先日CSNのメンバーが集まって雑談をしていたときに、
こんなやりとりがありました。
A 「私ね、自分の仕事に誇りが持てないの・・・」
私 「仕事に『誇り』なんて持つことないじゃん!」
A 「えーっ、そうですか?」
B 「いや、仕事には誇りが必要ですよ!」
私 「仕事に持つ『誇り』なんてロクナモンじゃないよ。
カウンセラーでもそういうのいるけど鼻持ちならない」
B 「それはプライドでしょう?プライドと誇りは違いますよ」
私 「えーっ、どこが違うのよ?」
ってなところでBさんが何か説明したのですが、こういうときの
私の自我状態はFC(自由な子ども)が全開になっているので、
シチメンドクサイ説明なんて耳にも鼻にも入らない。
「とにかく『誇り』とか『プライド』とかきらいなんだモン!」
ということで、この話題はチョンになっちゃいました。
Aさん、Bさん、ゴメンナサイ。
それでお詫びのしるしに、今日はこの問題をちゃんと
A(大人)の自我状態で考えてみようと思います。
さて、英和辞典でも和英辞典でも「pride=誇り」、または
「誇り=pride」というのは揺るがない。「誇りに思う」という
のも英語では「be proud of」というprideから派生した
言葉が使われます。でも日本ではBさんのように「プライド≠誇り」、
あるいは「プライド≒誇り」と捉えている人も多いのかも。
辞典のように「プライド=誇り」とならないのは何故なんでしょう?
一言で言ってしまえば、それは「言葉のイメージの違い」と
いうことになるんでしょうね。言葉から喚起されるイメージと
いうのは、その人の文化的背景が色濃く反映されるものなので、
外来の言葉と翻訳語のイメージが微妙にずれてしまうことも
多々あるわけです。
まあ、ここで「言語学的考察」を展開しても始まらないし、
そんな力量もないので、「誇り」あるいは「プライド」という
言葉が使われた発言とか場面とかで、私の印象に残って
いるものを挙げてみようと思います。
まず最初に思い浮かぶのは、その昔パレスチナに渡り
連合赤軍を率いた重信房子氏の父、末男氏が新聞の
インタヴューに答えて語った「私は娘を誇りに思っています」
という言葉です。そのことは、3年ぐらい前、彼女が日本で
逮捕されたときのブログ(
こちらです。わー、なつかしい〜っ!!)に、
「その言葉にひどく感銘を受けた」と書いています。
同じような感慨を覚えたのは、カンボジアでボランティア活動中に
殺害された中田厚仁さんの父武仁氏が、息子を称えて「誇りに思う」と
言ったときです。私は「すごい!」と思ったのですが、何故か夫は
「何かいやな感じだ」と言いました。確かにその後同じカンボジアで
亡くなった自衛隊員の家族が記者会見で言った「誇りに思う」という
言葉は、「言わされ感」がありましたね。どうも「名誉の戦死」と
いうニュアンスにつながるものを感じてしまうのは、やはり
私たち世代の「時代的、文化的背景」によるものなんでしょう。
イニシエより「武士の誇り」たる「切腹」の文化を引きずる日本では、
「誇り」という言葉には、「それをもって死を乗り越える」というような
イメージがつきまといます。重信氏の場合には、世論がその「誇り」に
全く味方しなかった。だから余り「名誉」という感じがなかった。
しかし中田氏の場合は、その状況が「誇り」という言葉に「名誉」という
ニュアンスを持たせるようなものだったが故に、段々その言葉の
イメージが歪んでしまったような気がします。
こんな風に見てくると、「誇り」なんていう言葉をそう軽々しく
使うなよ、といった気分になりますね。わが子の命と引き換えに
してさえ、一歩間違えれば、「大儀」とか「名誉」とかの余計な
粉飾をまぶされかねない。ましてや今の私たちの「仕事」に
「命をかける」ようなものがどれほどあるというのか。それなのに
皆が仕事に「誇り」なんぞを求めるから、この仕事はやりがいが
あるのないのといたずらに悩むことになってしまう。そしてその
「やりがい」のなかには、「社会的ステータス」だとか、「他人の役に
立ってる感」だとか、いろいろな夾雑物が入り込む。あ〜やだやだ…
「仕事に『誇り』なんかいらない」という私の件の発言は、きっと
そんな思いのあれやこれやが醸し出す言葉にならない気分から
発されたのでしょう。
さてそれでは「プライド」という言葉はどうなんでしょう。
随分あちこちで様々な使われ方をしているかに思える言葉ですが、
最近出会ったのは、「健全な肉体に狂気は宿る─生きづらさの正体」
(内田樹、春日武彦共著・角川書店)という本のなかで、精神科医
春日武彦氏が述べている次のような言葉です。
「わたしのところに来るような患者さんというのは、だいたい、
こだわりとプライドと被害者意識の三点セットなんです」
ほう、なるほど、と思いました。
「プライド」という言葉のイメージは、この使われ方を見れば
凡そ分かりますね。やはり「プライド」と「誇り」という言葉は、
私たち日本人にとっては、辞書のように=で結ぶことの
できない言葉なのかもしれません。
↑ブログを読んだらクリックしてね!