2008年10月13日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「見かけ」と「準拠枠」

 ここのところ、ロスの獄中でかの三浦和義氏が
自殺したという話題がメディアを賑わしています。
今日の新聞には、会見したロス市警の捜査官の
「特に変わったところは見られなかった」という
発言が載っていました。

 凶悪事件を引き起こした犯人に対して、近所の人や
同級生などが「とてもそんなことをするようには思えな
かった」というコメントをしているのよく見かけます。
そうでなくても誰かに対して「とてもそんな風には見え
なかった」という感想を抱くことはままあることですね。

 まことに人は見かけだけでは分からない。
しかしそれは見るほうの側にもかなりの原因が
あるのだと思います。人は他人を見るとき
自分の準拠枠から判断していることが多い。
「あの人は大人しいからきっとそんなに大胆な
ことはしない」だとか、「あんなに明るく振舞って
いるのだから悩みなんかないんだろう」とか。

 人は誰でも自分のことに大半の意識を向けて
いるので、他の人のことは余り深くは見ようとしない
のが常です。特にそれ程親しくない人や、関心の
ない人のことは、通り一遍の見方をして済ませて
しまう。その方が自分の準拠枠を脅かされずに
いられるからです。

 「準拠枠」というのは、交流分析の用語で、
「価値観」という言葉に置き換えてもいいと思いますが、
交流分析でわざわざ「枠」という語を使うのは、
それが「自我」を規定するものだということを
強調したいからだと思います。その人が何に価値が
あると思うかは、行動を大きく左右し、時には
感情までも抑制します。枠に従って行動したり
感じたりする方が、安心していられるからです。

 しかし人の心の中には、その「枠」からはみ出して
しまうものが沢山あります。例えば「真面目でなければ
いけない」とか、「物事は達成しなければいけない」とか、
沢山の「〜しなければいけない」という枠を持っている人は、
そうしたくない気持ちとか、それに反するような
衝動的な欲求は全て枠の外に押しやってしまいます。

 だからこの「枠」の硬い人は、他人のことも自分のことも
その範囲内でしか見ることができません。枠の外に押しやった
ものを見ようとするれば、その枠組みを緩めたり壊したりする
必要があります。それはやはり自分を守っている「枠」を脅かす
行為になってしまうからです。

 外側に向ける顔は穏やかでも、内面には非常に激しい
感情の坩堝を隠し持っている人や、表現は乱暴でも
内実はひどく小心で臆病なところがあったりする人は
大勢います。準拠枠の硬い人は、「自分はこうでなければ
ならない」という思いを強固に持っていて、それ以外の
様々な欲望や感情が自分にあることを認められません。
それが「人にもそう見せたい」という願望につながって
いきます。

 その人を見る他者も自分の「準拠枠」を持っていて、
それを脅かされたくはないので、それ程関わりの
ない人であればその人の外側の顔を全てだと
思い込もうとします。「あの人は〜な人」と規定して、
良くも悪くもそれで済ませてしまえば、楽だからです。
しかし関わりが深くなるとそうもいかなくなります。
「見かけ」の裏にその人が抱えている膨大な「枠外の世界」
を受け入れていく必要が生じます。お互いに枠を少しずつ
修正しながら関係をつくっていかなくてはなりません。

 「人間関係」の難しさはここにあります。「そんなことを
してまで人と関係を持ちたくない」という準拠枠を持つ
人は、できるだけ濃密な関係を避けようとします。近年
こういう人は増えつつあるみたいですね。

 冒頭の三浦氏の場合も、「こう見せたい自分」という
準拠枠と、その裏にうごめく欲求が激しく相反し、深い
亀裂が埋めきれぬまま、極端な行為に走ってしまった
感じがします。三浦氏は「見かけ」をつくることに余りにも
執着し過ぎて、結局は収拾がつかずに破綻してしまった
のかもしれません。

 このトピックスに対しては「へ〜!」で済ませてしまえる
私たちも、もしこれが近しい関係の人であればたちまち
自分の精神状況に影響してきます。こんなに極端な事例は
そうないとはしても、自分の周囲の人が、自分の準拠枠を
超えた言動をしたとき、自分がそれをどう受け入れて関係を
保っていくのか、いかないのか、自分の「準拠枠」の検証を
迫られることになります。

