2012年05月28日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

【緊急!!】声明文発表

私たちキャリア・サポート・ネットワークは、
昨今の異常な生活保護制度に対するバッシングに対し、
ホームページに声明文を緊急発表しました。
是非ご一読ください。
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2012年05月25日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

スクラップの効用

 2005年に麻布から恵比寿に事務所を引っ越した頃から、
新聞や雑誌記事のスクラップを始めた。最初はCSNの
関連記事やインタビュー記事の保存が目的だったが、
そのうち興味の引かれる内容の記事があれば切り抜いておき、
それが貯まると台帳に貼って整理するようになった。

 段々と領域も広がり、仕事や福祉に関するものだけでなく、
書籍や映画、演劇などの批評記事、随筆、様々な商品の紹介や説明、
生活情報や料理のレシピなど、分類だけでもかなりの手間である。

 それでもこのスクラップ、結構役に立つ場面もある。
こんなこと言ってた人がいた…とか、ひきこもりの若者を
スタッフにして開いた喫茶店はどこだっけ…とか、批評欄を
読んで観たいと思った映画、あるいは読みたいと思った
本の題名…とかを知りたいときは、ひっくり返して記事を探す。
レンジや洗濯機などの電化製品を購入する際も、複数メーカーの
比較記事を探し出して参考にした。

 インターネットの方が早いじゃないか!とお思いの向きも
あるだろうが、私にとってはそうでもない。大体星の数ほどある
情報が氾濫しまくっているようなネットは、一般的な情報を
得るには便利だが、如何せん煩雑で底浅である。
一旦「自分の興味」と「情報の質」というフィルターを通して
セレクトしたスクラップ記事の方が断然濃密で使い勝手が良い。

 しかしかれこれ7年が経ち、何分にも量が増え、それにつれて
中身もごちゃついてきた。こうなると「あんな記事があった筈だけど…」
と思っても探しきれないし、それより何よりどんな記事があったのかさえ
もうすっかり失念している。
これではせっかくのスクラップの意味がない。
そこで今少しずつ見直しを始めている。

 もう古くなってしまった情報や無用な記事は捨て、
分類も見直してコンパクトに使いやすくしよう!…と
意気込んだのはいいのだが、それがなかなか進まない。
ついつい手を止めて古い記事を読み返してしまうのだ。
今や故人になってしまった人に関するコラム、読んだとき
名文だと唸った随筆、書評につられて読んだ本や
読みそびれた本、観たor観なかった映画や演劇、
時としてブログの格好な材料にも使わせてもらった多くの
記事たちを、気がつけば誠に懐かしい思いで読み耽っている
自分がいる。

 CSNでとっている新聞は日経なので、スクラップもその記事中心
なのだが、日経は企業や財界の御用新聞だから経済記事や
社会面に読むべきところは殆どない。だからその切り抜きも
それ程ない。ではどうしてとり続けているのかというと、
文化面が抜群に充実しているからである。勢い切抜きは
その領域に偏ることになる。そしてそのスクラップは、まさに
一大読み物として私の前にある。このところ本旱に悩む私に
とっては誠にありがたい救世主なのである。

 昔「さざえさん」の4こま漫画に、マスオさんかなんかが
「大掃除に畳を上げて、その下に敷いてある新聞を読み耽り、
肝心の掃除の方はちっとも進まない」というのがあって、
今で言う「あるある」の感じで妙におかしかったけど、私の
スクラップ再編成は完全にそのマスオさん状態と相成っている。
しかしこれもスクラップの思わぬ効用、まあ、急がずゆっくり
楽しむのも悪くない。


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2012年05月18日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

絶望するにも体力が要る

 この頃はしょっちゅう本旱に襲われる。
ついこの間までは社会福祉のテキストやらワークブックやら
「読まなきゃならない本」が山積みだったのに、一挙にそれが
なくなって、「読みたい本」だけ読める境遇に戻ったら、
その読みたい本の調達に一苦労だ。心の赴くまま
新刊を買いあさっていたのでは金がもたない。
かといって図書館に行くのは気が進まず、古本屋の在庫にも限りがある。

