2012年10月19日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「愛着障害」、侮るべからず

 今週は出ずっぱりの一週間。
なかなか余裕がなく、気がつけばもう週末。
いやだ、SVクラスが明日に迫っている。
超特急でレジュメの制作中。

 前回資料として高瀬先生から提示のあった
「愛着障害」(岡田尊司著/光文社新書)の本もやっと昨日入手したばかり。
今それを読みつつ、Tカウンセラーがとってくれた記録と自分の記憶を
総動員してパソコンに向かう。
その合間にこのブログ。
となれば、内容は片手に持った「愛着障害」のことになっちゃうねえ。。
これ必然。

 「発達障害」との見分けが判然とせず、見定めずらいとされる
「愛着障害」。Tカウンセラーは、「そんなこと言ったら、私たち
みんな愛着障害ですよねえ」と言っていたけど、確かに我ら
カウンセラーは愛着障害の宝庫である。本にもある通り、夏目漱石や
川端康成、谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀夫と、名だたる文学者も
例に並ぶ。外国人ではバラク・オバマをはじめ、ビル・クリントン
アーネスト・ヘミングウェイ、ミヒャエル・エンデ、エリク・H・エリクソン、
W・D・ウィニコット、チャーリー・チャップリン、スティーブ・ジョブス
から我が愛するジャン・ジュネまで枚挙に遑がない。

 ほう、ほう!
彼らの驚くべき創造のエネルギーの源泉は、これすべからく
「愛着障害」なのだ。それは「既成の価値を否定し、そこから自由に
なろうとしたこと」により生み出される。「彼らが内部に不安定な
空虚を抱え、常識的な行動では満たされないものがあったからだ」
と著者は言う。

 しかし、この「愛着障害」、丁と出るか半と出るかは、やはり
その人の資質と才能に加えて、CとAの間を埋める強力な自己力が必要。
カウンセラーも「愛着障害」からくる自己の不全感を克服すべく、
自分を見つめ防衛をはぎ取るための厳しい訓練を積む。そのとき
「愛着障害」の特徴は、激しい勢いをもってエネルギーに転換する
可能性を秘めている。

 この辺りを著者はコフートの「誇大自己」の概念を使って
説明している。幼い自己が描く万能感、顕示欲、自己愛的怒りに
満ちた「誇大自己」と、現実の自己との間隙を埋めるたゆまぬ行動と
エネルギー。それがないと人はいつまでもその段階に留まり続け、
不毛な欲求不満に消耗してしまうのである。

 
 「愛着障害」、生かすも殺すも自分次第。危険な両刃の剣である。


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2012年10月12日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

あなたはどんな働き方をするのか?

 つい先日、待ち合わせまでの時間つぶしにふらっと入った本屋の新書の棚に
ちょっと目を引くタイトルの本があって、思わず手に取り買ってしまった。
「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」(小暮太一著・星海社新書)
という本である。「僕たちは…」とあるから若い人の本だろうとは思ったが、
案の定著者は1977年生まれの30代。富士フィルム、サイバーエージェント、
リクルートと名だたる大企業を渡り歩き、2010年に独立。出版社を経営する
傍ら、執筆や講演で稼ぐアントレプレナーである。

 競争社会のなかでそこから滑り落ちないようにただただ馬車馬のごとく
働かねばならぬ労働者たち。著者は「こんな働き方」を「ラットレース」
と表現している。ワッカに乗せられてせわしなく足を動かし走り続けても、
同じところをくるくる回っているだけで何も進まない。それは年収100万の
ワーキングプア―でも1000万の中堅サラリーマンでも同じこと。「僕たち」
は、利益のために限界ぎりぎりまで働かされる。それは何故か。
「資本主義社会の構造とはそういうものだからである」と著者は言う。

 著者は、マルクスの「資本論」とロバート・キヨサキの「金持ち父さん
貧乏父さん」という、時代も対策のベクトルも全く異なる2冊を読みこみ、、
資本主義のしくみについての解説が両者ともそっくり同じだということに
注目している。視点がいかにも若い人らしいよね。

 資本主義経済において労働力は唯一「価値」を生む原資である。著者は
この仕組みを、「資本論」による分析を基盤に、「価値」とか「使用価値」
とかいうマルクス用語を使って説明する。どんなに価値の高い商品を
つくったり売ったりしても、会社が労働者に支払う給与は「労働の再生産」
に対する必要経費が基本である。即ち明日も明後日も変わらず働き続けられる
ために必要な生活費であって、2倍も3倍も利益を出したからといって、
給料が2倍、3倍になるわけではない。せいぜい報奨金とか賞与で僅かばかり
還元されるだけである。原材料や動力費は「価値」が上がればそれに伴い
増加するのだから、企業の利益は、この労働者の「剰余的価値」によりのみ
生み出される。従って企業は、明日働くことができるギリギリの限界まで
労働者を酷使した方が利益が上がる。これが資本主義経済の搾取の構図である。

 マルクスはこの搾取に対抗する「革命」を唱えたが、ロバート・キヨサキは
雇用者から抜け出して人を働かせるビジネスオーナーになり、そして金を
働かせる「投資家」になることを提唱する。資本主義を叩き壊すか、その仕組みの
頂点をめざすか、どちらにしても「僕たち」には余り有効な対策とは言えない。

 著者は、「僕たち」の現実的な対策として、自分の「労働力」を消費する
のではなく、それに投資する「自己内投資」を勧めている。金を投資する
ことはできなくても、自己の労働に投資することはできる。毎日8時間
言われたとおりに働いて、休日に体を休め、ときにストレス解消もするけれど、
翌日からはまた同じように会社に行き同じような日々を繰り返す。これは
「労働力の消費」である。同じ会社で働くにしても、自己の主体性を生かし、
働く技能や意欲を高めるような熱意の涌く働き方をすれば、それが
「自己内投資」となる。

