2012年07月13日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

ゼロからの復讐

 数日前資料が必要なことがあって、久しぶりに近くの目黒図書館に行った。
専門書なので蔵書が殆どなく、何冊か手配してもらったうちの2冊が届いたと
連絡があり、今日取りに行って借りてきた。
早速そのうちの一冊を読んでいる。
「共感の思想史」(仲島陽一著・創風社/2006)という本である。

 そのなかにちょっと面白いエピソードがあって興味を引かれた。
「ニーチェ─同情批判と原ファシズム」という小題のついた章である。
それによると、ニーチェはその著書「曙光」のなかで、
「行為の原理としての同情(Mitleiden)は自壊する」と述べているという。
いろいろと哲学者らしい言い回しの言説が引用されているが、
要するに「他人の不幸を見て助けようとしなければ、私たちは自分の
無力と怯惰を確認して自身の名誉を減退させるから、この種の苦痛と
侮辱とを拒絶して、同情の行為によって報復する」のであり、
「この行為の中には、巧妙な正当防衛や復讐もまた込められている」
からだ、ということらしい。まあ、確かにそういう面もあるよね。

 ニーチェは、キリスト教的なヒューマニズムの「道徳的観点」を批判し、
「同情」は本当は一種の快であり、少なくとも一種の復讐であるのに、
まるで正しいこと善いこと美しいことであるかのように自他を欺いており、
だからそれは「不正」とか「悪徳」とかいうより、「病的」であり、
「デカダンス」であると決めつける。うん、気持ちは分からなくもない。

 ニーチェに批判的な著者は、ここで吉田秀和氏のこんな言葉を引用している。
「ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳(すなわち同情)を口を極めて
排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力の
ために悩み苦しんだかの証拠に他ならない」…うーん、そんなこともありかな。

 しかし、ニーチェの同情批判が反ヒューマニズムから社会ダーウィニズムと
結びついたとなると、見過ごすわけにはいかなくなる。
「社会ダーウィニズム」とは、動物の弱肉強食の論理を人間社会にも当てはめた
イデオロギー、つまり「淘汰の論理」だからである。ヒトラーの優生政策はこの
イデオロギーを下敷きにしていると言われている。
反ヒューマニズム→反宗教or道徳→淘汰の法則、というわけである。

 「善人という概念においては、すべての弱者、病者、出来損ない、
自らに苦しむもの、つまり没落すべきすべてのものに肩入れがなされ、
淘汰の法則は妨害され、誇り高くできのよい人間、現状を肯定する人間に
対する抗議が理想とされている。しかも、これらすべてのことが道徳として
信じられたのだ!─破廉恥漢を踏み潰せ!」
以上、ニーチェの言葉として紹介されている。
いやあ、言ってくれましたねニーチェさん。
反道徳を標榜してそこまで言うとは、よほどの激しいルサンチマンがあった
としか思えない。エゴグラムやったら絶対NPゼロだね、あんた!

 ニーチェは、1889年に発狂し、晩年の10年は狂人として生きたという。
その狂気を引き起こしたのは「乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会った」
ことであった。その時「彼は泣きながら走って馬の首を抱いた」のである。
この挿話は、最近「ニーチェの馬」という映画のモチーフにもなった。
著者はこの挿話を引き、「ニーチェは同情に復讐されたのではないか、と思いたくなる」
と書いている。誠にその通りかもしれない。
折りしも昨日エゴグラムをやってACゼロを記録した私。
そのうち「従順」に復讐されないようにしっかりと自分を見つめておかなくちゃね。



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2012年07月06日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

