2009年06月15日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ひとりひとりが大事

 昨日のA子さんのブログにあったとおり、
「CSN同窓会」が無事終了しました。
関連記事を「NPO活動カレンダー」にも
アップしました。(こちら

 A子さんも書いていましたが、思ったほど
人が集まらなかったですね。彼女を中心として
一生懸命準備をしてきたので、どうしても
残念さが先にたちます。

 でも昨日来てくださった方たちをはじめ、
来られなかった方たちも、きっと日々を
精一杯生きていて、「同窓会どころじゃない」
という方も多かったのだろうと推察します。
そこをおして参加してくれた皆さんには
本当に感謝したいと思います。

 それに、何よりも大きな成果は、こうして1つの
イベントをメンバーたちが協力して作り上げ、
達成したことにあります。久しぶりにお会いした
方から「みんなの成長ぶりに驚いた」という声も
聞かれました。

090614CSNdousoukai2.jpg

 大勢の人を集めて賑やかなイベントを開催する
のも楽しいことではありますが、そういうのは
CSNには余りフィットしないのかもしれません。
それぞれに何かしらの悩みやスッキリしない思いを
抱えながら、それでもひと時を共有し、旧交を暖め、
笑い合う。そんな場をつくることが大事なんだと
改めて思いました。

 近いうちに、昨日参加してくださったMさんから
お祝いに頂いたワインでものみつつ、当日撮影した
ビデオを鑑賞しながら「反省会」をしようかと、
早くも次の集まりを企てております。
参加なさりたい方は是非ご一報を!

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2009年06月08日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

不実な恋人

 前回のブログの最後に、「折りしも本格的な梅雨の気配が
濃厚な今日この頃、来週もこんなすっきりしない空模様が
続くようなら、またつらつらと考えて続編を書いてみようかと
思っています。」(こちら)と書きました。今日も案の定空模様は
ぐずつき気味なので、予告どおりつらつら考えて書こうかと
思っていたのですが、どうも今日は脳の調子が良くないのです。

 「脳の調子なんていつも悪いだろう」と言われそうですが、
そういう日常的な話ではなくて、実際に頭の芯がうずくような
感じがあり、起き上がった拍子などにちょっとクラッとくるという
具体的な症状があります。これは私の持病である「めまい」の
予兆なのです。正しくは「良性発作性頭位めまい症」と
いうのだそうです。

 思い起こせば、冷雨そぼ降る晩秋のとある夜に
男Nの狭い冷蔵庫のような部屋で初めてこのめまいに
襲われ、救急車で運ばれたのが6年前。
忘れもしない「田中脳神経外科」。
ものものしい検査の結果、ついた病名が上記のやつ。
そのときは一日で退院して家のベッドで丸2日くらい
眠り続けたら何とか治まりました。

 原因は疲労とストレス。特に寝不足が一番きますね。
初めてのめまいのときは、サンプラ(サンプラザ相談センター)
が閉鎖する直前で、物理的にも精神的にも沢山の問題を抱えて
悪戦苦闘の真っ最中。加えてバリバリ「夜型」の私は
どうしても寝るのが遅くなり、積み重なった睡眠不足に耐えかねた
身体が「いいかげんにしろ」と警告したんでしょうね。

 この前のブログで男Nが、「若気の至りのクダラン歌」を
恥ずかしげもなく載せてましたが(こちら)、まあ、
夜が優しく自分を包んでくれる恋人のように思える感じは
私も分からなくはありません。ついその甘い誘惑に抗えずに
つきあってしまうんですね。

 だって本を読むにも文を書くにもビデオを見るにも、人々が
寝静まった丑三つ時ほど心地よく集中できるんですもの。
エキサイティングなライブが終わるのは決まって真夜中だし、
親しい仲間ともお喋りも夜中になるほど楽しいし、どうしたって
引き止められるまま夜とつきあうことになってしまう。

