専門書なので蔵書が殆どなく、何冊か手配してもらったうちの2冊が届いたと
連絡があり、今日取りに行って借りてきた。
早速そのうちの一冊を読んでいる。
「共感の思想史」(仲島陽一著・創風社/2006)という本である。
そのなかにちょっと面白いエピソードがあって興味を引かれた。
「ニーチェ─同情批判と原ファシズム」という小題のついた章である。
それによると、ニーチェはその著書「曙光」のなかで、
「行為の原理としての同情(Mitleiden)は自壊する」と述べているという。
いろいろと哲学者らしい言い回しの言説が引用されているが、
要するに「他人の不幸を見て助けようとしなければ、私たちは自分の
無力と怯惰を確認して自身の名誉を減退させるから、この種の苦痛と
侮辱とを拒絶して、同情の行為によって報復する」のであり、
「この行為の中には、巧妙な正当防衛や復讐もまた込められている」
からだ、ということらしい。まあ、確かにそういう面もあるよね。
ニーチェは、キリスト教的なヒューマニズムの「道徳的観点」を批判し、
「同情」は本当は一種の快であり、少なくとも一種の復讐であるのに、
まるで正しいこと善いこと美しいことであるかのように自他を欺いており、
だからそれは「不正」とか「悪徳」とかいうより、「病的」であり、
「デカダンス」であると決めつける。うん、気持ちは分からなくもない。
ニーチェに批判的な著者は、ここで吉田秀和氏のこんな言葉を引用している。
「ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳(すなわち同情)を口を極めて
排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力の
ために悩み苦しんだかの証拠に他ならない」…うーん、そんなこともありかな。
しかし、ニーチェの同情批判が反ヒューマニズムから社会ダーウィニズムと
結びついたとなると、見過ごすわけにはいかなくなる。
「社会ダーウィニズム」とは、動物の弱肉強食の論理を人間社会にも当てはめた
イデオロギー、つまり「淘汰の論理」だからである。ヒトラーの優生政策はこの
イデオロギーを下敷きにしていると言われている。
反ヒューマニズム→反宗教or道徳→淘汰の法則、というわけである。
「善人という概念においては、すべての弱者、病者、出来損ない、
自らに苦しむもの、つまり没落すべきすべてのものに肩入れがなされ、
淘汰の法則は妨害され、誇り高くできのよい人間、現状を肯定する人間に
対する抗議が理想とされている。しかも、これらすべてのことが道徳として
信じられたのだ!─破廉恥漢を踏み潰せ!」
以上、ニーチェの言葉として紹介されている。
いやあ、言ってくれましたねニーチェさん。
反道徳を標榜してそこまで言うとは、よほどの激しいルサンチマンがあった
としか思えない。エゴグラムやったら絶対NPゼロだね、あんた!
ニーチェは、1889年に発狂し、晩年の10年は狂人として生きたという。
その狂気を引き起こしたのは「乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会った」
ことであった。その時「彼は泣きながら走って馬の首を抱いた」のである。
この挿話は、最近「ニーチェの馬」という映画のモチーフにもなった。
著者はこの挿話を引き、「ニーチェは同情に復讐されたのではないか、と思いたくなる」
と書いている。誠にその通りかもしれない。
折りしも昨日エゴグラムをやってACゼロを記録した私。
そのうち「従順」に復讐されないようにしっかりと自分を見つめておかなくちゃね。
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