターのようなものです。

 彼は古いアパートで妻のアリソンと友人のクリフと3人で
暮らしているのですが、今の社会や暮らしの全てに対して
不満と苛立ちを抱えており、それを周りの人間にぶちまけます。
特に上流階級の出身である妻にその矛先が向かい、
それを庇う友人クリフにも八つ当たりをします。

 実際ジミーは本当にのべつまくなし怒っています。
皮肉と罵倒満載の長台詞が至る所に出てきて、
ジミー役のメンバーは四苦八苦でしたが、これが
この戯曲の魅力の一つでもあります。若い頃は
至極共感したものでした。

 彼のこの戯曲が火付け役となって、「怒れる若者たち」
という一大ムーブメントが世界中に広まり、演劇少女たる
かなりんも大いにかぶれたクチです。
この戯曲も、文学座などのメジャーな劇団から、大学の
演劇サークルまで、あちこちで上演されました。

 久しぶりに読み返してみると、もう今はこんな風に
怒りを外に向かってぶちまける奴などいないのだと
いうことを痛感します。あの頃世界中のあちこちにいた
ジミーは、今はもう年老いて本当に「老いぼれグマ」に
なっちゃったのかもしれません。

 もし今の時代にジミーが存在するとしたら、彼は単なる
DV男になってしまいかねません。「怒り」は一人一人の
胸中に深く内向し、ときに「誰でもいいから殺したい」という
過激な爆発を引き起こしたりしちゃうのかもしれません。

 TA(交流分析)的に言えば、勿論ジミーの怒りは
ラケットです。彼の本物の感情は、その心の奥底に
抱いている「孤独なクマ」に溜められています。
この「クマ」がラストでアリソンの「リス」と抱き合うシーンは、
どうもメンバーには不評でした。

 そんなに簡単に「本物」に辿り着くわけがないというのが、
メンバーの実感だからなのでしょう。
これから大幅に脚本に手を入れて、「現代のジミー」を
生み出す作業をしようかと思っています。

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2008年03月24日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「劇団CSN」再び

 先週の金曜日には、キャリアサポーター養成講座・応用実践コースの
第7回目が行われましたが、その際、高瀬講師が面白い参考文献を
持参してくれました。

 精神科医北山修氏の「コラボレーションとしての心理援助ー
共演すること」という論文で、「臨床心理学」第8巻2号(2008年3月)
に掲載されたものです。
 
 北山修氏といえば、かの昔、フォーククルセダーズというグループで
「オラハシンジマッタダ〜」と歌っていたのを思い出してしまいますが、
今は精神科医として堂々たる活躍ぶりです。
いや何とも華麗なる転身、これぞまさしくキャリアアップの鑑ですね。

 ってなことはさておき、件の論文ですが、この中で氏は、優れた
パフォーマーが必ずや持っていると思われる、「演じている自分を
背後から見つめるもう一人の自己」である「背後自我(backing ego)」
について論述しています。

 野球選手の古田や松井秀喜の発言を例に引き、それに続いて
世阿弥の説く「離見の見」、「目前心後」に言及し、「クライエントを
相手にする職業人として、演者としての自覚が深く求められる
ことになる」と述べています。

 この論文でも取り上げられていますが、「演技や役に没入する自分
と、それを醒めた目で見つめる自分との二重性を生きることが優れた
演者の要件だ」という演劇的観点を、臨床での面接技法論に移行させた
のが、精神分析研究家の前田重治です。

 彼は、「第一の目」、「第二の目」、「第三の目」という言い方をして
いますが、それぞれ、「相手を観察する目」、「相手から見える自分を
見る目」、そして「自分を含めて2人の関係を見る目」、ということに
なります。

 北山氏は、「第三の目」とは「ステージの構造論で言うなら、バックの
伴奏者や共演者の視点、照明、演出家やスタッフ、装置の担当者たち
の位置にある目」だと言います。

 そして、演者の演技が、自分には見えないバックを含めて、全ての
バックへの信頼に支えられているように、心理臨床においても、面接室
の内外を問わず「バックのバッキングに対する信頼感が中身を左右する」
と言っています。

 以前このブログでも書きましたが、私はかの昔、相当な「演劇少女」
でした。現在カウンセラーという職業についていることが、それと
つながっていることは常々感じるところです。
北山氏みたいに「華麗なるキャリアアップ」とは言いがたいですけどね。

 不肖元演劇少女かなりんの「演劇とカウンセリング」に対する所見は、
以前このブログに書いたことがあります(こちら)

この頃はメンバーの間でも「劇団CSN」を結成しよう!なんて
盛り上がっていたのですが、(これとかこれ)
いつの間にかぽしゃっちゃいましたねえ。

 まぁ、私ももう少し余裕ができてからやればいいと思っていたのですが、 
こんな論文を読んじゃったら、もうやるっきゃないでしょ!ですね。

 そんなわけで、俄然火がついちゃったかなりんの「演劇魂」ですが、
はてさて燃やし尽くすことができますやら。
頼むはメンバーの「役者魂」。
これも「修行」の一環と覚悟して取り組んでくださらんことを!