 しかし、「夜という恋人」は必ず陽が昇るとともに姿を消し、
残されるのは疲労感のみ。それでも身すぎ世すぎは世の習い、
渋々「朝という夫」とともに働いた後、また訪れた恋人に性懲りもなく
つきあってしまう。「朝という夫」とだけつきあっていれば、
とても健康的で生産的な生活が保証されているというのに・・・。

 そんなよこしまな恋の行き着く果てが「めまい」という症状。
その後何回か予兆があるたび「別れよう」と決意しては、
いつの間にかぐずぐずとよりを戻してしまうのです。

 だってどうしても「朝という夫」とは相性が悪いんですもの。
世間の人たちは口をそろえて彼を賞賛するけどさ。
それ聞いてると、何だかエネルギッシュな母親アマンダに
「さあ、今日も元気で頑張りましょう!」って毎朝言われる
「ガラスの動物園」のローラみたいな気分になっちゃうの。
まあ夫だし、仕方ないからやっとこさっとこつき合うけど、
やっぱりこの夫だけでは満足できないわ。
「ボヴァリー夫人」のエマのように、実りのない恋と知りつつ
夜に溺れてしまうのよね、あゝ!

 ・・・なんて人のことは言えないようなクダランことを
書き連ねてしまいましたが、何はともあれ今日のところは
夜という不実な恋人をさっさと追い返して休むことに致します。
先週の予告ブログに関しては、また書けるときに書くと
いうことで、悪しからず。

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2009年06月01日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「不安」を辿れば・・・

 毎日雨もよいの日々。今日こそ晴れるのかと思ったのに
何だかすっきりとしない空模様ですね。お陰で洗濯物が
たまり放題。おまけに連日寝不足気味で、気持ちの方も
あまりすっきりしない。勢いブログのテーマもすっきり
決まらないので、このところつらつら考えてることでも
つらつら書いてみようかと思います。 

 フロイトと同時代の精神分析家にオットー・ランクと
いう人がいますが、私がこの頃つらつら考えているのは、
彼が提唱した「出産外傷」という概念についてです。
「心理臨床大辞典」(培風館)によると、ランクは次のように
考えたと説明されています。

 「出産は新生児にとって、物理的にも心理的にも、
生理的分離による母体という安全な楽園の喪失と
いう深刻な外傷体験となり、後年成人してからの
個体の対象との精神的分離の中に象徴的な形で
再現され、あらゆる不安反応の原型となる。
それゆえにその後の人生は、それを克服する努力から
成り立っており、その失敗が神経症の原因となる」

 要するにランクは、「不安のおおもとは出産によるトラウマにある」
と考えたわけですね。彼は若い頃非常にフロイトにかわいがられた
そうですが、そのフロイトも「不安(angst)」の語源がラテン語の
「狭さ(angustiae)」であることを指摘し、この狭さは出産時の圧迫感、
息苦しさにつながり、不安の原型は出産での不安体験であると
述べています。

 どうして私がこんなことをつらつら考えたかというと、
それは「男N胎内回帰願望説」が出てきたからで(こちら)、
どうやらそれは多くの「引きこもり」にも共通するものらしく、
「どうしてそんな叶わぬ願望を強く持ち続けるのだろう」と
考えているうちにこの「出産外傷説」に行き当たったという次第。

 「何と男Nが究極的に希求しているものは『母体という安全な楽園』
だったのか!」

 もっともこの説は、後年ランクがフロイトと訣別するとともに、
フロイトが支持しなくなったことで、後世にもそれ程広まりませんでした。
しかし今読んでみると、「全くぴったりじゃん!」って思います。
この「引きこもり現象」が増殖している21世紀の日本で、ランクが
再び見直される日が来るかもしれませんね。

 ランクがフロイトと袂を分かったのは、神経症の治療方法としての
「精神分析療法」を批判したからだそうです。彼は、「治療に大切なのは、
『抵抗』や『転移』の『洞察』ではなく『治療体験』そのものである」として、
独自の「意志療法」というのを提唱しています。「精神分析という意志に
対する消極的な逆意志である抵抗や転移を解消するのではなく、
その意志をより積極的な創造的な意志へと変容することが治療の
目的である」というのですね。「そうすることにより患者は『創られたもの』
から『創るもの』へと移行し、自己の個人性を生み出すという再生体験を
持つことができる」とされています。

