2010年02月15日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「制服」今昔

 ドーナツカフェの開店が決まり、準備に拍車が
かかってきました。関係諸機関への許認可申請
やら、備品の整備やら、メニューの開発やら、
やらなければならないことが山積み。店で着用する
制服の選定もその一つです。

 事務局のnekoちゃんが、方々へカタログを請求して
分厚いのが何冊も届いたのですが、どうももうひとつ
ピタッとくるのが見当たらない。そこでネットでも見て
みようと「制服」と入れて検索したら、いくつ目かに
「YouTube-制服」というのがあって、思わずクリック
してみるとスゴイ懐かしい歌が耳に入ってきました。
 
 それは、ずっと昔によく聞いたことのある吉田拓郎の
「制服」という歌でした。ハーモニカの前奏と拓郎独特の
節回し、若い頃には顕著だったそのだみ声も健在です。

 「ラッシュ・アワーが 疲れを吐き出してる
  人の多さまでが ものめずらしげに見えて
  東京駅地下街の人ごみの中 Ah
  ひと群れの制服の娘たちがいる」


というフレーズで始まるこの歌、作詞は「襟裳岬」の
岡本おさみです。

 「真新しいスーツケースを提げて
  集団就職で今着いたらしい
  妙に腰の低い男が先頭に立って
  何とか会社の旗など振りまわしている」


 今はもう全く見られなくなってしまった「集団就職」。
地方の貧しい農村などから、中学を卒業したばかりの
少年少女たちが、都会の工場で働くために集団で
やってくる。73年の拓郎のアルバムに収められている
ということですが、そういえば60年代は「上野駅」でした
ものね。

 「家を出る前の晩は 赤飯など食べて
  家族揃って泣き笑いしたのかい
  里心だけは まだ田舎の家に置き
  それでも家を出てくる魅力に負けて」

 
 当時は彼らを「金の卵」などとおだてあげて、
底辺労働を担わせるシステムがつくられていたのですね。
高度成長期の日本は彼らの労働力なくしてはやって
いけなかった。貧しい農村の暮らししか知らぬ彼らの
都会への憧れを上手く利用したやり口です。何だか
今の「派遣労働」に通ずるものを感じますね。

 「これから君は日曜日だけを待つんだね
  悲しみの唄がなぜ街に流れるかも判ってきて
  使うのに容易く 稼ぐのに辛い Ah
  そんな給料の苦さも知ってしまうんだろうね」


 くしくもCSNの前身である「サンプラザ相談センター」は、
そうした集団就職で都会に出てきた働く少年少女たちの
生活を支えるために40年近くも前に設立されたものです。
開設に携わった木村周先生のお話では、地方の特産品を
置いたり、新聞を全て揃えるなどして、少しでも彼らの
都会生活に潤いをもたらそうとスタッフは一生懸命智恵を
絞ったのだそうです。

 「今度きみが故郷に帰ってゆくまでには
  親に語れない秘密のひとつやふたつは
  できてしまって嘘もついてしまうんだね。Ah
  騙された男のことはきっと話さないだろうね」
 

 集団就職の光景は見かけることはなくなっても、
真っ黒なリクルートスーツに身を包んであちこちの
会社を駆け回る女子大生たちに、この「集団就職」
の少女たちと同じような悲哀を感じてしまいます。
あれはまぎれもない「制服」ですものね。
そして彼女たちの多くはきっと地方から出てきていて、
何とか都会で働いて生きていこうと懸命なんですね。

 さて、そんなこんなで「制服」を探すのが何だか
嫌になって検索をやめてしまいました。我がドーナツ
カフェにはきれいな色のエプロンと帽子だけを採用
することになりそうです。


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2010年02月08日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

味つけは「かもめ」風

 少し古い話になりますが、「かもめ食堂」という映画が
ありました。結構評判になったのでご覧になった方も
いらっしゃるかと思います。私はワウワウで放映したのを
ビデオに撮って2年くらい前に観ました。

 主演の3女優がかもし出すちょっと風変わりな雰囲気と、
おいしそうな料理の場面が沢山あるのが好きでした。
そのビデオを久しぶりに観返したくなったのは、やはり
自分が飲食店を開くことになったからでしょうか。

