2009年04月27日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

タペストリーの如く

 新年度になってから、外部の方にお会いすることが
多くなっています。違った世界の息吹を感受するのは、
とても刺激的ですね。

 縁あって訪問した高齢者のディーサービス施設では、
利用者の方々と親しくお話をしたり、「懐かしの昭和歌謡」を
ご一緒に歌ったりして、楽しいときを過ごしました。
硬い表情で打ち解けるのが難しそうな方でも、話しかければ
笑顔を見せて答えてくださるのがとても嬉しく、また感動的でした。

 その施設を経営していらっしゃる社長とは、以前職員研修を
担当して以来のおつき合いです。ユニークでエネルギッシュな
お人柄は魅力的で、確とした経営理念には学ぶところも多く、
お話をしていると時間を忘れてしまいます。今までは余り縁の
なかった企業人にもお会いできて、また新たなネットワークが
広がりそうなのも社長の人脈のお陰です。

 またNPO活動カレンダーにも書いたのですが、先週末には
恒例の渋谷区女性センター・アイリスの利用者懇談会があり、
CSNブログメンバーでもあるスイマーさんと出席してきました。
そこに臨席していた渋谷区長が、最後に発言した彼に向かって
非常に熱く持論を語るということがあり、驚かされました。

 きっかけは最後に発言を求められたスイマーさんが、
会議の冒頭で区長が述べた「血縁から地縁の時代になった」
という言葉に言及したことでした。「私たちの団体もまさに
同じことを感じ、女性のネットワーク作りに着手しようとしている」
と彼は言いました。区長は、会場で唯一の若い男性である彼が、
自分が挨拶でちょっと触れただけの言葉を胸に留めたことを
ことのほか嬉しく感じたように見受けられました。

 区長は、「渋谷区での単身高齢者数が7000人も増えた」と
いうことを例に、「今後の社会の様相を見据えた大局的な
視点が大切だ」と強調しました。ともすれば自分たちの団体の
利便性を主張する発言に偏りがちな会場を牽制するような
感じもありました。まるでスイマーさん一人に対して話しかける
ように、視線は専ら彼の顔に真っ直ぐ向けられていました。

 これほどに熱心に語る区長を見たのは初めてです。
もう何度もお会いしていながら、まるで初対面であるかのような
感慨を覚えました。

 区長とは個人的に古い知り合いだという「SHIBUYA
わかもの相談室」のMさんとも最近お近づきになりました。
何回かCSNに遊びに来てくれましたが、彼女もとても
エネルギッシュで行動的な人です。
その彼女が「区長は切れ者で面白い人」と言っていて、
一度さしでお話してみたいものだと思っていました。
それも叶えられるかもしれません。

 CSNは全体から見れば一片の切れ端のようなものです。
けれどこうして恵まれた幾多の縁を、そして今後新たに
出会うであろう人たちとのつながりを、大事に織り込んで
いくことで、その布地が大きく広がり、いつか裸の壁を
見事な絵柄で覆う日が来ることを夢見るこの頃です。


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2009年04月20日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「マダム ボヴァリー」の世界

 先週のブログに「何か面白そうな小説を仕入れてこよう」
なんて書いた(こちらです)のですが、本屋に行って買ってきたのは、
結局またもやエッセイの類ばかり。どうも「これ」っていう
小説に巡りあえませんでした。 そこで急遽本棚から
引っ張り出してきたのが、フローベールの「ボヴァリー夫人」。
今「並列読書」の10冊の中に並んでいます。

 この小説を初めて読んだのはいつの日のことだったのか、
もう余り昔のことで覚えていませんが、まだ10代の頃で
あったことは確かです。文庫本の巻頭にかの有名な
「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの言葉があって、
何故かその言葉に強烈に惹かれて買ったのを覚えています。

 3日くらいかけて一気に読了したのですが、自らの愚かな
選択で破滅に突き進むヒロインと、そのヒロインが自分だと
いう作者の言葉がどうしても結びつかず、しっくりと来ない
気持ちが残りました。

 それが本当に胸に染みるように感じられたのは、
やはり30代になってからです。無性に読み返してみたく
なったのもこの頃でした。10代の頃は「何でこのヒロインは
こんなにつまらない男にばかり惚れるんだろう?」と
疑問だったのですが、恋愛体験を重ねて結婚もし、
自分の思い描く世界と現実とのギャップや、自らの
愚かさ、弱さを痛感してくると、ヒロインの思いや行動に
共感するところが大きくなっていきました。フローベールが
「私だ」と言った真意も腑に落ちた気がしました。
 