 この理論は後のロジャーズの「来談者中心療法」にも少なからず
影響を与えたと言われています。確かに人間を「創造的な主体」と
捉えるロジャーズは、「体験過程」という概念を提唱し、その過程で
人間としての創造性を獲得していくことを治療の目的に据えています。

 さて、男Nは「創られたもの」から「創るもの」への変容を
成し遂げられるでしょうか。 もっともこの命題は、男N一人の
ものではなく、どうにかして「不安」から逃げようと四苦八苦している
多くの若者たちにも当てはまるのではないでしょうか。

 折りしも本格的な梅雨の気配が濃厚な今日この頃、
来週もこんなすっきりしない空模様が続くようなら、
またつらつらと考えて続編を書いてみようかと思っています。

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2009年05月25日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ただものじゃない?!

 総会も無事終了した先週の金曜日に、以前職員さんたちへの講座を
やらせて頂いた横浜港南台にある「ラベンダーの丘」という介護施設を
訪ねました。その施設を経営している社長のTさんに「交流分析」の
特別講座を依頼されたからです。そのときの模様を彼がブログに
書いてくれました。(こちら

 T社長は過日の研修を受けられて以来非常に「交流分析」に興味を持たれ、
今やエゴグラムを周囲の方たちのパーソナリティー把握のために使いこなして
いらっしゃいます。まだ40代という若さ、頭のよさもカッコのよさも抜群で、
またその人生遍歴もきわめてユニーク。こちらのプロフィールからも推察される如く、
決してエリートコースを順調に歩んで来た方ではありません。
一歩間違えれば、「自己否定脚本真っ逆さま」となってもおかしくないような
様々な困難にも遭遇しておられます。

 数々の修羅場を、持ち前のエネルギーの強さと現実検討力の
的確さで潜り抜け、自らの力で「OK」を獲得してきた歴史が醸し出す
存在感には独特のものがあります。ときにいたずらっ子のような
自由奔放さを発揮するかと思えば、現状を冷静に分析する理論性を
縦横に展開してみせる。人を鋭く見抜く目とともに、利害で人を
切り捨てることをしない懐の深さも持っておられる。まことに稀有な
T社長のパーソナリティーには魅了されっ放しで、興味が尽きません。

 そんなT社長に「せっかくだからもっと深く交流分析を勉強てみませんか?」
と持ちかけたのが、今回の特別講座の始まり。本当は10回の連続講座に
参加して頂きたかったのですが、「俺、理解力抜群だから集中講義で大丈夫」
という社長に押し切られる形での開講となりました。

 普通なら一時に大量の知識を入れても、自分自身の性格や日常に
引きつけて消化するのに一定の時間が必要なのですが、T社長の胃袋は
確かに常人離れしているようです。とはいえ私も社長も講義に没頭し過ぎて
本ものの胃袋の方は悲鳴をあげてしまいましたが。

 同行した男Nは、休憩中にいきなり社長から「これ終わったら
一緒に北海道に行こう」と誘われて目を白黒させていました。
こういうのを男Nは「T社長のFC(自由な子ども)パンチ」と呼んで
恐れていますが、社長には結構好意を抱いているみたいです。
一緒に旅をして社長のエネルギーを浴びまくってくるのも意外と
いいショック療法になるかもしれませんね。但しどんなことになっても
私は一切責任をもちません。


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2009年05月18日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

目の前のこと

  今週半ばに総会を控え、このところはその準備に
大童の毎日です。総会も今年で5回目、設立当初から
みれば随分慣れたとはいえ、その後の懇親会の手配も
含め開催までは相変わらずばたばたしてしまいます。
また、設立6周年を迎えて「CSN同窓会」(詳細はこちら
を開こうという企画が、その合間をぬって進んでいます。