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2008年03月17日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「脚本抵抗」を超えて

 今までの状況を変化させたり、新しいことをやろうと思ったとき、
どうしてもその一歩を踏み出せず、立ちすくんでしまうことがあります。

 その時の自分の心の内を良く見つめてみると、多分恐れや懐疑といった
感情が根強く自分を支配していることが分かります。
これは、自分の中の「親」が持っている価値観に縛られた「子ども」が
抱く感情です。

 また、ストローク飢餓の「子ども」が、無意識にゲームを始めようと
している時も、「大人」の目で冷静に見つめれば、寂しさや怒りの感情が
隠されていることに気づくでしょう。

 この感情に気づかぬまま、巻き込まれて反応してしまうと、せっかく
抜け出そうとしていた「脚本」(「用語解説」参照)のパターンをまたもや
繰り返してしまうことになります。

 我がCSNのメンバーのブログにも時折見かけますね。
これとかこれがそうです…、って男Nばかりじゃん!

 しかし最近の男Nは随分立ち直ってきましたね。
男Nばかりでなく、他のメンバーたちにも進境著しいものを感じます。
共に過ごしたこの年月を思うと、みんないろいろ抱えながらよく
やってきたなあ、と感慨もひとしおです。

 折りしも昨日のブログにあるように、A子さんが大きな決断を
しようとしています。

 まだまだ「脚本抵抗」(過去ログ参照)に手こずっているようですが、
彼女も言っているように「大人」の資源を精一杯使って、
タイトル通り「キャリアアップへの道」を邁進されんことを
願っております。

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2008年03月10日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

さすらい新人類

 「流浪の民」と言えば、古くはジプシーか旅芸人、比較的記憶に
新しいところではヒッピーっていうのもありましっけ。
それに戦禍で国を追われた人々やホームレスも「流浪の民」ですよね。
そこに昨今の日本では新種が出現しているらしい。
ネットカフェを泊まり歩いて生活している人々です。
近頃メディアでも「新しいホームレスの形」として取り上げられ始めて
いますね。

 私も彼らの実態を知りたいと思っていたところでした。そんな折
たまたま「ネットカフェ難民」(川崎昌平著、幻冬舎新書)という
本を見つけました。ードキュメント「最底辺生活」ーという副題が
ついている通り、著者の「難民生活」を綴った手記です。
なかなか面白くて、一気に読んでしまいました。

 著者の略歴を見ると、1981年生まれの25歳(執筆当時)、
東京芸術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了という
我がNPO会員男Nに勝るとも劣らぬ華々しい学歴をお持ちの方です。
「ヒキコモリ兼ニート生活を経て、07年のある時期からネットカフェ
難民生活を開始する。」とありますが、学校を卒業したのが
06年ですから、ヒキコモリ&ニート期間に関しては我が男Nの方が
圧倒的に勝ってはおります。

 まあ、そんなことに勝ってたってしゃーないじゃん、という声も
ありますが、確かにしゃーないですけど、男Nに比して著者は断然
アクティブだし、「自称・日本一前向きな25歳」とおっしゃるだけあって、
非常に自己肯定的なので、この辺り、やはり男Nの方が「正統派」と
言えましょうか。

 ヒキコモリやニートに「正統派」はないだろう、という声もありますが、
それなら言い換えれば、「古典派」といったところでしょうか。
世間の荒波に飛び込むことを恐れて逃げ続け、そんな自分に
どうしても否定感をもってしまう。そして一生懸命社会復帰を
試みるが、なかなかうまくいかず、無力感と焦りに苛まれて
自己否定感を益々募らせてしまう、とこんなところが今までの
「ヒキコモリ&ニート」像だったと思います。

 著者には東京近郊に実家があり、帰ろうと思えばいつでも帰れる
という環境なんですね。ずっと実家でパラサイトニートをしていても
いいのに、あえて「ネットカフェ難民」の道を選んだ、というところに
著者の主体的な「生き方の選択」というのがほの見えます。
これがまさに彼の「ニートからの旅立ち」だったのですね。

