昨日のエンカウンターの振り返りを今日また振り返っていたらふと浮かんだのです。
最近読み返した「太郎物語」(曽野綾子著・新潮文庫)にこんな場面が
ありました。高校生太郎の友人で、世間的な価値観を堅固に保持する両親を
持った藤原の家庭が、その兄の反逆的行為で崩壊したというエピソードが
あり、太郎の家を訪ねてきた藤原と太郎、その母信子が食事をとりながら
会話するところです。
藤原 「僕ら、兄弟はね、物心ついてからずっと、親に復讐することを
目標に暮らして来たんじゃないか、と昨日ふと思った」
藤原の兄は、親の価値観が到底受けつけないような女性と同棲し、
一旦は家に連れ戻されるのですが、結局はその女性と無理心中を
はかって自分だけ助かるという事件を起こしたのです。また、藤原の弟は
潔癖症の母に過保護に育てられ、どんなものも素手で触れられないほど
腺病質な「バイ菌ノイローゼ」の子どもだったのが、学生運動にのめりこんで
「やってることは幼稚だけどただ生きるための安全を確保するだけではない、
もっと積極的に生きる味を覚えた」のです。これは70年代に書かれた小説
なので、このあたり私とちょっとだぶります。
藤原 「弟だって本当は学生運動なんて信じちゃいないと思うんだ」
太郎 「それをやれば確実に親がいやがるからな、その手応えがほしいんだろう」
藤原 「うん、それでうっぷんを晴らしているんだ。現に直接は仕返しできないから…」
太郎 「そうじゃないさ。それも一種の甘えというか求愛かも知れないぜ。親に憎まれる
という形で親にかまって貰いたがってる…」
藤原は、「それは信じられない」と言って唇を噛みます。そして「はっきり言えば、
僕たちはもし孤児だったら、ずいぶんうまく行ってたと思うんだ。」と続けます。
やはり「求愛」などという解釈は、当人にしてみれば受け入れがたいのよね。
それも同じ高校生の友人に言われたりすればなおさら。太郎自身も「瞬間的に
こんな風に考えついた自分が不思議だった」と書いてあるけど、「何かどこかで
出発点がまちがってしまった」藤原家の、「まちがってしまった理由」は、信子の
言うように「お互いの過大期待」であることは、客観的に見れば否めません。
藤原 「だけど或る時、気がついてみたら、僕たちは皆、黙っちゃってたんだ。
お互いに何か本当のことを言ったら、ダメになりそうな気がしたんだ。
本当のことを言ったら、母さんはすぐ泣くし、親父は怒るし、そういうことは
まず煩わしいし…それから、親を悲しませたくないっていう気持ちもあるし…」
太郎 「親がわかってくれっこないっていう絶望もあるしな」
信子 「ちょっと待って頂戴。親がわかってくれないって、親は子どものこと、わからないのが
当たり前なのよ。そんなに何もかもわかる親がいたら気味悪いじゃない」
太郎 「しかしさ、つまり、君んちの場合、君がそこまでわかってれば、大したことないよね。」
そうなんですが、子どもはなかなか親を諦められないものです。果たして藤原は
「そうだろうか」と小声でつぶやいたきりです。「重々しい気分になってしまうより、
むしろ軽薄な気分になるほうがずっと願わしいような気がした」太郎は、
「母さんはどう思う?」と問い、「よそのお宅のことを、わかったつもりで何か
申し上げることはできないけれど…」と渋る信子を、「いいよ、遠慮するなよ」
とけしかけます。
信子 「子供は誰だって親に怨みを持つと思うわよ、お父さんお母さんが絶対に
正しくて好き、という人もいるかも知れないけど」
ここで太郎は「きゃあ!」と叫んでいすの上からとび上がり、皿をひっくり返して
しまいます。「どうしたの?一体」と母に質され、太郎は余り言いたくないのだけれど、
そんなことをした手前「本当のことを言わなきゃいけない」と思って渋々白状します。
太郎 「何でもないけどさア。母の日に、お母さんありがとう、って作文書いたり、
花束捧げたりするのあるよなあ。あれ思い出したら、いたたまれなくなったんだよ」
太郎は、「あれこそ、残酷物語だと思っていた。白々しさの極だと考え」、
「テレビにそういう催しがうつったりすると、ブリキの皿をスプーンで引っかいた音を
聞いたときのように歯が浮きそうになった」のです。
信子 「憎み合っている親子というのも、世の中では意外と多いと思うのよ。
ただ、親子の間の憎しみっていうのは他人に対する憎しみみたいに単一じゃ
ないから、それで苦しむのよ。でも、もし憎んでいるとしたらね、藤原君が。
そしたらそういう親にはうんと感謝した方がいいと思うわ」
太郎 「どうして」
信子 「だって、本当の憎しみを教えてやれる人なんて、人生にそういないの。
愛によって教えられるのが一番いいんだけど、もしそれが不可能だったら、
憎しみによっても同じものを教わるのよ。そこが面白いところよ」
曽野氏は別の著書でも「親子の関係は特別だ」と言っています。
このことについては、もう十数年前になりますが、私が岸田秀先生のゼミで
発表したときに、先生と論争になったのを覚えています。先生は強固な「母親嫌悪」を
持っておられる方ですし、筋金入りのフロイティアンですから、クリスチャンである
曽野氏のこんな言い分を承服できないのは、当然といえば当然です。
それでも先生は後に曽野氏の小説「夢に殉ず」の文庫版の後書きをされています。
「著者からの強い希望で」とのことでした。もっとも先生は「編集者が都合よく双方に
伝えるんだよ」と言っていましたが。
後書きをしたぐらいでは容易に両者の溝が埋まるとも思えませんが、しかしその先生も
「母の日のカーネーション」に対する太郎の感覚には同意をしてくれました。
今回のエンカウンターグループではからずも露呈した感がある「ジェネレーション
ギャップ」は、この両者間の溝よりも深いのかも知れません。
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