 それからは何年か毎に読み返していますが、今回が
何回目になるのかは定かでありません。今あるのは
初めて読んだ時の本ではなく、その後買い換えたもので、
奥付は昭和60年になっています。多分読み返してみたく
なったときに手元になくてもう一度買ったのだと思います。

 因みに何年か前の映画で私が大感動をした(こちら
書いてます)「嫌われ松子の一生」は、この「ボヴァリー夫人」を
下敷きにしていると思われます。監督が「嫌われ松子は
私だ」と言っているのも、きっとフローベールの言葉を意識して
いたんじゃないかな。

 こちらは原作の小説も読んだけれど、断然映画の方が
良かった。「ボヴァリー夫人」の方もかなり前に映画になって
それも観たけど、やはりこれは小説にはかなわなかった。
前者が原作を越えて優れて「映画的世界」を作り上げていた
のに対して、後者は原作をなぞっただけ、という印象が
否めなかったように思います。「古典」のすごさですね。

 文庫本の後書きで訳者の生島遼一氏が述べているように、
「作者は、エマ(ヒロイン)の苦しみのうちに最も深刻な精神的
体験を転置して、人生の根源的な不幸の一つを浮き彫りに
した」のです。氏は「だからこれは単純な女の一生の物語ではなく、
思想の文学なのである」と言っています。何回も読み返すうちに
「ほんと、そうだなあ・・・」という思いが強まりました。

 ここ数日は、仏文学らしい芳醇な文章に酔いながら、
こういう世界にどっぷりと浸りきるのが、久々に味わう
至福のひと時となっています。
 
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2009年04月13日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

並列読書

 読書の方法というのはその人によって違うと思いますが、
私は読み返しの古い本も含めていつも6〜7冊くらいを手元に
おいておき、その日その時の気分によって手にした本を
読み進めています。

 今リビングのテーブルの上に置いてあるのは・・・

@ 「人は無意識の世界で何をしているのか」(千葉康則著、PHP研究所)
A 「できそこないの男たち」(福岡伸一著、光文社)
B 「なぜ仕事するの?」(松永真里著、角川文庫)
C 「美しい日本の掲示板」(鈴木淳史著、羊泉社)
D 「中村うさぎ 人生張ってます−無頼な女達と語る」(中村うさぎ著、小学館)
E 「健全な肉体に狂気は宿る−生きづらさの正体」(内田樹・春日武彦著、角川書店)
F 「交流分析療法」(新里里春著、チーム医療)

の7冊です。それに「社会起業家」の特集をしている「週間ダイヤモンド」、
学会から送ってきた「カウンセリング研究」などの雑誌や学会誌などが
散乱しています。

 この中で@とFはもう何回か読み返している本、Aはスイマーさんから
借りてきたもの、C〜Eは、例の会員さん(こちらを参照)が持ってきて
下さったものです。最近自分で買ったのはBだけですねえ。本を持って
きてくださる会員さんのお陰で出費が減りました。ありがたいことです。

 思えばこの習慣は子ども時代からのものです。その当時は余り
本を買ってもらう余裕もなく、お金持ちの親戚の従姉の家へ行っては、
「講談社少年少女文学全集」なんかを沢山貰ってきて、ずらっと
机の上に並べては、「今日はどれを読もう」とワクワクしながら手に取って
ページを開いた、あの頃の体験がしみついているのかもしれません。

 以前やはりその会員さんが持ってきてくださった本のなかに、「本は
10冊同時に読め!」というのがあって、「へ〜、同じことをしている人が
いるんだ」と「我が意を得たり!」みたいな気分になりました。著者は、
元マイクロソフト社長の成毛眞氏。氏はビジネス界きっての読書家として
知られるそうですが、確かに氏の読書量というのは並じゃありませんね。
ジャンルもインドのIT産業に関するものから、外国文学、古典芸能、
写真集や料理の本までともの凄く幅広い。それにリビングだけでなく、
浴室やトイレなど家中至る所に本を置いておくと言います。出かける
ときも常に数冊は携帯するそうで、いやはや私など足元にも及ばぬ
読書ぶり。読後は「我が意を得た」なんて気分は吹き飛んじゃいました。