未練じゃないかよそんなもの

 新年度が始まって3ヶ月。
今年は花見もしたし、総会も開いた。
新プロジェクトも発足し、先月からはSVクラスが始まった。
これからは結構忙しくなりそう。

 そんな日々のなかで、何かが溜まっていく。
密かに、気づかないほど僅かずつ溜まっていく。
じっと内に意識を向ければ見えてくる。
心の澱のようなもの…。

 身体がだるい。
何となく浮き立たない。
浅瀬に身を留めるエネルギーが切れそうだ。

 じわじわと侵食してくる怒り。
細胞の一つ一つに重く沈みこんでゆっくりと増殖する。
身に覚えのある感覚だ。
苦い唾を飲み込む。

 学生時代。
薄汚い格好でほっつき歩いている私に母が言う。
「小さいときはかわいかったのにねえ…」
「うるせえ!」
手にしていたグラスを母に向かって投げつける私。
殴りかかる母。殴り返す私。

 ちゃらちゃらと身を着飾って口紅つけたバカ女たち。
おしゃれと男と芸能人の話しかしない頭の空っぽな女たち。
次々と強姦して殺してやりたい。
心のナイフを研ぎまくり、胸に暗い炎燃やしたナインティーン。

 コンプレックスの塊は焼いて食べた。
皿もきれいに洗ったけど、私が私でなくなったわけじゃない。
あの頃の私が今の私に嫉妬する。
戻っておいでと囁きかける。

 堕ちていく…深みへ。
憎悪と敵意に満ちた澱にまみれて抱き合う
19の私との蜜月。何という快感!

 ここには長くいられない。
因果を含めた別れ話は、激しい愛撫に遮られる。
ミイラ取りがミイラにならぬ保証はどこにもない。


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2012年06月29日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

雲をつかむ話

 一昨晩のこと、仕事を終えて夜遅くに戻ってみると
T社長からメールが届いていた。
この頃は例のプロジェクトの件で頻繁にやり取りをしている。
その翌日に社長の事務所を訪ねる時間を問い合わせていたので、
その返事だったのだが、そこにこんなことが書いてあった。

<明日の打ち合わせのメインテーマ:人類の転換点/
 サブテーマ:「目的は一つ。目標が三つ。システムは無限」です。>

 はてさて何のことやら…。
同行する男Nに即転送&TEL。
「ねえ、どういう意味だと思う?」
「それは…目的が一つで、目標が三つで、ええと…それからシステムは
無限…ということじゃないでしょうか?」
結局わからないんじゃん!

 これまでも私のもとには、社長のイメージを形にしてみたという
マトリックスをはじめ、次々と進化する構想がメールで送られてきている。
どうも彼の頭の中では、私の持っていったプロジェクトの下案が
ぐんぐんと膨らみまくり、何かとてつもないものに到達しているらしい。
しかしその全体像は、もくもくと湧き上がる雲の中に隠れて、
正体がどんどん見えなくなっている。
もうこれはきいてみるっきゃない。
意を決して出かけていった。

 そして昨日。
たった2時間余の打ち合わせで見事に雲は晴れたのである。
T社長の説明は明快で実に分かりやすかった。
さすがに右脳採入、左脳発信の人である。

 最大の収穫は、「プロジェクトの目的」が二人の間でしっかり
リンクしたことである。「後悔しない死を実現する」という
かなり抽象的な目的が、私の中で「ソーシャル・インクルージョン
というはっきりした社会福祉の理念に置き換えられたことである。

 「ソーシャル・インクルージョン」の理念が社会福祉に
採り入れられたのは比較的最近のことである。
国際ソーシャルワーカー協会が2000年に採択した定義のなかで
提唱し、日本社会福祉士会も追随している。しかし、この理念は
まだ麗々しく掲げられているお題目の域を脱していない。
現場では数少ない福祉活動家が悪戦苦闘しているだけで、
社会福祉士会はじめ代表的なソーシャルワーカーの団体には、
一つとして今回の生保バッシングや社会保障制度改悪に関する
声明すら発しているところはない。

 僅かな心ある福祉人だけの活動ではどうにもならない、という
苦い思いを日々強めていた私に、T社長は全く違った視点からの
方法論を提示したのである。誠に目を開かれた思いだった。
それは私とは全く違った地点に立ってものを見、考えている人の
アイディアであり、その地点にいる人の実行力がなければできない
構想でもあった。