 人は誰しも「見かけによらない」ところを持っています。
自分にさえ見えていないものも沢山あります。そして
それが人間の厄介なところであり、面白いところでも
あります。こうした人間の一筋縄ではいかない複雑さを
どう捉えるかもまた、その人の「準拠枠」次第ということに
なりますね。

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2008年10月06日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ココロのスペース

 以前のブログで「ココロのおウチ」について書いたこと(こちら
がありましたが、今日はその「おウチ」のスペースについて
考えてみようと思います。

 よく「あの人は心が広い」とか、「そんな心の狭いことでどうする」
とか言われますが、前者は「寛大でおおらか」、後者は「窮屈で頑固」
といったようなイメージがありますね。これってやはり「ココロのおウチ」
のスペースがどのくらいあるか、ということに関わっているような気が
します。

 ただ、一口に「広い」とか「狭い」とか言っても、そのつくりは様々です。
間口だけは広いけれど、奥行きがないおウチとか、その逆に入口は
狭いけれど、中に入ったら以外に広々しているとかいろいろあります。

 いずれにしてもスペースに余裕がないと、自分一人がいるだけで
一杯になってしまって、なかなか人を入れることができません。
よしんば入れたとしても、その人が勝手に動き回れば自分に多大な
影響があるので、できるだけ閉め出したくなってしまうのですね。
これ、「引きこもり」の心性です。

 身体は人の中にいながら、こころが引きこもっている人は結構います。
そういう人はドアに頑丈に鍵をかけて、人を中に入れないようにして、
一人の世界に閉じこもっているのですね。

 だから「引きこもり」という現象には、こころの「スペース」が関わっている
のだと、私はにらんでいます。抑うつ的になりやすいとか、神経症的な
行動が出がちな人もこの「スペース」が狭いことが多いのですね。

 誰しも思春期の頃までは狭いおウチに住んでいます。それを徐々に
自分の力で広げていくわけですが、これがそうそう簡単ではない。
うまくいかずに狭いスペースのまま住み続けることになってしまう。

 スペースが狭いとちょっとした異物も受け付けられなくなることも
よくあります。人の何気ない言葉や態度に過剰に傷つく人というのも
大人になる過程でスペースを広げられなかった人ですね。

 前述したように、その「つくり」が十分でない場合も多いですね。
玄関だけは広げてみても、奥行きを広げられなければ、
いつも人と立ち話しくらいしかできないし、奥行きは広げても
入口が狭ければ、人は気楽に入って来られません。

 こんなことを考えたのは、先月受けた「訪問支援員養成講座」
こちらを参照)のレポートを書いたのがきっかけです。カウンセラーも
「ココロのおウチ」をいつも訪問しては、そのスペースやつくりを観察し、
どういうおウチに住んでいる人かを見極める。なかなか中に入れて
くれない人や、いつまでたっても立ち話しかしない人や、奥には通して
くれたけれど全体のつくりがよくつかめない人や、なかにはすざまじく
荒廃しているおウチだってある。事例では分厚い「訪問支援マニュアル」
に負けないくらい「ココロのおウチ」を取り巻く環境は多様です。

 カウンセラーも「訪問支援」をしているじゃん!って考えたら、随分
違う世界に見えたあのセミナーの内容が、ぐっと身近に思えてきました。
もっとも実際のおウチを訪問するのと、ココロのおウチを訪問するのと
全く同じことだとは言えません。それでもこれからの体験学習で
私のココロのおウチのスペースを広げることはできそうだと、楽しみに
しています。

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2008年09月29日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

現実と情熱のあいだ

 秋の風も爽やかな先週末、私ははるばる奥多摩方面まで
出かけました。新宿から乗った電車も“ホリディー快速奥多摩3号”
早朝の車内はハイキングに出かけるらしい家族連れなどの姿も
ちらほら。

 このまま奥多摩まで行っちゃいたいような気分を払いのけ、
途中から乗ってきた男Nとともに降り立ったのは福生駅。
今月から3ヶ月間に渡って行われる、東京都の「ひきこもり等の
若年者支援プログラム」による「第1回訪問支援員養成講座」の
今日は初日。会場はこの事業を都から受託しているNPO法人
「青少年自立援助センター(YSC)」です。