 氏は「本を読まない人はサルである」とまで言っていますが、それ程
極端なことは思わないにせよ、「本は最後まで熟読する必要はない」
とか「読書に目的をもつな」とかの提言には賛同するところも多くあります。
確かにハウツー本やベストセラーなどは中味が薄いものが多いので、
ダーッと斜め読みすれば内容は大体つかめます。面白くないと思ったら
途中で読むのをやめてさっさと次に移ってしまうところも、「読書」を
「娯楽」だと捉えているところも似ている。「本好きで大量に読む読書家は、
うまく本を読み飛ばしている人が多いが、読書があまり好きではなく、
読むのが遅い人ほど、1冊1冊を丁寧に読む」という指摘は、なるほどと
思いました。

 氏は「本嫌いな人と付き合う必要はない」とも言っています。
「会話に深みがないのですぐに分かるし、そういう人とぐだぐだ
話しても時間の無駄」と切って捨てます。まあそういうところもあるな、
とも思いますが、「人間の深み」というのは本だけでできるものでもない、
とも思います。氏の歯切れのよさは気持ちのよいところもありますが、
同時にタイトルの「読め!」という命令形が示すような押しつけがましさも
感じてしまいます。「並列読書」を愛する「同好の士」ではあっても、
そういうところが、ビジネス界で成功を収めている氏と、弱小NPOで
悪戦苦闘している私との違い、というか差なんでしょうね。

 さて、そんな私の並列読書、現在の状況はDとEは面白くて
一気に読了、@とFは再読したいところを毎日少しずつ読んでいる
最中で、Aは最初の方だけ読んで面白そうだったのだけど、
このところ気分の合う日がなくて中断しており、BとCはダーッと
斜め読みの部類、といったところです。

 そういえばこの中に「小説」が一冊もないことに気づきました。
このところご無沙汰していた本屋に行って、面白そうな小説でも
何冊か仕入れてきましょうか。

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2009年04月06日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

朝の時間

 先週末の日経プラス紙面で「早起きで得してますか?」
というアンケートが載ってました。
それによると結構な割合の人が、朝の時間を使って
運動したり勉強したり、色々励んでいるようですね。

 このブログでも何度か書きましたが、不肖このかなりん、
低血圧のせいか、はたまた本来のぐうたらな性格のせいか、
「朝」と聞くとジンマシンが出るほどの朝嫌い。これはもう
かなり昔のことからで、よく十何年も学校に通えたなと
思うくらいです。

 その頃女子大生の就職口といえば、殆どが教師でしたが、
そんなとりわけ朝が早い職業など真っ平ごめんだった私は、
できるだけ朝遅そうな仕事ばかりさがしてましたね。だから
なかなか就職できずに、こりゃあ水商売にでも行くしかないか、
と思ったんだけど、ぎりぎりで語学レコード会社の営業企画部に
拾ってもらえて、そこは主にデパートが顧客だったものだから、
出勤が10時でよかった。その後もレジャー施設の営業を
長くやったんだけど、そこは出勤が殆ど昼過ぎで、その代わり
夜かなり遅くまで仕事してたから、この頃にはもうばっちり
夜型の基礎ができちゃいました。

 結婚してから開いた「学習塾」も夕方からの仕事だし、
カウンセラーという仕事も、学校なんかに行かなければ
それ程朝は早くない。特に今は、午前中の予定が入って
いる日を除いては、ほぼ午後からの始動で事足ります。
夜はかなり遅くまでやってますけどね。

 こうした長年の積み重ねを経て、いやがうえにも「夜型」
の磨きをかけてしまったあげくには、いくら「早起きは三文の得」
なんて言われても、そうそう簡単には転換できない。
どこかのベンチャー企業の女社長が、「子どもと一緒に9時に
寝て朝4時に起きて仕事する」なんて言ってるのを読むと、
ため息が出ちゃいますね。

 件の記事によると、人間には一日に2回寝入りやすい時間が
あるそうで、それが午前、午後とも2時から6時の間だといいます。
ですから他の時間は覚醒度が高いので、「午前中に脳を働かせる
仕事をするのは効率がいい」のだそうです。