 映画の舞台になっているのは、日本から最も近い
ヨーロッパの国、フィンランド。その首都ヘルシンキは、
いかにも北欧らしい情緒豊かな港町。客船が行き交い、
のんびりとかもめが群れ飛ぶ海岸と、美しく洒落た風情の
街並みに心惹かれます。

 その街角にある日ひっそりとオープンした小さな食堂。
店主は小林聡美扮するサチエという小柄な日本女性。
開店から1ヶ月たっても一人もお客さんが来ず、所在無げに
グラスを磨いている彼女を店の外から覗いて、「こどもかしら」
「『かもめ食堂』じゃなく『こども食堂』ね」と囁きあう住人たち。
そんな場面から始まります。

 しばらくしてやっと一人やってきた客は、トンミという日本
かぶれの青年。サチエは、「記念すべき最初のお客さま」
ということで、彼のコーヒー代を永久に無料にします。いいね、
こういうの。

 彼に「ガッチャマン」の主題歌の歌詞を教えてくれと
頼まれ、出だししか思い出せなかったサチエは、その日
一日何とか思い出そうと四苦八苦。立ち寄った書店で
「ムーミン」の本を読んでいるミドリ(片桐ハイリ)を見かけ、
思い切って声をかけます。ミドリは完璧に歌詞を知っていて、
それを歌いながらノートに書き付けてサチエに渡します。
その書店は図書館みたいに広くて、座って本が読める
テーブルと椅子がゆったりと置いてあるのです。いいね、
こういうの。

 これがきっかけとなって、ミドリはサチエの家に泊りながら、
店を手伝うようになります。彼女はサチエに「どうして見も知らぬ
私を家に呼んで泊めてくれたんですか?」と尋ねます。
「ガッチャマンの歌詞を全部覚えている人に悪い人はいません
からね。・・・多分」と答えるサチエ。いいね、こういうの。

 トンミ以外の客がちっとも来ないのに業を煮やしたミドリは、
「旅のガイドブックに店を紹介してもらったらどうか」とサチエに
勧めます。しかしサチエは、「それはあの店の匂いと違う気がする」
と言って首を振ります。「私が店を開いたのは、観光客や物珍しさに
引かれて来る客ではなく、この街の人に素朴な日本食を食べて
もらいたいから」だと。因みにこの店のメインメニューは、鮭、梅、
おかかのおにぎりなのです。

 「大丈夫。まじめにやっていればきっとお客さんは来る。
ダメだったら・・・やめちゃいます。」「えっ?!」と驚くミドリに
「でも大丈夫。・・・多分」と笑って言うサチエ。いいね、こういうの。

 その場面でサチエは、「もし明日地球が滅びるとしたら、最後に
何をしたい?」とミドリに問いかけます。「おいしいものを食べたい!」
と答えるミドリ。「そうでしょう?最後の晩にはおいしい料理を沢山
作って、好きな人だけ呼んで、のんびりとおいしいお酒と料理を
楽しむの」とサチエ。「それには私も呼んでもらえるんですか?」と
不安そうに尋ねるミドリ。「はい、ガッチャマンの歌詞を全部覚えて
いる人に悪い人はいませんからね。」とサチエ。いいね、こういうの。

 そしてある日、サチエはふと思いついて、相変わらず客のいない
店でシナモンロールを焼きます。この場面、本当においしそうです。
焼き立てを二人で頬張るところでは、よだれが出そうになりました。

 焼きたてのパンの匂いに誘われるように、今まで店の外で
覗くだけだった住人が入って来ます。そしてコーヒーとともに、
大鉢に盛られたシナモンロールを「おいしい!」と満足げに
たいらげます。おゝ、きっとウチの店のドーナツもこんな感じになるわ。
・・・多分。

 しばらくして、空港で荷物が紛失してしまったマサコ(もたいまさこ)が
登場、何ともいえぬ不思議な雰囲気をかもし出します。そしてサチエの
目論見どおり店が満席になる日が来ます。胴のフライパンで手際よく
つくられる豚のしょうが焼き、傍の深鍋できつね色に揚がる分厚い
カツや鶏のから揚げ、パパッとふり塩をして小さな焼き網で一切れずつ
丁寧に焼かれる大ぶりの鮭の切り身。付け合せの野菜の盛られた皿に
できたてをのせて、ライスとともに客席へ。ぎこちなく箸を使いながらも
おいしそうに食べるお客さんたち。う〜ん、私も食べたい!