 と言っても、著者は、60年代のヒッピーのように声高な主張を
しているわけでもないし、明確な思想があるわけでもない。
著者は時折絵の家庭教師をして働いており、その報酬が入った折に
漫画喫茶に泊まり、翌朝のエレベーターで一緒になった「難民」と
おぼしき一人の若い女性が放つ「生き物的な臭気」に触発されて、
「ほとんど唐突と呼んで差し支えない勢いで、新生活に身を投じる決心をした」
のです。

 著者の言うとおり、その旅立ちは、「決心というほど立派なものではなく」、
「引きこもる場所を実家の六畳間からネットカフェの一畳ちょいの空間へと
変えただけ」であり、「それを変化と誇る気は毛頭なく」、「もとより変化を
求めてのことではなく」、「格差どうこうというごたくにこめられたような
反骨精神の現れでもなく」、「ただ純粋に考える環境を移してみただけの話」
なのです。「具体的な展望は欠落しており、かといって自棄のやんぱちでもなく」、
「ある必然性を持つ気まぐれ」であると著者は言っています。

 それからの生活記は、著者の幅広い知識と思考力に支えられ、文章力も秀逸、
ユーモアも巧みで読ませますね。特異な経歴を持つこの著者の手記が
「ネットカフェ難民」の平均値とは思えないけれど、日々の生活状況なんかも
面白く書かれていて、「難民生活」の実際を知る手がかりともなりました。
男Nも早く手記を出さないと後輩にどんどん先越されちゃうよ。

 そういえば男Nは「ダメ連」というのに出入りしていたようですね。
「ヒッピー」がふた昔前なら、「ダメ連」はひと昔前になりましょうか。
一流大学(主に東大)を出て自らを「ダメ」と名乗る連中が、毎日何も
せずに喫茶店でたむろってるっていうんで、当時は結構話題になりました。

 しかし、「ヒッピー」や「ダメ連」の「古典派」若者たちと、現代派
「ネットカフェ難民」には、決定的な違いがありますね。
それは、現代派は「決して群れない」ということです。
「ヒッピー」が集団で行動し、「ダメ連」も「連」というくらいでグループを
つくっていたのに比して、「ネットカフェ難民」は決して他者と連帯しない。
まあ、なかにはカップルもいるらしいけど、基本的に彼らは一人なのです。
部屋も個室、行動も一人、友達はいない、これが平均的「難民」像らしい。
いかにも現代の「難民」ですね。

 だから「ヒッピー」には確かにあり、「ダメ連」にもどこかに感じられた
「社会に向けた主張」というものが全くない。それは前述の著者の言葉にも
顕著ですね。最低限にしか社会とは関わりを持たず、「目標」とか「意味」
を排し、あくまでも「個」として在り続けようとする、それはそれでまた
新しい生き方だと思わせられるところがあります。

 こういう「さすらいの形」にこそ、その時代の持つ特質が尖鋭的に現れる
のかもしれませんね。

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2008年03月03日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ココロのおウチ

 ココロのおウチは人によって素材も形もさまざまです。
堅牢な石造りだったり、風通しのいい木造だったり、吹けば飛ぶよな
プレハブ造り、すぐに浸水する泥のおウチなどなど。
ドアや窓が大きく外に開かれているおウチもあれば、殆ど締切りのもある。
周りに高い石塀を廻らせていたり、こけおどしみたいな鉄扉があったり、
でもたまには、低い生垣から広々としたお庭が見渡せるようなおウチもあります。

 ココロのおウチには、誰でも3つのお部屋を持っています。
でも最初は1つしかありません。
「子ども」のお部屋です。
ここにはいろんな感情がぎっしり詰まっています。
怒りや恐怖、喜びや悲しみ、現実の子どもの持っている
原始的な感情と、それから派生したあらゆる感情のお部屋です。

 次に「親」のお部屋ができます。
ここには現実の親や周囲の大人たちから受け取った「価値観」の数々が
丸ごと入ります。その人たちの持っていた「子ども」の感情も丸ごと
ここに入ります。このお部屋からあふれ出した感情は、形を変えて
「子ども」のお部屋に押し込まれることもあります。

 最後に出来るのが「大人」のお部屋です。
このお部屋がしっかりつくられてくると、「子ども」や「親」の
お部屋から必要なものを取捨選択して、どのお部屋も居心地良く
整えられます。大人の叡智の力はどのお部屋にも及びます。

 3つのお部屋は本来自由に出入りができます。
「親」の価値観は、ときに「子ども」の奔放さとぶつかりますが、
「大人」がそれを制御したり、解き放ったりしてその葛藤を治めます。
そしていつも安定した居心地のよい環境を守ります。

 しかし、そううまくいくことはあまりありません。
なぜなら、ココロのおウチは常に過酷な外界に晒されているからです。
ときに嵐が吹き荒れたり、大雨に打たれたり、大地震に襲われたり。
その度に「子ども」は泣き叫び、「親」は防壁を打ち立てて外界を遮断し、
「大人」はなす術もなく自らお部屋に閉じこもってしまいます。