 このNPOは、ひきこもりの若者達が生活する寮を持つことで
有名で、「タメ塾」という名でも広く知られています。理事長の
工藤定次氏は、厚労省などとのパイプも太く、政府が行う
若者支援策の殆どにこの工藤氏が関与しているようです。

 私の身近にも、この塾に入ってめざましい成果をあげた例
があり、しかし一部には、、戸塚ヨットスクールばりに「軍隊
のようなスパルタで若者を締め上げている」といった批判の
声も聞かれるなか、是非この目で真相を確かめたいと思って
いたところに舞い込んできた、まさに「渡りに船」の案内状。
おまけに講座料は都の補助でただ同然、終了すれば都からの
お墨付きまで貰えるらしい。手続きは些か面倒だけれど、
これはやらない手はない、というので申し込んだというわけです。

 講座のカリキュラムには、2泊3日の寮生活体験宿泊が
あるので、男Nは少なからずビビッていたようだけれど、講座
の最初に挨拶した工藤理事長にいたく気に入られたみたいで、
最後は専ら男Nとのマンツーマンの問答みたいになっていました。

 理事長曰く、「君、緊張してるでしょ?訪問支援というのは、
相手の城で勝負するようなものだから、空気のようにふわっと
入り込まなきゃだめ。緊張してちゃだめ。それには専門技術
より何より人間の幅がものをいう。同じことを言うのでも相手を
ふっと和ませる言い方ができるかが大事。そういうものを持つ
ためにはね、遊ばなきゃだめ。君遊んでないでしょ?今度僕が
教えてやるよ!」といった具合。壇上から身体の向きまで変えて
他の受講生を無視し、男Nだけに向かって熱心におっしゃる、
そのココロは?やっぱり気に入られたんだよね〜!

 というわけで、工藤理事長は思ったとおりエネルギッシュな
方ではありましたが、鬼軍曹のようには見えませんでした。
むしろ往年の不良少年といった面持ち。「ひきこもりの若者は
出てこられないんだから、それならこっちから行くっきゃない」と、
「訪問支援」の理論も単純明快です。

 受講生の自己紹介の後、最初の講義はこのセンターの支援員
小林勇氏による「YSCの訪問支援」。それによると訪問が本人に
知らされていないことも多く、まず対象者と会うまでが一苦労との
こと。「どこかへ無理に連れて行かれる」と誤解して部屋に閉じこもったり、
訪問員が来ること自体がストレスになって家族に当たったりすることも
あり、そのために家族が怪我をしたり、精神疾患を発症したりする事態
になったこともあるといいます。

 次に行われた同センター支援員石井正宏氏による「生活保護受給家庭
訪問支援」になると、もっとすざまじい。レジュメには様々な事例が列挙されて
いるのですが、そのあちこちに踊るDVの文字。「不労」の連鎖。親の非協力。
障害や精神疾患も多い。その悪状況に巻き込まれている子どもを一人でも
多く立ち直らせるのが支援員の使命。されどタッグを組む頼みのケースワーカー
は、公務員になってたまたま福祉事務所に配属されただけだから、その多くが
お役所仕事的な意識しかない。長くても4年の勤務。役所ではこれを陰で
「4年の懲役」と呼んでいるそうな。

 極めつけは最後に講義を担当した佐賀のNPO法人「ステューデント・
サポート・フェイス」の代表理事谷口仁史氏により発表された支援事例の
数々。氏のNPOが支援している対象者は殆どが10代の思春期にあたる
若者たち。表面に出てきているひきこもりの理由の陰に、周囲の大人の
信じがたい無理解や酷い虐待まで、様々な根深い要因があることが多く、
彼らの心を開かせることがとても難しいものばかりです。谷口氏は入念に
周辺からの情報収集をして、その子の好きなことを関係構築の突破口に
していると言います。ゲームを習得して一緒にやったり、夜釣りに夜明けまで
つき合ったり、マニアックなバンドの音楽を事前に聞いて話したり、といった
具合。1976年生まれの32才。「若いからもつのよね〜」と言いたくなるほど
のハードな仕事ぶりです。