 実現するための「三つの目標」は、説明を聴いていくと納得する
ことばかりであった。何よりも感服したのは、目標に達する道筋が
地道で具体的な行動として非常にはっきりと示されたことである。
そして今この時点でそれを成し遂げる実力がT社長にあることを
確信できることである。

 そのうえで…「システムは無限」。誠にその通りである。
かくなる次第で、私の中の「雲をつかむような話」は
「雲をつかむ話」に大転換と相成った。かくして実に
すっきりした気分で極上のおいしいお魚までご馳走になり、
幸せ感一杯で帰途に着いたのである。

 T社長のコメントにあるように私が「ドS」なら、社長は「ドB」だ。
全く異なった視点と発想はこの仕事形態の違いにもよるだろう。
お互いに自分と違ったものを受け入れようという「インクルージョン」の
態勢がなければ、この話の進展はなかった。少なくとも私にとっては
雲は眺めるものでしかなかっただろう。福祉人の一人として
この雲をつかめたらもとより本望。きっと後悔なく死ねるに違いない。



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2012年06月22日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

仕事の流儀

 1967年の4月、私は大学を卒業して外資系の
語学レコード会社に就職した。女子4大卒業生の
就職先など教師くらいしかない時代だったから、
悪戦苦闘の就活の末やっともぐりこんだのである。

 営業企画部に配属された私は、本社から送られてくる
パンフレットなどを翻訳して日本向けに作り変える仕事を
していたが、じきに現場に回されるようになった。
デパートや書店の一画を借り上げ、そこでレコードの
宣伝販売をするのである。

 それはまさに私の真骨頂発揮の場となった。
瞬く間に私の受け持つ現場の売り上げは全国一位となり、
毎月のように社長賞を貰った。ある日当の社長が現場を
訪ねてきて「俺の目に狂いはなかった」と言った。どうやら
私を現場に出すのは社長じきじきの命令だったらしい。

 それからは社長は頻繁に私の現場にやってくるように
なった。長身で痩せた体躯の顔色がひどく悪い人だった。
「いつも微熱があるんだ」と言い、そういう風情がセクシーで、
小娘の私にはとても大人の男に見えた。当時は随分年上に
思えたが、多分37〜8才くらいだったのだろう。

 社長は閉店間際に顔を見せては、私を食事やダンスに
連れ歩いた。行く先はどこも一流で、貧乏学生だった私には
ついぞ縁のなかったようなところである。
銀座での本格的フレンチのコース、赤坂の奥まった路地の料亭、
驚くほど新鮮なおおぶりのタネを握る築地の寿司、カウンターで
揚げたてを塩で頬張る天ぷら、有名人の集うようなナイトクラブ、
どれもこれもが目を見張るような幻惑的な体験だった。

 「お前には才能がある」と社長はいつも私に言った。
「一流になれ」とも言った。若かった私には社長の真意は
分からなかったが、生き急いでいるような気配は感じていた。
しばらくして私が男と同棲したと知ったときは顔を歪め、
「つまらん男で人生を無駄にするな」とも言った。
その頃から私は会社にきちんと出勤しなくなった。
「つまらん男で人生を無駄にした」のである。

 社長は一年後に入院した。肺がんだったらしい。
私が見舞いに行くと弱々しく笑って「とうとうお前を
育てきれなかったな」と言った。「俺が死んだら
骨をペンダントにして持っててくれよ」と冗談のように
笑いながら言うので、私も笑いながら「イヤよ、そんなの」
と返した。「まだ同棲してるのか?」と尋ねられ、「別れた」と
言うと満足そうに頷いた。病室を出て行く私に手を振りながら
「お前は自由に生きろ」と言った。

 入社して二年もたたぬうちに私はこの会社を辞め、
建設会社の子会社であるレクリエーション会社に就職する。
そこで出会った女性上司にもかわいがられて、私は彼女から
男性社会を強引に切り拓いて生きる術を教わった。
大姉御のような彼女から「あんたには才能があるんだから
無駄にしちゃだめだよ」と言われるたび、社長のことを
思い出した。