 確かに夜の2時前に寝るのと、2時を過ぎてしまってから寝る
のとでは、朝のすっきり感が違うような気はしますね。
実は昨日は早く出かける用事があったので、一昨日の夜は
12時頃に床についたのですが、割合楽に6時に起きられました。
家を出るのが8時30分だったので2時間半も時間があり、
コーヒー飲んで新聞読んでパソコンもあけてチェックして、
掃除も洗濯もしてと普段より色々なことができちゃいました。
いや、びっくり。

 上述の記事のアンケートでは、「朝起きるのが『つらい』と感じる?」
という問に、50%くらいの人が「平気」と答えています。「以前は
つらかったが、今は平気だ」という人を併せると、実に7割近くの人が
朝起きるのが何でもないんですね。これだけ多くの人が「朝型」なら、
社会が「朝型志向」になるのも無理はない。まあ、このアンケートの
母体はおそらくサラリーマンが主なんだろうけれども、経営者とか
政治家とかにも朝型は多いようです。「忙しいほど朝の時間を活用しろ」
というのは、こういう人たちの鉄則みたいですし。近頃流行りの
「朝食会」なんかはいい例ですよね。

 若いときは少々無理をしても何ともなかったけれど、この頃
とみに寝不足がその後の数日間にたたるようになってきました。
筋金入りの「夜型」かなりんも、寄る年波には勝てそうもありません。
そろそろ「朝型」への転換に本気で取り組んで、「得する」ことを
考えてみようかな。


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2009年03月30日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「役立たず」の木

 今朝コーヒーを入れようとして、フィルターが
もう残り少なくなっているのに気がつきました。
50枚入りのを2パックも買ったのがついこの間
のことに思えるのに、あれからもう100日近く
経ってしまったのかと、しばし愕然。

 気がついてみればあたりは俄然春めいて、
桜の便りもちらほら。年度末まであと一日と
相成りました。

 先週末には第5期「交流分析(TA)学習講座」が
最終回を迎え、皆それぞれに「こうなりたい自分」
と、「そうなるための具体的な行動」を表明し、
無事終了しました。

 TAの受講生諸氏にならい、「こうなりたいCSN」
を改めて考えてみると、やはり私が使っている
タロットカードにある「大きな木」のイメージが
思い浮かびます。

 広場の真ん中にあるその木は、何の用途にも
適さないので「役立たずの木」と呼ばれながら、
ずっと伐られることもなく、いつしかたわわに
枝を広げて、旅人達の格好な休息の場となって
います。人々はその木の下でしばし疲れを癒して、
また旅を続ける元気を取り戻して出発していく、
カードにはそんな物語が添えられています。

 このNPOを立ち上げるときに、一人密かに
占ったタロットでくしくもこのカードが出て、CSNも
この「役立たずの木」のように、いつしか大きく
枝を茂らせたいと願ったことを思い出します。
あれから丸5年の月日が経ちました。

 あの時願いをこめて植えた苗木は、やっと
根を張り始め、ちょっとした風にも倒れそうだった
細い幹も幾分は太さを増したように思えます。
しかしまだまだ大木への道は遠いようです。

 この木を育て続けるには、日々水と肥料を
絶やさぬことが必要です。具体的な行動としては
「目の前の仕事に励み、地道にこつこつと成果を
積み上げていく」ということに尽きるでしょう。

 実際の植物を育てるにも、日々のケアは
欠かせません。定期的に状態をチェックし、
季節や天候に合わせて水と肥料をやり、
根気よく手入れをし続けることが必要です。
時には「元気に育ってるね」などと声をかけて
やることも効果的だと言います。
 
 一昨年の夏の初めに、CSNの玄関脇の
小さな花壇に植えたアイビーは、驚くほどの
勢いで繁茂し、2度の寒い冬を凌ぎきって、
今その先端に鮮やかなライトグリーンの若い葉を
幾つもつけ始めています。こうして元気よく育つ
植物を見るのは、本当に気持ちの良いものです。
 
日々の成長は僅かでも、木は確実に大きく
なっていきます。今は「役立たず」に思えても、
大きく枝を広げて人々の頼もしい拠り所に
なる日が来ることを念じて、焦らず諦めずに
手をかけていこうと思います。

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2009年03月23日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

強い女はお嫌い?