 昨日は古本屋から買いこんだ本も底をつき、
I文庫からまだ読んでない本を引っ張り出してきた。
宮台真司著『絶望から出発しよう』(ウエイツ)である。
夜の11時頃から読み始めて一気に2時間ほどで読んだ。

 宮台は『終わりなき日常を生きろ』(1995)以来である。
この本も2003年刊行でちょっと古いのだが、彼のアジテイトぶりは
変わっていない。『終わりなき―』が「近代の閉塞的な状況を夢とか
希望とかに囚われずに、頑張らずにまったり生きる」ことで乗り切ろう」
と提唱していたところから転じて、「ここではないどこかがあるなどという
世迷言に惑わされずにもっと深く絶望したところから出発しよう」と
なっている。

 ポストモダンの議論が如何にばからしい言説で満ちているかを語り、
官僚や行政機関がどれほど現状と乖離した認識しか持っていないかを
喝破し、日本というシステムの機能不全を暴き立てる舌鋒は相変わらず
鋭くなかなか読ませる。自らが率先してロビー活動をやっているって
いうから具体例も豊富で面白い。システムチェックのために官僚エリートに
伍する市民エリートが必要なのに、NPOもNGOもその機能を果たしていない
というのもその通りだろう。
福祉の分野なんかではもっともっとやらなきゃだめよね。

 終盤の「これからどうしていけばいいか」というテーマのところで、
宮台は「もっと絶望しなければだめだ」と言っている。それで雑誌に
『絶望が足りない』という連載を始める予定で(そのうち探して読んでみたいね)、
そこで取り上げる3冊の小説に言及している。その3冊というのは、
村上春樹の『海辺のカフカ』、白石一文『僕の中の壊れていない部分』
そして田口ランディーの『セブンディズ・イン・バリ』だそうだ。

 ここで面白いのは、「圧倒的にだめなのが村上だ」と言っていること。
『海辺―』の主人公は「母親に捨てられた存在で、ゆえに最後に
母親的存在から存在を承認されて生きる理由を回復する」という
「クサーイ話」になっていて、宮台は「椅子から転げ落ちた」って。ハハ!
田口の『セブンディズ―』は作者の神秘主義的志向から安易に
「ここでもないどこか」が当然「ある」と持ち込まれてしまうところが
大きな欠点。

 それらに比して白石の『僕の中の―』にはもっと深い絶望がある。
彼の主人公は「かけがえのなさを望む者たちのパターン化された凡庸さ」
に耐えられない。彼の小説は「一条の光さえ見えず、しかしありえない
ものを待つという痛切さが、「世界は確かにそうなっている」という
絶望を伴った深い認識を与えてくれる」と宮台は言う。

 村上春樹は「ノルウェーの森」以来何冊か読んだが、最近は
とんと食指が動かない。田口ランディーも「コンセント」を読んで
興味を持ちいろいろ読んだけどいまいち。どっちもワタシ的には
ぴったりこなかった。宮台の言うとおり「ぬるい」のよね。
でも白石一文は最近立て続けに読んでる。
特に『僕の中の―』は「ぎりぎりまでねじくれた孤独感」みたいな
ものがあって、妙にはまった。ひりひりするような感触がいい。

 白石の「深い絶望の世界」は私を引き付ける。
「ぬるい失望と、それを裏返したぬるい希望」に覆われた世界で
思考停止の先延ばしで日常をやり過ごしているのは何とも気持ち悪い。
しかし絶望することの何というしんどさ!
白石の小説を読むだけでもかなりしんどい。
それなのにそこから「出発」などできるのか・・・?
宮台のアジテイトについていくには体力がいる。

 2003年からまた時は進み、「絶望を引き受ける」ことの困難さは
益々大きくなるばかりだ。
そして今、アジる人物は宮台以外にも沢山いる。
自分のスタンスを見失ってはいけない。

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2012年05月11日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