 彼女は若い私に大きなプロジェクトを幾つも任せ、
ぶっ倒れそうになるほど私をのめりこませた。悪意ある
中傷や嫉妬にもめげない精神力を叩き込んだ。
責任のある地位に女がつくだけで目を剥く社会に
先陣で切り込んでいった彼女は、新卒とそれ程変わらぬ
ただただ生意気で世間知らずの私を、常に矢面に
立たせることで鍛え上げた。反面彼女は私のもつ
センスを非常に大事に育ててもくれた。私は彼女のもとで
殆ど何の制約も受けずに、誠に自由に仕事をさせて
もらったのである。そして「エレガントなスタイルの内に
実に度し難い女を秘める」と彼女が称する「私流」が
つくられていったのである。
 
 こうしてつらつらと遡れば、二度と戻れぬあの頃に
「乾杯」したいような気分になる。社長の骨は貰い損ねたけど、
その存在は確実に今の私の骨の一部になっている。
「つまらん男」で人生を無駄にしたことはその後もたびたび
あったけど、今にして思えば社長の骨をバトンにして
受け継いだかのごとき女性上司が育ててくれた「私流」は、
今も私の仕事への姿勢に生き続けている。


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2012年06月15日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

雲はつかめるか?

 先週のブログに書いたとおり、そしてまた今日のT社長の
コメントにもあるように、「後悔しない死の実現プロジェクト」の
下案プレゼンが昨日とにもかくにも無事終了した。

 昨日までの二週間、私ののめりこみ癖は日々全開で、
プレゼン前日の夜には遂にめまいの前兆まであり、
慌てて早寝を画策する始末。一緒に頑張った男Nも
「熱が出そう・・・」と不吉なことを口走り心配したが、
何とかことなきを得た。

 そんなこんなで背水の陣よろしく臨んだプレゼンだったが、
嬉しかったのは職員さんたちが実に熱心に聴いてくれたこと。
当初の予定より数名多い出席だったが、それも自分から
望んでのことというからありがたい。脳をパンク寸前まで
酷使してつくった甲斐もあるというもの。

 それにしても間髪入れずに私の疲れが吹き飛ぶような
コメントをくれたT社長。さすが「人の心をつかむ達人」だ。
しかし社長の描く壮大なプランを私がしかと理解したとは
言い難い。何せその目指すところは「雲(クラウド)」であり、
それによって「世界を変える」ことであるらしいのだ。

 私のつくった下案のどこをどうすればそんなところに
辿り着けるのか、今は誠に「雲をつかむ」ような感じだが、
多分T社長のいる世界では「雲」は実体のあるつかめるもの
なのだろう。

 私は根っからのアナログ人間なので、社長のいる世界は
まるで異次元の世界のように感じる。だが、本当に「雲」に
実体があるのならその世界に行ってつかんでみたい気もする。

 つらつら考えてみれば、「人の心」も「雲」も「実体がない」
という点では同じなのだ。そして私のつくった下案のベースは
まさに「人の心をつかむ」ということなのだから、案外二人の
いる世界には共通項もあるのかも。

 T社長は、その両方をつかむことのできる稀有な存在なのかも
しれない。その人のエスコートがあれば、ひょっとしたら雲だって
つかめるんじゃなかろうか。

 …と、そんな気がしてきたところで、そろそろ脳を再起動
させて、プロジェクトを次の段階に進めることにとりかかろうか。
少しでも雲に近づくことを目指して。



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2012年06月08日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「後悔しない死の実現プロジェクト」発進!