 一日の受講を終えて、ため息をつくしかないような内容の連続でしたが、
「環境介入」を標榜する我がNPOとの理念の共通点はかなりあるように
感じました。私もカウンセラーながら、生活保護の申請や病院に同行したり、
一緒に飲食をしたり、随分はみ出したことをやっています。だから彼らの
言葉の端々に「カウンセラーなんぞ現場では何の役にも立たない」という
ニュアンスがあることにも納得できます。青島刑事の言う如く、まさに
「事件は現場で起きている」のですから。

 それでも私には、どこかに、微かに感じる違和感がありました。それは
講義をなさった支援員の方々の途方もない情熱と使命感に対して感じる
ものだと思います。「訪問支援」という方法は当人の依頼がない場合が多く、
それも全く枠のない状況下で行われるのですから、双方にとってのリスクは
相当なものです。そこをカバーする熱意は誰でもが持てるものではありま
せん。

 それに「熱意」とか「使命感」というのは、真っ直ぐに目標に向かうという
イメージがあります。余りの明快さや屈折のなさは清清しい反面、複雑で
陰影のあるものを排除してしまうという性質があります。そこに拘泥する
ことは、有効な「行動」を妨げてしまうからです。私にはどうしても明快な
目標の元に真っ直ぐに進んでいくということができない部分があります。
「ケースワーカーの鑑」とも言うべき講師陣に対し、「あの情熱の陰に何が
隠れているのだろう」と疑問を持ってしまうのも、その性癖のなせる業です。
現実的なケースワークの有効性を十分に認めながら、そして片足はいつも
そちらにはみ出しながら、軸足が決して動かないのはそのせいなのだと
改めて分かりました。

 それでもとにかくまだ始まったばかりの研修で、これから2泊3日の
体験合宿、訪問支援実習、そしてまとめの講義と、とびとびにでは
ありますが、12月までスケジュールは続きます。それらを全てやり終えた
時点で自分が何を感じるか、再度検証してみるつもりです。

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2008年09月22日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

君の行く道は…

 我がCSNきってのイラストレーターの使い手、事務
ボランティアnekoちゃんの奮闘で、うっとりするほど
美しく刷り上ってきた会報。 しかしいつまでも眺めて
いるわけにもいかず、ただ今会報第4号発送作業
真っ只中で大忙しのかなりんです。

 そんな慌しいここ数日ですが、先週の土曜日の夜は
ちょっと小休止。青山表参道で開催された「シブヤ大学
設立2周年記念パーティー」に出かけました。

 同じ渋谷で活動するNPO法人の「シブヤ大学」さんとは、
区の総務課長さんのお計らいで一度お会いしたことが
ありました。左京学長がお若いのに頑張っておられる
ことに感心しておりましたが、今回は設立2周年にして
堂々の記念パーティー。たいしたものです。お誘いを
頂いて、我がCSN期待の新星、ダンシングファシリテーター
ayakoとともに出かけて参りました。

 会場の表参道ヒルズは、活動に賛同して場所を提供
していらっしゃるとのこと。広いスペースに若者たちが
ぎっしり。渋谷区のお歴々の顔も見え、なかなかの盛況。
活動の充実ぶりが窺えます。

 実は前回お会いしたときに学長さんの表情が非常に硬く
全く瞬きをなさらないのがとても気になっていたのですが、
この日久しぶりにお顔を見て、和らいだ表情が戻っていて、
ちゃんと瞬きも復活していることに安心しました。
私がそのことを告げ、「相当大変だったんじゃない?」と
尋ねると、「あゝ、そうです。あの時は大変ですごく疲れて
いました」と、率直に答えてくださいました。
やっぱり!

080920sibuyadaigaku-1.jpg

 



 

 
 NPOの運営は本当に大変です。CSNのようにごく小規模な
組織でも、活動を続けていくのは並大抵ではありません。
「シブヤ大学」さんのように短期間で組織を広げて、大人数の
スタッフやボランティアを束ねて活動を進めていくご苦労は
さぞ大変なことだろうと思います。

 渋谷区のみならず全国でも、活動を休止しているNPOが
かなりの数に上ると聞きます。そのなかで健闘している
「シブヤ大学」さんの活動にエールを贈るとともに、私達
CSNも、いかに大変でも歩き続けて行こうと、改めて決意を
新たに致しました。

 さあ、会報発送、今月中には届くよう頑張らなくちゃ、ね!

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2008年09月15日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ヘーゲルはお好き?