 この映画、原作も女性、監督も女性。私が睨んだとおりです。
今春CSNが開くドーナツカフェも、オープニングメンバーは女性が
中心。この映画にあるような、日常的でいてどこか非日常的な
感性がそこはかとなく漂う、そんな店にしたいと夢は膨らみます。

 店の所在は横浜、白楽。フィンランドのヘルシンキとはいかぬまでも、
初めて足を踏み入れた私たちを魅了した独特の雰囲気は、この映画に
どこか通ずるものがあります。店の名は「縁(ENISHI)」に決まりました。
きっとドーナツの香りに誘われて訪れる沢山のお客さんで賑わう店に
なることでしょう。・・・多分。

 
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2010年02月01日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「自己愛酒場」─返歌forSOMEBODY

 人がこの世に生まれたときには
誰もが母親のお乳の味しか知らなかったはず。
今のんだらおいしいんだろうか。
でもあの頃は、誰にとってもこの上なくおいしかったんだろうね。

 その乳の味を求めて
人は「ジンセイ」という街を彷徨い、
何軒もの酒場に足を向ける。

 そこで供される酒の味は人によって違うらしい。
いつも口当たりの良い甘いカクテルだったり、
とてつもなく苦くのみづらい酒だったり。

 口当たりの良い甘い酒は何杯ものめるから、
人はそれで「ジンセイ」という街を知った気分になる。
この街の酒場では、皆が甘い酒を酌み交わし、
肩をたたきあっては楽しげに笑い合ってる。
飲みつかれて皆と別れた後にふと
「これって本当においしいんだろうか?」っていう疑いが胸をよぎるけど、
まあいいや。
明日またあの酒場に行けば、そんな疑いは消えちまうさ。

 とてつもなく苦い酒を出された人は、
どうしてもその杯が飲み干せずに立ちすくむ。
その余りもの飲みづらさに、人はそれで「ジンセイ」という街を
知った気分になる。
この街にはおいしい酒などどこへ行ってもないのだと。
こんな酒を「おいしい」と言ってのみ交わしている奴らは
味覚というものがないバカなんだ。
あんな奴らとは金輪際酒なぞのんでやるものか。

 人は知らない、この街の酒場で出される酒は、
どれも皆同じものだということを。
もうあのお乳のような文句のないおいしい酒は
どこを探してもないのだと。
出された酒を「文句なくおいしい」と感じるのは、
まぎれもなく自分自身でしかないのだと。

 苦い酒はごめんだと思えば、その人の飲む酒は
いつもただ甘いだけの酒になる。
口当たりはいいかもしれぬが、敏感な人なら気づく。
その後味に残る微かな空疎さ。
それは針のようにチクリとその人の心を刺し、ほんの小さな穴をあける。
そこでまた酒をのむ。
また小さな穴があく。

 でもずっとそうやっていくこともできないことじゃない。
ともかく酒さえのみ続ければ、ほんの僅かな痛みなんか容易くやり過ごせるし、
ぽつぽつとあいた穴は、その都度もらう賞賛や親しげな笑顔で埋めりゃいい。

 いくら口当たりはよくたって、ただ甘いだけの酒なんていやだと思えば、
その人の酒はどんどんと苦くなる。
とても一辺にのみ干せるような代物じゃない。
目の前になみなみと注がれた酒は一向になくならないから、
お代わりをつぎに来る人もいなくなる。
やって来るのは、いつまでたってもとてものみ干せそうもないという絶望感。
その人は酒場を出て、喧騒を逃れるように街のはずれに入り込む。
そこで「怒り」の谷底や「憎しみ」の藪中に立てこもる。

 でもずっとそうやっていくこともできないことじゃない。
居心地は余り良くないけれど、現実にはないお母さんのお乳の味を
独り思い返すには格好の場所だから。
どうしても酒がのみたくなれば、どこかその辺のできるだけ人気のない酒場に行って
あの苦いまずい酒を一口なめてくればいい。
いつかはのみ干せる日が来るかもしれないし。