 前置き。
今F子さんから借りた新井素子の小説を読んでいるので、
今日のブログは新井風に書いてみる。では。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 それは。
当ブログではもう何回も登場しお馴染みとなった、
自称「荒らし」、かつ男Nの「友人」を名乗る、かの
T社長の直感から始まった。私の3.16のブログ、並びに
5.04のブログに対する彼のコメントにその端緒はある。
T社長のなかで何かがひらめいたのだ、きっと。

 そこで。
今月の初めにT社長と私はランチを共にした。
「友人」の男Nも同席して社長とかなり長時間話しをした。
その結果、社長の考えていることの概要と、そのなかで
どんなことを私に求めているのかということのおおよその
ところは理解をした。

 つまり。
社長は現在携わっている介護事業へのユニークな
将来的ヴィジョンを持っており、そのヴィジョンの一環として
「後悔しない死に至るための具体的な心理的手法」を
システム化して採り入れたい、と思っている。その手法と
システムの考案を私に依頼したい、とざっとまあこんなこと
なのだった。

 なんと。
大雑把な依頼だと最初は思った。
これじゃT社長が自分でも言うとおり「丸投げ」だ。
だが3人で話すうち何となくイメージが湧いてきた。
はっきりした根拠はないが、何だかできそうな気がしてきた。
課題が難しいほど燃える私の特性に火がついた。
約束した期限は2週間。
何としてでもやってみせるぞ!

 それから。
寝ても覚めても「後悔しない死」が私の身内を駆け巡り、
私のこれまで積み上げてきた知識と体験を総動員して
アイディアを煮詰め、形にする作業に没頭する日々が
続いている。昨日が期限までのちょうどなか日。
T社長に中間報告をしたところである。

 そして。
来週には下案を仕上げてT社長と職員さんたちに
プレゼンテーションをする予定となった。
もしかしたらこの仕事、現在の私の集大成となるやもしれぬ。
そんな予感までしてくる今日この頃なのである。

 ちなみに。
私自身は、死に際に後悔するのもまたおつなもの、と
思っている。ただしこの心境はT社長の理解の外らしい。
私としては「後悔する私」を含めて私として受け入れる、
ということを言いたかったのだけれど、どうもうまく
伝わらなかったみたいだ。

 だけど。
畢竟後悔するもしないも、死に際に丸ごと自分を受け入れる
ことができればそれでいいのだ、というところでは一致する。
最終的な到達地点には差異はないのである。
而して「後悔しない死に至る道筋づくり」の下案作成は、
只今快進中なのである。

 
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2012年06月01日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

感情の囚人たち

 先日の日経に今年のカンヌ国際映画祭に関する記事があった。
現代人の深まる孤立を描いた作品が目立ったというなかで、
主演男優賞を受賞したデンマーク映画「狩り」は、ごく平凡な町で
一人の男が少女のついた軽い気持ちのウソから児童性愛の疑いを
かけられ、保育園を通じて瞬く間に広がった噂によって村八分に
されて孤立する物語だという。

 「中世やファシズムの時代のようなことが現代でも容易に起こる。
情緒を排した冷徹な映像がそう思わせる」と記事は書いている。

 「情報がウィルスのように素早く広がる村の小宇宙を描いた。
インターネットを通して世界は噂に満ちた小さな村となった」とは、
当映画のトマス・ヴィンターベア監督の言葉である。

 こうした状況は今世界中のどこにでもあるのだろう。
その根底にあるのは、どのように表層の社会が形を変えても
頑として変わらぬ人間の本質的な問題なのだ。渦巻く感情に
容易く呑み込まれてしまう弱さ、事の真偽を見抜けぬ愚かさ、
自分のみを守ろうとする姑息さ、大勢に迎合する臆病さ、
あらゆる弱点を懐にして私たちは生きている。

 大切なのはこうした弱さや卑小さが他者にだけではなく、
自分にもあることを自覚することだ。純粋な被害者などは
存在しない。私たちは常に被害者にもそしてまた加害者にも
なり得るのだ。一歩間違えれば私は噂に苛まれる男にもなるし、
そうでなければ男を苛む村人の一人にも容易になるであろう。
その事実を自覚せずに行う一方的な糾弾は幼く見苦しい。

 私たちはすべからく感情の囚人である。
そこから自らを解き放つ鍵は、冷徹な自己覚知にあると
私は思っている。


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