 ただでさえ複雑で手間のかかる決算作業に加えて、
今期は初年度以来3年ぶりに大幅な赤字になることが
確定して、どうも今ひとつ意気があがらず、大きらいな
数字が益々憎らしく見えてきます。

 しかしボーッと▲印だらけの計算書を眺めていても、
事実が変わるわけじゃない。気を取り直して、
「どこがどうなってどうなったからこうなったのか」
ということを明らかにしてみようと思い立ちました。
よく言われる「失敗に学べ」というやつですね。

 そこで、例年のごとく頼もしい助っ人を務めてくれている
事務ボランティアCちゃんの手を借りつつ、「データ分析」
なるものに挑戦してみることにしました。が、いざ手を
つけてみると、これが想像以上に大変な作業。
ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しても、
なかなか自分が知りたいと思うことの根拠に辿りつかない。

 それからの数日間は、ベッドの中でも、気がつけば
「あのパーセントの出し方は現実に即していると言える
だろうか」とか、「どうしたら現状に見合った売上目標が
立てられるだろうか」とか、まるで解けないパズルを
手にした子どものようにそればっかりを考えてました。
そしたらいつの間にかあんなにいやだった数字が
面白く感じられるようになっちゃいました。いやぁ〜、
これって意外と隠れた適性?!

 とはいえ、やはり素人の限界か、あれこれパズルを
いじくりまわしてはみたものの、いま一つピタッとこない。
結局最後は、「CSNのお助けマン」ことB氏の助けを
借りて仕上げました。そのせいでB氏は昨晩半徹夜、
帰りは自腹のタクシーというフンダリケッタリの目に
遭いつつも、私が思い描いていた以上に素晴らしい
グラフの数々を作成してくれました。これで心置きなく
総会を迎えられます。

 さて今日は久々のオフではあるのですが、
カウンンセリングルームのレンタルが2件あり、
昨日A子さんとつくった「CSN同窓会」のお知らせ
入り封筒も積み重なっており、ここ2〜3日
業務日報もつけるのをサボってしまっていました。

 昨晩遅かった余波でかなり朝遅いスタートでしたが、
たまっていた洗濯をし、レンタルのためのコーヒーをいれ、
封筒の束を抱えて郵便局に行き、業務日報をつけ、
そしてこのブログを書いております。

 毎日やることが「これでもか」とばかり湧いてきますが、
行き先を見据えながらも、目の前のことを一つ一つ
確実に片付けていくことが最善の方法ですね。
 
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2009年05月11日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「誇り」と「プライド」

 先日CSNのメンバーが集まって雑談をしていたときに、
こんなやりとりがありました。

 A 「私ね、自分の仕事に誇りが持てないの・・・」
 私 「仕事に『誇り』なんて持つことないじゃん!」
 A 「えーっ、そうですか?」
 B 「いや、仕事には誇りが必要ですよ!」
 私 「仕事に持つ『誇り』なんてロクナモンじゃないよ。
    カウンセラーでもそういうのいるけど鼻持ちならない」
 B 「それはプライドでしょう?プライドと誇りは違いますよ」
 私 「えーっ、どこが違うのよ?」
 
ってなところでBさんが何か説明したのですが、こういうときの
私の自我状態はFC(自由な子ども)が全開になっているので、
シチメンドクサイ説明なんて耳にも鼻にも入らない。
「とにかく『誇り』とか『プライド』とかきらいなんだモン!」
ということで、この話題はチョンになっちゃいました。
Aさん、Bさん、ゴメンナサイ。

 それでお詫びのしるしに、今日はこの問題をちゃんと
A(大人)の自我状態で考えてみようと思います。

 さて、英和辞典でも和英辞典でも「pride=誇り」、または
「誇り=pride」というのは揺るがない。「誇りに思う」という
のも英語では「be proud of」というprideから派生した
言葉が使われます。でも日本ではBさんのように「プライド≠誇り」、
あるいは「プライド≒誇り」と捉えている人も多いのかも。
辞典のように「プライド=誇り」とならないのは何故なんでしょう?