 先週の日経新聞の読書欄で、ベストセラー第一位に
なっていたのが、勝間和代という人の「断る力」という本です。
実は私はこの著者のことを知らなかったのですが、
カウンセラー仲間のみよみよから教えてもらいました。

 みよみよは同じ著者の「起きていることはすべて正しい」と
いう本を読んでいました。彼女は「断る力」の方も読んだと
言っていました。別にみよみよが勝間さんのファンというわけ
ではなく、これらの本のベースになっているのが、彼女の
専門フィールドである「アサーティブ」なんだそうです。
確かに「断る力」なんてタイトルが、アサーティブそのまま
ですね。

 勝間さんというのはメディアへの露出度が高いらしく、その
せいか思わぬところで「アサーティブ」がブームになっている
らしいです。「何にしても話題になっているのはありがたい」と
みよみよは言っていましたが、まあそうですよね。

 そこで私も上記の2冊を手に入れて読んでみました。
中身は他のハウツー本とそれほど違いはありませんが、
「アサーティブ」という心理学の理論を持ってきたところが、
みそと言えばみそですかね。

 ところで、この2冊の本、どちらも表紙に著者の写真が
使われています。意志の強さを誇示するような表情の
顔のアップで、インパクトがあります。A子さんの言うには、
「本の内容よりも、著者の名前で売れているんだと思う」
とのことで、多分女性の人気が高いのだと思われます。
著者の「キャリアを邁進し、成功させている強さ」に
憧憬を抱くのでしょうか。

 著者の「人となり」は本だけでは分かりませんが、確かに
ミリオンセラーを産み出し、書くものを次々とヒットさせて、
「断る力をつけるには、断れる実力を身につけることが必須」
と言い切る自信と、ちょっとやそっとの困難にもめげず臆せず
突進していく行動力には驚嘆するものがあります。

 こういう人がブレイクするというのは、翻ってみれば、
それだけ自分の「弱さ」に悩む女性が多いということ
なのかもしれませんね。女性たちに「ああなりたい」と
思わせる何かが彼女にあるのでしょう。
「上野千鶴子のようになりたい」という女性はあまり
見かけませんものね。

 勝間さんは「男女平等参画」にも熱心なようですが、
彼女が著書のなかで賞賛しつつ紹介している和田裕美氏と
ともに、今の女性のヒーローが、学者ではなく、民間の
経済畑から生れているということも、なかなか示唆的です。

 さて、この勝間さんの2冊の本をCSNの男性陣に見せた
ところ、「こんな表紙の本は読みたくない」と概ね不評でした。
「断る力」の表紙には、カッと目を見開いて片手をこちらに
突き出している著者の写真がありますが、当CSN理事の
O氏曰く、「こんなすごい表情をする女性には、もう顔を見た
だけでアレルギーがある」。はあ、そうですか。

 「自分が守ってやらなければくずおれそうなか弱さ」を
女性に求めるのは、今も昔も男の本音なのでしょうか。
まあ、今は「守ってもらいたい」男たちも増えているようでは
ありますが、その頭には「母のように優しく」とかいう
「枕詞」がついたりする。こういう男たちは、結局いつまで
たってもパートナーを見つけあぐねているみたいですね。

 女性にしても、アサーティブをやっただけでは、とても
勝間さんのようにはなれませんから、結局は本を買った
大多数が「自分はこうはなれない」と諦めてしまうのかも
しれません。とどのつまりは、「やはり強い男に守って
もらいたい」という願望は捨てきれずに、それなら男の
望むとおり「弱い女」でいる方がいいようにも思え、
両極を揺れ動くことになってしまうんじゃないでしょうか。

 としてみると、ベストセラーというのは、「メディアの喧伝に
載せられて本を買ってはみたけれど、その通りには行動
できない」絶対多数に支えられているのだとも言えます。
結局は、「強い女」も「強い男」も幻想の中にしか存在しない
ということなのかもしれません。

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2009年03月16日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「フライドエッグ」ご用心!