 「ジンセイ」という街には無数の酒場がある。
人はその酒の味でその街を語るけれど、
人は知らない、どの酒場でどんな酒をのもうと、
それらはみな幼い頃のんだ母親の乳のように同じ味にできているのに、
その頃のように「文句なくおいしい」と感じる自分はもうどこにもいないのだということを。


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2010年01月25日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

青春ノスタルジー

 シモーヌ・ド・ボーヴォワール著「招かれた女」上下巻を
昨晩読了。実に30余年ぶり。数回目の再読でした。

 この本は何年か前に無性に読みたくなって、本棚を捜したの
ですが見当たらず、仕方がないので買いに行った本屋で絶版に
なっていることを知りました。がっかりして、例のいつもCSNに
本を運んでくれる会員のIさんにそのことを話したら、「多分私
持っている」とのこと。捜し出してくれたのを大喜びでお借りした
のですが、「必ず返して欲しいから」と蔵書印まで押されたその
文庫本を見ているうち、どうしても自分のを所有したくなっちゃった。

 私は「本を借りて読む」というのがどうもだめで、資料とか
ばか高い専門書ならともかく、気に入った本は自分のものに
したうえで読むのでなければ読んだ気がしないというタチ。
「絶版なら仕方がない」と諦めかけたものの、ムクムクとこの
「タチ」が頭をもたげて、ネットの古本サイトを捜しまくりました。
あっても上下どちらかだけというのが殆どのなかで、一つだけ
上下巻揃いらしいのをアマゾンで見つけました。メールでその
旨を確かめたうえで購入。送料込みで金735円也。苦労した
割には安い買い物でした。

 注文してから2日後には本が届き、その古びたセピア色の
ページを開けるのがワクワクするほど楽しみで、できれば
ずっと開けずにその楽しみを味わっていたいと思うほどでした。
しかし目の前の誘惑には勝てずに、その夜1ページ目を開けて
読み始めて以来、毎晩の悦楽が続きました。

 「このほこりくさい匂いも、暗がりも、がらんとしたさびしい空気も、
あたしがいなければ、みな誰のためにも存在しない。いや全然
存在しないのだ。こうしてあたしが出てくると、絨毯の赤い色が、
ほの暗い常夜燈みたいに、闇の中に光りだす。あたしの存在は、
物を無感覚の状態から引き出し、色やにおいを持たせる力がある
のだ。」

 今の本よりも1ポイント以上小さい活字で、四隅が茶色にやけた
古々しいページに綴られたこの文章。そう、この文章。渋谷道玄坂の
「ライオン」で一人読み耽ったあの日々。耳の奥にあの大音響の
バッハが鳴っている・・・。

 「この人気のない場所や、眠っている物体の意味を発見する者は、
このあたしだけ。それはみなここにいるあたしのもの。世界はあたしの
もの。」

 おゝ、そうよ!「世界はあたしのもの。」 この感覚。この溢情。
40年の月日を越えて蘇る熱い感慨がひたひたと押し寄せては、
夜毎立ち現れる20歳の私。「私は今もあなたの中にいるのよ」と
今の私に激しく主張しているようで胸に迫りました。

 この本の舞台である巴里。そこに出てくる「ドーム」とか「北極」
とかのカフェ。立ち籠める煙草の煙とコーヒーの香り。人々のお喋り。
酒と音楽とダンス。怪しげなジプシー占い。喧騒と混沌に彩られた
そんな雰囲気に憧れ、そこに座っている自分を想像しては胸の中で
繰り返していた、「世界はあたしのもの」と。

 ふっと目を上げると眼前には大きなスピーカーがそそり立ち、
飽きずに交響楽を奏で続けている。とっくに冷めてしまった
コーヒーを一口飲むと再び本の世界に耽溺し、あっという間に
2〜3時間は経ってしまう。その硬い椅子で最後のページを
読み終えたあのときの気分を、昨晩はまざまざと思い出しました。