 一言で言ってしまえば、それは「言葉のイメージの違い」と
いうことになるんでしょうね。言葉から喚起されるイメージと
いうのは、その人の文化的背景が色濃く反映されるものなので、
外来の言葉と翻訳語のイメージが微妙にずれてしまうことも
多々あるわけです。

 まあ、ここで「言語学的考察」を展開しても始まらないし、
そんな力量もないので、「誇り」あるいは「プライド」という
言葉が使われた発言とか場面とかで、私の印象に残って
いるものを挙げてみようと思います。

 まず最初に思い浮かぶのは、その昔パレスチナに渡り
連合赤軍を率いた重信房子氏の父、末男氏が新聞の
インタヴューに答えて語った「私は娘を誇りに思っています」
という言葉です。そのことは、3年ぐらい前、彼女が日本で
逮捕されたときのブログ(こちらです。わー、なつかしい〜っ!!)に、
「その言葉にひどく感銘を受けた」と書いています。

 同じような感慨を覚えたのは、カンボジアでボランティア活動中に
殺害された中田厚仁さんの父武仁氏が、息子を称えて「誇りに思う」と
言ったときです。私は「すごい!」と思ったのですが、何故か夫は
「何かいやな感じだ」と言いました。確かにその後同じカンボジアで
亡くなった自衛隊員の家族が記者会見で言った「誇りに思う」という
言葉は、「言わされ感」がありましたね。どうも「名誉の戦死」と
いうニュアンスにつながるものを感じてしまうのは、やはり
私たち世代の「時代的、文化的背景」によるものなんでしょう。

 イニシエより「武士の誇り」たる「切腹」の文化を引きずる日本では、
「誇り」という言葉には、「それをもって死を乗り越える」というような
イメージがつきまといます。重信氏の場合には、世論がその「誇り」に
全く味方しなかった。だから余り「名誉」という感じがなかった。
しかし中田氏の場合は、その状況が「誇り」という言葉に「名誉」という
ニュアンスを持たせるようなものだったが故に、段々その言葉の
イメージが歪んでしまったような気がします。

 こんな風に見てくると、「誇り」なんていう言葉をそう軽々しく
使うなよ、といった気分になりますね。わが子の命と引き換えに
してさえ、一歩間違えれば、「大儀」とか「名誉」とかの余計な
粉飾をまぶされかねない。ましてや今の私たちの「仕事」に
「命をかける」ようなものがどれほどあるというのか。それなのに
皆が仕事に「誇り」なんぞを求めるから、この仕事はやりがいが
あるのないのといたずらに悩むことになってしまう。そしてその
「やりがい」のなかには、「社会的ステータス」だとか、「他人の役に
立ってる感」だとか、いろいろな夾雑物が入り込む。あ〜やだやだ…
「仕事に『誇り』なんかいらない」という私の件の発言は、きっと
そんな思いのあれやこれやが醸し出す言葉にならない気分から
発されたのでしょう。

 さてそれでは「プライド」という言葉はどうなんでしょう。
随分あちこちで様々な使われ方をしているかに思える言葉ですが、
最近出会ったのは、「健全な肉体に狂気は宿る─生きづらさの正体」
(内田樹、春日武彦共著・角川書店)という本のなかで、精神科医
春日武彦氏が述べている次のような言葉です。

 「わたしのところに来るような患者さんというのは、だいたい、
こだわりとプライドと被害者意識の三点セットなんです」

 ほう、なるほど、と思いました。
「プライド」という言葉のイメージは、この使われ方を見れば
凡そ分かりますね。やはり「プライド」と「誇り」という言葉は、
私たち日本人にとっては、辞書のように=で結ぶことの
できない言葉なのかもしれません。

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2009年05月04日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