寂しさなんかで壊れちゃいけない

 今日白石一文の小説を読んでいたら
登場人物の女性がこんなことを言う場面に出くわした。

 「寂しさは人を壊すのよ・・・」

 ラケット感情数々あれど
 げに最強なるものは「寂しさ」なり・・・

なんて感傷に浸ってる場合じゃない。
「おゝ素晴らしき家族の絆よ!」の大合唱の陰で、
ほくそ笑む婚活ビジネス。
「孤独死」の恐怖を煽り立てるマスコミ。
お手軽な「繋がり」を提供して稼ぐネット業界。

 うっかり足元を掬われぬために
 ゆるい地盤を固めておこう。
 今必要なのは「本物の感情」だ。
 胸の奥に静かに怒りの火を燃やし続けることだ。



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2012年05月04日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

人の心を掴む人、離す人

 この頃夕食後は夫に付き合ってTVを観ることが多い。
特に番組を選んでいるわけではなく、夫が適当につけたのを
私もなんやかんや言いながらだらだらと観るというスタイル。
今日もさっきまでそんな感じで過ごしていた。

 画面にはかのジャパネットタカタの高田社長が出ていた。
長崎の田舎町の小さなカメラ店から現在の年商1500億と
いう大会社を築き上げるまでの足跡を辿る内容。独特の
アイディアと実行力、それに人の心を掴むのが抜群に
うまい人だと感心した。

 顧客名簿流出という事故があったときに素早く全面営業停止の
処置をとったことで信用を取り戻したり、社員のために広大な
体育館や露天風呂まである福利厚生施設をつくったり。
年に一度は社員全員でイタリアに研修旅行にも行くという。
自社の社員を大切にするこういう姿勢が顧客への考え方にも
通ずるんだなあと思わせる。

 「人の心を掴む」と言えば、以前ブログに書いたT社長。
先月の半ばに約束どおり東京タワーの麓にあるすてきな
豆腐料理のお店で合格祝いをして頂いた。
私が社長の介護センターでグループワークをしたときに
参加してくれた若い職員の方お二人も一緒に連れて来て
くださり、おいしいお料理と賑やかなお喋りで誠に楽しい
ひとときを過ごした。

 このT社長も職員のために食事の席を設けたり、研修を
熱心に行ったりしている。会員制のリゾートホテルの権利も
取得して職員がいつでも自由に使えるようにしているのだ
そうである。一緒に来ていた若い職員さんも家族旅行で
利用してとても良かったと言っていた。ときに厳しく接する
こともあるが、T社長の根本的に人を大切にする姿勢は
そこで働く人たちにもしっかりと伝わっているようであった。

 しかし残念なことに、人の心を決定的に離してしまうような
めに出会うこともある。この場での詳述は避けるが、いかにも
人の気持ちへの忖度が皆無な仕打ちは、その人への信頼感を
一瞬にして打ち砕いた。そういう仕儀を引き起こしたのは
つき合った私の方にも何がしかの原因があったのだろう。
そう反省して黙って離れていくしかない。

 人の脚本は良く見えるが、自分のことは存外見えないものである。
それにしても人の心を掴むことの難しさに比して、離してしまうことは
恐ろしいほど容易い。それを痛感させられたこの出来事。
人はその存在を尊重されて初めてそこに信頼感を紡ぐのだ、という
原点を改めて振り返らせ、常に自分を検証する大切さも併せて
実感させてくれた。
良いお手本に触れることと共に、これもまた貴重な体験なのかもしれない。


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2012年04月27日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

あのとき、生まれ出たもの

 1957年、日本がやっと戦後の混乱期から抜け出した頃、
私は中学生になった。中高一貫の私立の女子校だったが、
初めての社会科の授業で「自衛隊についてどう思うか」と問われて、
自分の頭で考えるということを否応なく迫られ、ものすごく
大人になったような気がしたものである。

 しばらくすると私にも人並みに親しいクラスメイトができた。
T子とOの二人である。もともと二人は家が近所で親しかったらしいが、
たまたま利用する電車の線が同じだった私が自然に仲間に入った
のである。たわいないお喋りをしながら毎日帰途を共にし、そのうち
一緒に買い物をしたり映画を観に行くようにもなった。