 できるだけ引き伸ばして2週間もかけて読んだのですが、
いやでも終わりは来てしまいます。未練尽きない私は、
次なる悦楽を追い求めて、数日前にやはりアマゾンの古本サイトで
「他人の血」を何と1円で購入しました。この安さがもう顧られる
ことのない作品であることを物語っているようですが、そのお陰で
1円で悦楽が買えるとは、誠にありがたいことです。

 今本棚で出番を待っている私の青春。今の私に
鋭くそして激しく熱情を投げかけてくる20歳の私に
また会えると思うと、今からぞくぞくするほど楽しみです。

 ※文中の引用は「招かれた女」(新潮文庫、川口・笹森訳)
   によります。



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2010年01月18日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

それでもハッピーバースディー

 今日は我が家の老犬サンタの誕生日。何と17歳になりました。
人間の17歳は思春期の真っ盛りですが、犬の場合は悠に90歳を
超えていると思われます。昨今はどうも犬の寿命が延びる傾向に
あるらしく、20歳近くまで生きる例が珍しくないのだとか。環境や
ペットフードのせいらしいけど、犬も人間も高齢化社会ですね。

 若い頃はあんなにはしっこくて、どんなところにでも飛び上がり、
ゴキブリを追いかけて殺す特技まであったサンタですが、もう近頃は
めっきり足が弱り、おまけに代謝が悪くなったせいか、両足の付け根に
脂肪の塊ができてしまって、まるで砂袋をぶら下げて歩いているみたい。
そのうえ片方の瞼にも脂肪がたまり、だらんと下がってきて、丹下左膳
ばりの片目になっちゃった。若き日の凛々しいハンサム犬の面影は、
もうどこにもありません。

 脂肪の塊ができるのは昔からで、お腹にも梅干大くらいのが前から
あったのだけど、ここ一年くらいの間にあちこちに飛び火して、それが
どんどん大きくなっていく。心配した夫が獣医さんに見せて検査して
もらったのですが、内臓は特に悪いところがないということでした。
あまりにうっとおしそうなので、手術して取ることも考えたのですが、
余命もそうないのに、痛い思いをしたうえに大嫌いなエリザベスカラーを
つけさせるのも却ってかわいそうに思えてやめました。

 近頃は散歩もせず、ストーブの前で寝てばかりいます。やんちゃで
悪賢くて、人間にとっては決して御しやすいペットではなかったけれど、
まあ、飼い主に似たのかもしれません。もともと触られても余り喜ばない
子だったのですが、この頃は露骨に嫌がります。人間も犬も年をとると
気難しくなるものですね。

 人間よりもずっと寿命が短い動物を飼うと、自分の老化を早送りで
見ているような感じがします。私もこんな風に日一日と動きが鈍くなり、
気難しくなって、一日中寝てるようになるんだろうなと思います。でも
人間はなまじ「自意識」という厄介なものがあるから、自分の存在が
無為になっていくことになかなか耐えられないのですね。私も結構
じたばたするかもしれません。

 どんなに醜くなっても、どんなに動きにくくなっても、自然の命が
尽きるまでは、四の五の言わずにとにかく生きている。こういう
サンタの姿は何だか感動的でさえあります。 毎朝彼の垂れ流す
糞尿の始末にうんざりしながらも、「おゝサンタ、今日も頑張ってるね」
と声をかけてやるのが、このところの日課になっています。


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2010年01月11日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

只今修練中

 私の母はとても筋肉の力が弱く、晩年は子宮や腸などの
内臓を支えきれずに体外に出てしまう症状に苦しみました。
筋力が弱いのは遺伝的な体質らしく、私にも受け継がれて
いるようです。

 そこで中年期を過ぎた頃からジムに通い、ジョギングにも
精を出し、少しでも筋肉を鍛えようとしてきました。今でも
毎朝ダンベルを使った筋トレに励み、週3〜4回はリビングに
でんと置いてあるウォーキングマシーンで30分以上は歩く
ようにしています。これで晩年になっても自分の内臓くらいは
何とか支えられる程度の筋肉は維持したいものだと思って
いる次第ですが、さてどうなりますことやら。