みんな「子ども」が邪魔をする

 ゴールデンウィークも半ばと相成りました。
明日は「子どもの日」ですね。

 ところであなたの子どもは健やかに元気でいますか?
「子ども」といっても、本当の子どもではありません。
言わずと知れた自分のなかの「子ども」のことです。
我がCSNには、どうもこの頃この「子ども」の機嫌が良くなくて
屈託をかこっているメンバーが多いようで・・・。

 本当の子どもがなかなか思うように育たないのと同じく、
この「子ども」も思うようには動いてくれません。
意識では「こうしなくちゃ」と思えば思うほど、
「子ども」の反抗も強くなります。
ときには身体を直撃してくることもあります。
今男Nを悩ませている下痢はこの類いですね。

 実際に子どものいない人はいても、
この「子ども」はどんな人も持っています。
生きるエネルギーの源泉ですからね。

 しかししっかりとした大人がついていないと、
何をしでかすか分からないのは、本物の子どもと
同じです。どんな大人がついているかにもよりますね。
頭ごなしに叱りつけるか、甘やかし放題か、どちらも
子どものエネルギーは上手に発揮できません。

 私たちのなかの「大人」も頑張ってはいるのです。
いるのですが、どうも「子ども」をきちんと制御できる
だけの器量をもった「大人」は、見かけほど多くは
ないようです。

 相手がちょっと自分を馬鹿にしたような感じのとき、
むきになって自己主張したり、思うようにことが運ばないときに
ついいらだちが口調に出たり、ともすると自分の優越性を誇示したくなったり、
そういうときの自我状態を冷静に見ることができれば、
例外なく「子ども」になっていることが分かります。

 それに気づけるかどうかが、「大人の器量」に大きく関わって
くるのですね。社会人でも無自覚な人は結構います。いかにも
大人を気取って批判しているようなときでも、結構「子ども」に
支配されていることって多いのです。

 この頃社会を賑わす殺人をはじめ様々な事件は、
「どうして?」と首をひねるようなものばかりに思えますが、
それは合理的な「大人」の自我状態から見るからで、
「子ども」に支配された自我状態を想定すれば、容易に
理解できます。秋葉原からクサナギ君までそれは同じことです。

 ただし、どういうストレス状況に弱いかというのは、
人それぞれです。かなり耐性の強い人でも「泣き所」と
いうのはあるもんです。自分の「泣き所」を意識しておく
ことも、「大人」の制御力を高めることにつながります。

 私の場合は、「いかにももっともらしい言葉」とか、
「一筋の懐疑も感じられない正論」とかに出会ったときに、
「そんなのダ〜イッキライ」と叫びたいFC(自由なこども)が
むくむくと頭をもたげてきます。一昔前まではそれを即口に
出しては、「変な人」視線をもろに浴びていました。
今ではそういう自分を表してもいい場と、そうではない場との
弁えくらいはついて来て、私の「大人」にも余裕が出てきました。

 「大人」を鍛えるのは手間と時間がかかります。
「子ども」が強ければ強いほど、そして幼ければ幼いほど、
それをコントロールする「大人」には、ぶれない信念、
柔軟な寛大さ、高い知性、深い内省力、鋭い洞察力、etc、etc・・・
が必要です。それでいて「子ども」を抑圧せずのびのびと
遊ばせる鷹揚さも併せ持たねばなりません。

 こういうことを実現できている人って本当に魅力的ですよね。
実際には希少な存在なのですが、私の周りにも何人かいらっしゃいます。
これは全て「自分はOK」という実感に支えられていてこそ
はじめて成し得ることでしょう。「子ども」が思い存分遊び回る
には、安全で気持ちのいい環境が不可欠ですからね。でも
いつの間にか落とし穴が掘られていたりするので油断は禁物です。

 男Nのように強力で原始的な感覚をもった「子ども」の場合は、
辛抱強い学習が必要なケースですが、「大人」の側にその準備が
できていないので、まずはそこからでしょうね。
「この世に生まれてきたのも満更ではない」まではいかずとも、
「まあ仕方ないか」くらいまではいけるんじゃないかと思っています。


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