 このところめっきり秋めいてきました。
かなりんお待ちかね、食欲の秋です。
そしてまた、活字中毒のかなりんには垂涎の季節、
読書の秋でもあります。

 そんな季節を迎えるにふさわしく、
知的好奇心溢れる我がCSNメンバーが集まって
かねてより企画していた「哲学を読む会」の
第1回目が昨日行われました。

 哲学に造詣の深い会員のMさんを講師役に、
総勢7名が、CSNの研修室で熱い議論を展開しました。
初秋とはいえ、未だ消えやらぬ昼下がりの残暑が、
いや増すようなひと時でした。

 テキストには、Mさんが選んでくれた木田元著
「反哲学入門」を使うことにしました。この本は、
初めて哲学に触れる人でも読み進められる
平易な文章で書かれているので、入門書としては
もってこいです。

 木田氏によれば「哲学」の原語の「philosophy」は、
古代ギリシャ語の「philosophia」の音をそのまま移した
もので、philein(愛する)という動詞と、sophia(知恵or知識)
という名詞を組み合わせて作った合成語であり、「知を
愛すること」つまり「愛知」という意味になるのだそうです。

 これを訳したのは、日本最初の本格的な西洋哲学
研究者である西周(あまね)という人で、初めは「希
哲学」と訳していたそうです。それがいつの間にか
「哲学」になってしまい、原語のもつ意味合いが全く
失われてしまったのだということです。

 もっとも、初めてこの語を抽象名詞ではっきりと
限定した意味で使ったというソクラテスも、それほど
素直な思いをこめていたわけではなさそうで、まあ
皮肉屋で有名な彼のことですから、「知を愛し求める
なんぞ無知な輩がやること」といった言外のアイロニー
が籠められていたようですが。

 ソクラテスさまのご指摘を待つまでもなく、
こうして「哲学」などひもとくほどに、我が無知ぶりは
痛感せざるを得ません。プラトンの「イディア」論は
知っていても、それが丸山眞男の近代化理論と
通ずるところがある、とか、それとハイデガーの
論理は逆の道筋を辿るとか、要するに知識が
体系的になっていないのですね。

 それについては、「文系の頭」と「理系の頭」との
違いというのを改めて感じさせられましたね。
私のような「文系」は、一つのことに熱中すると
とことん没頭して我を忘れる。「何故?」とか
「どうして?」とか全く思わないから、体系を追っていく
必要がないのです。

 それに比して「理系」は、常に「何故?」と疑問を抱く。
理論的に解明できないと納得しないところがあるので、
勢い知識も体系的になるのですね。

 恐ろしい(?)ことに我がCSNにはこの「理系アタマ」が
多い。昨日のメンバーにしても、7人のうち4人が「理系」
でした。彼らは小さい頃から森羅万象に対して「何故?」
という疑問を抱いていたらしい。小6で原田康子の
「晩夏」に感動し、ひたすら非日常的幻想を夢見ていた
かなりんとは随分違うんですね。

 昨日は、初回だったので大筋の流れを追ったような
内容だったのですが、それでも様々なテーマで話しに
花が咲きました。「宗教」と「哲学」を巡る疑問、ヘーゲル
の「精神」とデカルトの「理性」との違い、ハイデガーから
サルトルへの推移など、頭数は少なくとも、花の咲き方
は何故か「文系」。

 まあ、これに関しては、「理系組がしっかり運転しようと
しているのに、すぐに脱線させるのはダ〜レだ?!」と
いう声も聞こえてきそうですが、でも面白かったですねえ。
特にMさんの博識ぶりには改めて感服です。

 我がCSNの「知を愛する面々」が繰り広げる哲学談義。
秋が深まるごとに、実りも大きく味わいが増すことだろうと
今からとても楽しみです。

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2008年09月08日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

頑張れ!ディスティミア

  少し前のことになりますが、日経に、最近若い世代に
見られるという、新型の抑うつ症状についての記事が
掲載されていて興味深く読みました。

 「ディスティミア」という余り聞きなれぬ名称なんですが、
典型的なうつ病との違いは、「自分の好きなことは何とか
楽しめることもある」というところだそうです。

 それに従来のうつ病患者が「何もかも自分がだめだからだ」
と、自分を責めるのに対して、このディスティミアでは「世の中
が悪い」、「自分が幸福を感じられないのは親のせい」など、
他罰的な傾向を示すと言います。