 そうした関係が一変したのは、夏休みが過ぎて2学期が始まって
間もなくである。教室でT子がてんかんの発作を起こして倒れたのである。
大きな音をたてて椅子ごと後ろにひっくり返ったT子は、白目をむき
口からは泡を吹いていた。まくれあがったスカートからあらわになった
太ももにはケロイドのようなやけどのあとが広がり、思わず目を背けたく
なるような凄惨な様相だった。

 T子は幼い頃から度々てんかんの発作に見舞われ、炬燵で発作を
起こしたときに中の炭火に両足を突っ込み、ひどいやけどを負ったのだと
後から母親の話で知った。その後投薬の治療でずっと治まっていた発作が
ここにきてぶり返したらしい。
思春期の身体の変調なども原因の一つだっただろう。
T子はそれから1週間くらい学校を休んだがまた元気に登校してきた。
私は発作などうそのようにけろっとして笑っているT子をみて心底ほっとした。
しかしその日、Oが私を物陰に呼んでこう告げたのである。
「私、もうT子とはつきあわないことにした。だから一緒にも帰らない」

 その時の私の気持ちは今でもありありと思い出すことができる。
驚愕、怒り、落胆、軽蔑、虚無・・・実に様々な感情が激しく胸中を駆け巡り、
一瞬私は言葉を失った。
握り締めた手がぶるぶると震えた。
罵倒して殴り倒したい思いを必死でこらえて、私は何とか態勢を立て直した。
「私は今までどおりにつきあうわ」
真っ直ぐに射抜くようにOを見つめて私が決然とこう言ったとき、
目をそらして下を向いたOの顔が歪むのを見た。
Oは醜悪だと私は思った。

 そしてこのとき何かが私の中に生まれたのである。
それは「思想」というには余りにも幼く狭量なものだったかもしれない。
しかしこのときの思いが今の私の芯になっていることに、それこそ
半世紀の余を経て今思い当たるのである。

 私とT子のつき合いは、中学を卒業するまで続いた。
T子は必死で投薬治療を続け、少しずつ発作は治まってきていた。
それでも電車の中や映画館で一緒にいるとき何回かは発作に襲われ、
その度に私は素早くT子のスカートを直し、周りの大人に救急車の
手配を頼み、家族に連絡を入れた。

 高校で進路が分かれた私たちは違うクラスになり、お互いに
新たな交友関係のなかに入っていった。T子の発作は完全には
治まっていなかったが、彼女は自らの荷を背負って生きていく力を
つけていた。幾多の傷つきや交流の体験のなかで、彼女もまた
何らかの「思想」を芽吹かせたのだ、と思う。

 今ではT子の消息も分からないが、私に「思想の芽」を生み出させた
この体験は、絶えることなく私のなかに息づいているのだと、今改めて
思うのである。



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2012年04月20日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

待てば海路のモティベーション

 春眠何とか・・・というけれど、このところ朝の目覚めが
めっぽう遅くなり、起きるのが大体8時を回ってしまう。
今朝などは7時過ぎに目は覚めたのだが、ついふらふらと
ベッドに逆戻りして9時近くまで寝てしまった。

 ついこの間までは社会福祉士の試験勉強をするのに
6時前に起きたりしていたのがうそみたい。
やはり人間行動するにはモティベーションが必要なのよね。

 とはいえ、朝寝の何と気持ちのいいこと!
会社勤めだったら無理やりでも起きなきゃならない頃よね、と
思いながらうつらうつらとまどろむのはもう最高の贅沢。

 でもなあ。
こんなことしていると、身体も心もなまってくる。
一日の予定が押せ押せになって、夜寝るのも遅くなる。
結局今頃になってブログ書いてるし・・・。

 NPOも決算の時期。
今年は何とか総会もやりたい。
そろそろエンジンをかけ直して走り出そうかな。

《わかぬなら わかせてみしょう モティベーション》
                      (byかなりん)

 ところで男Nの改造計画。
いよいよ部屋の片付けにまで及んだそうな。
そんなにも行動的になるモティベーションは果たして何?
 
《わかぬなら わくまで待とう モティベーション》
                      (by男N)

 ほんとに随分待ったもんねえ…。


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