 筋肉といえば、昨日A子さんのブログにあった「キャリア
サポーター養成講座」で「自己愛の筋力」ということが話題に
のぼりました。私が「自己愛は誰にでもあるけれど、ほんの
ちょっとのことで傷ついてしまわぬような筋肉をつけることが
必要」と言ったら、続けてT先生が「今は自己愛が肥大しすぎ
てそれを支える筋肉がひ弱いケースが目立つ」と述べられ、
「やはり身体だけではなく心にも筋力つけなきゃね」という
ことで一致しました。

 カウンセリングがその筋力をつける「ジム」のような役割を
することもあるわけで、ただただ傷つかぬように繭でくるみ込む
だけでは事足りぬ場合も多いのですが、だからといっていきなり
重いダンベルを突きつけても、クライエントさんは恐れをなす
だけです。むしろ必要なのはカウンセラー自身の「自己愛」を
鍛えることです。カウンセラーの自己愛がひ弱ければ、相手の
防衛に手もなく巻き込まれて、「怒り」や「嫌悪感」、または
「同情」や「憐憫」といった感情がこころ一杯に膨れ上がり、
相手の自己愛を受け入れる余裕などなくなってしまうからです。

 しかし、またここで難しいのは、自分が筋力を鍛え上げて
ちょっとやそっとのことで傷つかなくなったとしても、「傷つき
やすさ」への感性を持ち続けなければならないことです。
そうでないと、幾重にも防衛された相手の自己愛の様相を、
見極めることができません。

 而してカウンセラーというのは 「鋼のように強く、硝子の
ように繊細に」という矛盾を綱渡りしているようなところが
あります。いわばサーカスの曲芸師のようなものですね。
こうしてみると、一人前になるのに曲芸師さながらの鍛錬が
必要となるのも頷けますね。

 A子さんはじめ「キャリアサポーター養成講座」の受講生諸氏
には、是非とも一人前の曲芸師をめざしてもらいたいものです。
自身の「根源的な課題」に取り組むのも、綱からもんどり落ちぬ
ような足腰の筋力をつけるため。訓練の途中では、目がくらんで
立ち止まってしまったり、失敗して落っこちてしまったりという
ことが何度もあるかと思いますが、めげず怯まずやり遂げられん
ことを願っています。


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2010年01月03日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

すきやき食べて負を抱く

 今日は、帰省しているA子さんに代わって、
私かなりんがブログを書きます。A子さんは明日
書く予定です。悪しからず。

 新年もうかうかしている間に3が日が過ぎようと
しています。いつものことながら、正月休みというのは
短いですねえ。

 今日はもうおせちも食べ飽きて、パパりんが
すき焼きの材料を買ってきました。今上の台所で準備に
かかっているところ。すき焼きできるまでに、ブログ
書いちゃわなくちゃあね。

 まあ新年だし、mocoちゃんみたいに「今年のほうふは…」
とか書こうかと思ったんだけど、ふと気づいたら「ほうふ」って
「抱負」と書くのね。「負を抱く」。これ、意味深ですね。

 「負」というのは、「背おう荷物」のことなんでしょうが、
こうしてみると、「抱負」って重いのねえ…。空手形を
乱発するなよ、っていう戒めにも感じられます。

 空手形を乱発する気は毛頭ないのですが、少しは
景気のいいことも考えたい。「ドーナツ店目標100店舗!」
とか。これ、空手形っていうより、妄想に近いですが。

 突然ですが、今年はかなりんは某大学の「社会福祉士
養成通信過程」の学生になります。1年10ヶ月という
結構長い道のりですが、何とかやり遂げようと思います。
これ、正真正銘の「抱負」。

 それから新事業をどうにかして軌道にのせ、「100店舗」
ならずとも、「1店舗」だけでも成功させたいですね。そこで
働いてくれる人、お客様としてきてくれる人、その人たちの
輪が広がり、新たなるCSNの誕生につながることを切に
願っています。おゝ、これも立派な「抱負」じゃない!
スゴイね、かなりん(年の始めの自画自賛)。

 来年の今頃、「やっぱり抱負は重かった…」なんてことに
ならぬよう、さあ、明日からまた気を引き締めて、地道に
一日一日を積み重ねて参りましょう。

 それではすき焼きも煮上がったようですので、この辺で。

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