 先日当法人理事のO氏が来訪していたとき、彼も件の記事を
読んだとのことで、この話になったのですが、「あれって病気って
言えるの?」と、正直な感想をもらしていました。中高年世代で、
彼のように百戦錬磨の営業マンから見れば、まあ、そう感じるのも
無理からぬところでしょう。

 記事ではこのディスティミアの背景には、若い世代の「不平等感」
があると書かれています。「今の若い世代は、生まれ育った環境で
スタートラインから差がつきやすくなっている」というけれど、そんな
ことは今の若者じゃなくても同じことじゃないでしょうか。

 むしろ昔の方が、生まれた環境による差は激しかったとも言えます。
貧困のせいで学校へも行けずに働かなければならなかった子どもは
大勢いました。今だって途上国の多くにそういう子供達は沢山います。

 私は戦後の教育を丸ごと受けて育った世代ですが、やたらに
「自由」とか「平等」という言葉が、お題目のように唱えられていた
のを覚えています。あれから半世紀経って、見事に価値観が塗り
替えられ、「平等」は最初から実現しているべき条件となったので
しょうか。

 この国の戦後の教育は、「人は皆不平等である」という厳然とした
事実を隠蔽し、それを受け入れて闘う力を育ててこなかったのかも
しれません。

 確かに是正されるべき「不平等」はありますし、ひどい環境をそのまま
放置していいわけはありません。そのための社会的努力は勿論必要で
しょう。しかしそのことと、私達が最初から「不平等に生まれてくる」という
事実そのものを認めないこととは違います。「不平等である」ということを
受け入れてはじめてそこから出発できるのだと思います。

 人間の存在は、理念としては「平等」です。環境や条件の不平等を
受け入れたからといって、そのことが揺らぐわけではありません。
いたずらに「不平等」を嘆いて「心の病気」を抱え込んでしまうのでは、
「スタートラインの差」は広がるばかりです。

 因みに、このディスティミアには叱咤激励が有効なこともあるのだ
そうです。「『頑張れ』と言うのはご法度」のうつ病と全く違いますね。
このあたりが、「本当に病気なの?」と言いたくなる所以でしょうか。

 もっとも「心の病気」などというのは、O氏の疑問を待つまでもなく、
境界線が曖昧です。「自分は病気だ」と思うことが事態を悪化させて
いるというケースもあります。

 カウンセラーは何でもかんでも受容するだけではなく、ときには、
「ディスティミアなんて病気じゃない!」って喝を入れることも必要
なのかもしれません。

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2008年09月01日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「闘う」ということ

 昨日の日経読書欄に、東京大学松井彰彦教授の
「『蟹工船』ブームの背景をさぐる」と題した論説が
掲載されていました。お読みになった方もおられると
思います。

 時を同じくして私はアトレ有隣堂書店で買ってきたばかりの
「フリーター論争」(人文書院)という本を読んでいました。

 その本の中の1.「フリーターの『希望』は戦争か?」と題した
鼎談に、かの赤木智弘氏が参加していました。
2007年1月号の「論座」に、「『丸山眞男』をひっぱたきたい 
31才、フリーター。希望は、戦争。」という一文を寄稿して、
注目を浴びた人物です。

 氏は、「『平和』『総中流』というフィクションの下に、
高度成長世代/氷河期世代の間の格差が見えない
ものとされている限り、すべてを『ロスト』したフリーター
世代は、先行世代の既得権を根本的に破壊し社会を
流動化させるための《戦争》を望むしかない」と宣言し、
物議を醸しました。

 因みに上記の鼎談に出ているのは、全員超就職氷河期
世代の75年生まれという、元右翼のフリーライター雨宮処凛氏、
有限責任事業組合「フリーターズフリー」の杉田俊介氏、そして
赤木氏の3人です。畢竟赤木氏の論文を巡っての談義になって
いるのですが、そのなかでちょっと気になったことが2点ありました。

 赤木氏の論文には当然様々な反論があったらしいのですが、
それに対して氏が「誰からも『ごめんなさい』とか『申し訳なかった』
とか謝ってもらえなかったのがひっかかった」と言っているのですね。
いやはや、やたら過激に「希望は、戦争」とかぶちあげておいて、
「謝ってもらえない」はないだろ!って思わず突っ込み入れちゃいました。
それが一点。