 「親」は泣き叫ぶ「子ども」を部屋に閉じ込め鍵をかけてしまいます。
閉じ込められた「子ども」はいつか英気を失い、そのまま動かなくなってしまうか、
恨みと怒りをじっと堪えて爆発する機会を窺うことになります。
「親」が目を放した隙に、「子ども」はドアを打ち破って外に飛び出してこようと
暴れまわります。

 カウンセリングのなかで、そんなココロのおウチの危機にこの頃よく出会います。
「大人」さえ働き出せば、嵐も大雨もちゃんと凌げるし、大地震の後始末も
きちんとできるというのに。
「大人」にはそうした力が十分備わっているのですから。

 それに、それほど大したことではなくても、「子ども」は実際の何倍もの恐怖を
感じてしまうものなのです。
そんなとき「子ども」は魔法の世界に逃げ込んだり、何も感じないようにして
身を守ったりします。それは「子ども」の精一杯の保身なのです。

 そんな「子ども」が本来の活力を取り戻すためには、是非とも「大人」の
力が必要です。「親」が懸命に築いた防壁を崩し、お部屋のドアを開け放ち、
「子ども」が安心して自由に動ける環境をつくらなければなりません。
思い切った挑戦を助けるのも、危険な暴走を留めるのも「大人」の力です。

 そういえば、「ココロのおウチ」全体の建て直しを随分前に始めた人も
いましたっけ。
恐がりな「子ども」が暴れだして、途中で工事が止まっちゃったことも
あったりしたみたいだけど、進み具合は今どんなもんでしょうか。
順調な落成を祈っています。

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2008年02月25日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「子ども」に会う旅

 久々の「ナチュラルトラックバック」です。

 mocoちゃん、A子さん、それぞれに自分の「子ども」と出会う旅」
を始めたようですね。
先日のエンカウンターグループがよいきっかけになったと思います。

 私にとっても、あのエンカウンターグループは、「自分の中の
子ども」を見直す思いがけない機会となりました。

 私がその「子ども」に初めて気づいたのは、カウンセリングを
学び始めて4年目くらいのときでした。

 今からもう十何年も前のことです。

 「フォーカシング」という技法のトレーニング中に不意に
現れたその「子ども」は、薄暗いステージの隅にうずくまる
ようにしてしゃがみこんでいました。
私はどうしてよいか分からずにトレーニングを中断して
そのイメージを追い払いました。

 しかし、それから度々その「子ども」は姿を見せるようになり、
追い払っても追い払っても消えずに私を苦しめました。
自分の中にある得体の知れない激しい衝動的な欲求の源泉が
その「子ども」にある、と思い至ったときの衝撃は今でも
忘れられません。

 この「子ども」に自分のこれまでの人生が
支配されていたなんて!消えてしまえ!消えてしまえ!と、
心の内で繰り返し叫んでいました。

 それからの「旅」は本当に長く苦しい道のりでした。
私がその「子ども」に声をかけ、手を差し伸べ、そしてついに
抱きしめるまでに実に十年以上もかかったことになります。

 それだけ「私の中の子ども」の憎しみや敵意は激しかった
のだと思います。その子の持つエネルギーの全てをかけて
私のひ弱な「A」(大人の要素)や「P」(親の要素)に
対抗していたのです。

 今はもうその「子ども」の姿は私の中のどこにもなく、
ただ伸びやかに解放されたエネルギーだけがあります。
それは、苦しい戦いの果てに、私の腕の中に納まったその
「子ども」が私に残してくれた置き土産です。
私は今、そのエネルギーに助けられて生きているのを感じます。

 これは、エンカウンターのなかで「今あの子どもはどうして
いるのだろう」と自分の中を辿っているうちに気づいたことです。
自然に目の奥が熱くなり、そして自分の中に混然と溶け込んで
しまっているそのエネルギーごと自分を抱きしめたいという
思いがこみ上げてきました。

 全ての人が自分の中に「子ども」を抱えています。
そしてその「子ども」は、自分の存在に気づいて
もらいたがっているのです。
それがどんなに醜くとも、どんなに反抗的であろう
とも、そのありのままの姿で抱きしめてもらいたいと
切なく望んでいるのです。

 その「子ども」を抱きしめられるのは世界でただ一人、
自分をおいて他にはいません。
そしてそのとき、きっとその「子ども」は自分の人生に
とって大きな助けを与えてくれる「何か」に変容する筈です。

 「そのとき」に向けて、mocoちゃんやA子さんの「旅」が、
苦しさを乗り越えて進むことを願っています。

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