 先週末は、「交流分析(TA)学習講座・基礎コース」の第9回目が
ありました。今期のTA講座もあと最終回を残すのみです。

 今回は5期目の講座となりましたが、毎回少しずつカリキュラムの
内容や順番に改訂を加えています。TA講座もCSNとともに進化して
いるのですね。

 先週のテーマは「ゲーム」でした。今までは中盤でやっていたところ
ですが、今回は終盤にクライマックスをもってきて、その分最初の方に
一通り理論の概観を見通せるような構成にしました。その方が個々の
概念の結びつき方への理解が深まるように思えたからです。

 「ゲーム」は「ラケット」や「人生脚本」といった、TAの重要な概念と
深い関係があります。「人生脚本」というのは文字通り「人生のシナリオ」
こちらを参照)のことですが、「ゲーム」とか「ラケット」とかいうのは、
無意識にその「脚本」を強化するために行う「不快なコミュニケーション」
のことです。

 「不快なコミュニケーション」というのは、私たちの周りにごろごろして
いますね。特に近しい関係の人とすることが多いのです。それは
「感情に支配されたコミュニケーション」だからです。我が家の例で言えば、
こんなのがあります。

 妻 「ねえ、レンジを使ったらちゃんと拭いといてよ」
 夫 「俺は汚してないぞ」
 妻 「卵のこびりついたのがとれないのよ!」
 夫 「俺がやったんじゃない」
 妻 「だってお昼に卵焼いたのあなたでしょ?」
 夫 「お前さんだって使ったじゃないか!」
 妻 「私はいつもきれいに拭いておくわよ、それに
    私が使ったのは朝よ」
 夫 「とにかく俺じゃない」
 妻 「あなたっていつもそうやって人のせいにするんだからもう!」
 夫 「・・・・・」

 こうやって書いてみると何ともくだらない会話ですが、これで3日は
口もきかないなんてことになったりします。
こんな類のことって結構あるんじゃないでしょうか。

 この日のことを振り返ってみると、私は出かける約束があるのに急に
電話が入ったりして時間に余裕がなくなってしまい、いらいらしていました。
そういう時って、普段は気にならないようなことが妙にひっかかったりする
ものです。そこで子どもっぽい怒りが湧き上がり(「子ども」の自我状態)、
その感情に任せて言葉が出てしまったのですね。そうすれば夫の方も
感情的(同じく「子ども」の自我状態)になる。結局お互いに嫌な思いを
しただけで、「レンジを使ったらちゃんと後始末をして欲しい、ということを
夫に伝える」という肝心の目的は遂げられぬままになってしまいました。

 そこで、上記の会話をA(「大人」の自我状態)が関与したものにしてみると
こうなります。

 妻 「ねえ、レンジを使ったららちょっと拭いておいてくれると
    助かるんだけど」
 夫 「汚れてたか?」
 妻 「うん。卵って時間がたつとこびりついてとれなくなっちゃうのよ。
    だからすぐ拭いてくれればノープロブレムなんだけどね」
 夫 「分かった」

 これは、数日後にまたレンジに卵のこびりつきを見つけたときに実践して
みました。お陰で今は卵のこびりつきが放置されることは殆どなくなりました。

 ワッと湧き上がった感情に駆られて、それをそのまま言葉や態度で
示すことを、「フックを出す」と言います。このときの自我状態は「子ども」が
支配していて、「大人」が全く関与していません。フックを出している当人も、
それに引っかかってしまう相手も無意識のうちに「ゲーム」に突入し、
その結果「嫌な感じ」という「景品」を得るのですね。
本当にこういうコミュニケーションは不毛でいやなものです。

 こうした「ゲーム」をしないためには、極力「自分からフックを出さない
ようにする」ことと、「相手からフックを出されても引っかからないように
する」ことが大切です。自分が出すフックより相手から出されたフックの
方が気づきやすいので、その都度引っかからないようにしていれば、
相手も余り出さなくなるか、近寄ってこないようになります。

 しかし前述したように、「ゲーム」というのは、その人の「人生のシナリオ」を
強化する、という隠れた目的があります。「いやな感じ」という「景品」は、
「自分は駄目だ」とか、「他人は駄目だ」とかいう否定感を強めるのに役立つので、
ときどき欲しくなってしまうのです。「脚本」というのは、否定感から生じ、
それを証明する結末へと進んでいくものなので、常にそれを確かにしておく
必要があるからです。

 だから根深い「脚本」を持っている人のなかには、かなりヘビーな「ゲーマー」が
います。こういう人につかまりそうになったら、「自分から遠ざかる」という手も
ありますが、家族とか職場とかの場合はその手が難しいので、「距離の調節」とか
「ストレスの発散」を上手にする必要がありますね。

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