 もう一点は、杉田氏が赤木氏に対して指摘した、「両親に対する
執拗な憎しみと罵倒」。論文のほうでは、「親も地元も嫌いで」と
ドライにスルーしているけれど、10年くらい続けているブログでは
物凄いらしい。杉田氏に「そのことに赤木さんの無意識の何かが
あるのでは・・・」と言われて、「どうですかね、少なくとも自分は
そこに何かあるとは思わないので・・・。新しい視点だと思うので
ちょっとここでは・・・。」とそれまでの饒舌から一挙にトーンダウン。

 赤木氏は一見非常にラジカルですが、その奥に弱虫で臆病な
「子ども」が見え隠れしています。他の2人からしきりに「こんな
いい人だとは思わなかった」と言われているあたり、やっぱり
「嫌な奴」に徹しきれない甘さがあるんでしょうね。論文のなかで、
「それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す
連中であっても、彼らが苦しむ様は見たくない。だから訴えている。
私を戦争に向かわせないで欲しい・・・。」なんて言ってるのも、
自分の行動を「〜させられる」としか捕えられない「子ども」の心性です。

 杉田氏から「その、『苦しむ様を見たくない』という視点を、目の前に
いる自分の親に対して心からごまかしなく言えたときに、赤木さんの
ステージがあがるんじゃないか」と言われて、彼は「なるほど」と答えた
きりですが、きっと内心は動揺していたと思いますよ。
「謝ってもらいたい」というのも、本当は「親から」なんですよね。
そこんとこちゃんと向き合いもしないで、センセーショナル
な論文書いても、きっと彼自身はどうにもならない。多くの人たち
に向かって物言うならば、そこは気づいてからにして欲しいですね。

 冒頭に書いた日経紙の「蟹工船」論文を読んだのは
深夜でしたが、そこにも赤木氏の名前が出てきてちょっと
びっくりしました。随分注目されているのですね。

 彼は、ロスジェネ創刊号の論文で、例の秋葉原事件に対する
意見を述べているらしく、「フリーターとして上昇カーブを
描けない時に、それを何とかして変えようとするなら暴力的な
手段が不随してくるのは当たり前のこと」で、「そもそも人を
踏みつけにしておいて今度は逆に踏みつけにされた側から
反撃をくらうこをを考えていないとすれば、あまりに考えが甘い」
と言っているのだそうです。

 氏の大嫌いな「全共闘世代元左翼」のかなりんから言わせれば、
「お前に『甘い』なんて言われたくない」ってところですね。
もっとも「親」への攻撃が「世間」に向かい、そこで怒りがどんどん
消費されてしまえば、氏が本物の自分の「怒り」に気づくことは
ないでしょう。全てを社会のせいにして、「〜してくれない」という
ルサンチマンに凝り固まって、自分の心の奥底に何があるのか
見ることをしなければ、本当に「闘う」なんてことはできやしません。

 「フリーター論争」の2.「この生きづらさをもう『ないこと』に
しない」と題する座談会では、「フリーター問題」なんて、女性たち
はもうずっと闘ってきた、ということが語られています。
「大卒の男がコンビニでバイトして初めて『問題』にされるなんて
おかしい」と。このことは「蟹工船」論文にも触れられていますが、
座談会の方では、「ホームレス支援」などに関わる男たちが、
個に戻った男女の関係性のなかでは途端に旧態然とした
男尊女卑意識を持ち出す、という告発があります。「これって
私達の頃の学生運動のなかにもあったよね」って思い出しました。
「女は二重に闘わねばならない」という状況は、本当にいつになっても
変わらないのですね。

 この場合も、闘うべき敵は外側にではなく、男たちの自己意識、
或いは無意識の中にあるのですね。こうした個の「内なる敵」と闘うのが
本当は一番難しく大変なんです。世代もくそもない、そこには常に
「自己の問題」があるだけです。

 フリーターやニート関連の活動家たちは、ともすると「何でも
心の問題にすりかえる」とカウンセリングを非難しますが、
「心の問題」を何かにすりかえている場合も多いということにも
気づいてもらいたいものですね。

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posted by CSNメンバー at 22:56 | Comment(3) | TrackBack(0)
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