 自己内投資はいずれ自分の働き方を変えることに結びつく。
給料のためにいやいや働くのではなく、自分がしたい働き方をする。
それが「こんな働き方」から抜け出す有効な方法だ、と著者は説く。
自身もそのように働いて、主体的な働き方を獲得したのだと言う。

 著者は、会社に勤めていた頃は仕事を「苦行」だと思っていた、と
明かしている。しかし働くことの本質はそうではない。苦しいことはあっても
基本的に働くことは楽しいのである。そのなかで障害を乗り越え、不安を
克服し、リスクを背負う力を培った者だけが仕事を楽しいと思えるのである。


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2012年10月05日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

未練をつなぐカルサカス

 日経をとるのはそろそろやめようか、と思っているのだが、
以前にも書いたように文化欄なかなか充実しているのでどうも
思い切れない。嘘ばかりつく不実な男みたいな新聞なんだけど、
ちょっと粋な仕草が垣間見えたりするとぐっときたりして
すっぱり縁がきれない。まるで薹がたったジゴロみたいなもん。
そんな奴に月に4,380円も貢いでるのもどうかと思うんだけどね。

 …なんてことをつらつら考えながら紙面を繰る毎日なのだが、
私の好きな随筆欄「プロムナード」にまたちょっとぐっとくる
エッセイがあった。筆者は比較文学者の中村和恵氏。
タイトルは「穀象虫について」。

 筆者は、バルト海の小国エストニアに滞在中に知り合いになった
若い女性に、自分の食べていたすごくおいしいお米の残りをあげたく
なった。しかしどうもこのお米には穀象虫がいるみたいなのだ。
穀象虫とはお米につく虫のことである。そしてこの虫は低農薬の
おいしいお米にしかつかない。虫自体にも害はない。彼女は
こうしたことを理解してこのお米を食べてくれるだろうか?

 それで筆者はエストニア語作文に初挑戦して「穀象虫」について
彼女に説明することにしたのである。「穀象虫」はエストニア語では
「カルサカス」というらしい。虫についての詳細な説明の後で
筆者はこんな風に言葉を綴る。

 「カルサカスが発見される可能性のある可能性のある米を
わたしはあなたに贈りたい。これはとても新鮮な米です。
この虫は薬品汚染の少ない穀物を好みます。カルカサスは
いわば健康で自然なお米の証明なのです。成虫は米を丁寧に
洗えば洗い流すことができます。その後普通に調理すればよい。
カルサカスのいる可能性のある米をあなたは食べたいですか」

 その女性はそれを丁寧に読み、いくつか質問をした後で
「あなたが安全でおいしいという米をわたしは喜んで持って帰ります。
あなたはお米のエキスパートであるのですから」と言い、米袋を
しっかり抱えてマイナス20度の戸外へ出て帰って行った、というのである。

 何かいいよね、この話。
私が子どもの頃はお米はまだ配給制で、農家のおばさんが売りに来る
闇米を買っていた。そのお米には必ず虫がいて、いつも祖母が丁寧に
洗っては、縁側に広げた新聞紙にザーッとあけて日に干していたのを
思い出した。

 さて、この話には後日談があって、それが翌週の「プロムナード」に
載っていた。「それからどうなったのか」という問い合わせの反響が
あったらしい。それによると、お米をあげた女性から「おいしいお米を
楽しみ、遂にカルサカスは発見されなかった」旨のメールが届いたのだ
そうである。そのメールにはこう書いてあった。

 「最初はいかに自分がカルサカスと勇敢に戦い、それを洗い流すかと
想像していたが、誰も現れなかった。そこで私は考えた。
その罪のない小さな生き物を殺さないことにしよう、これほど遠くまで
旅してきたのだ。その客人を透明な小箱に入れ、空気穴もあけ、米を与え、
健康状態について論じ合うことにしよう。多分彼は孤独なのだろう。
夏になったら別の、エストニアの象虫をつかまえて紹介しよう。もちろん
彼らが戦い始めたら、速やかに離す。しかしカルサカスはいなかった。
ただとてもおいしいお米があった」

 「多分寒すぎて成虫になれなかったのだろう」と筆者は書いている。
エストニアの女性が虫にかける思いの何とも言えぬ味わいの深さと、
それを受けつつ卵のまま食べられてしまったカルサカス。
何気ない筆致が、農薬まみれで虫にも食われず、姿だけ美しい野菜を、
何の思いもかけずに食べていることの空虚な苦さを痛烈に際立たせる。

 こんな秀逸なエッセイに出会うと、どうもすっぱり別れる決心が鈍る。
月4,000円強のお手当、もう少し貢いでみるか。


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2012年09月28日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

YES,WE CAN!

 世はめっきり秋めいて、やっと一山越えた感がある今日この頃。
夏の初めに発進したこちらのプロジェクトも
早や3か月が過ぎ、昨日は通算6回目のミーティング。
プロジェクトの試案に沿って、ときに試行錯誤もありつつ、
職員さんはじめメンバーの頑張りに支えられ歩みを進めている。

 私たちは、まず事例を聴き取ることから始めた。
これは、職員さんの手によって行われたのだが、かなりの
手間と時間を要して根気のいる作業となった。
まだ数例を手掛けただけだが、それでも随分いろいろなことが
分かってきた。

 高齢者は時代の波とともに、現代では考えられぬ状況を生き、
人それぞれの歴史を持っている。そうした過去は彼らの勲章であり、
偉大ともいえる内容でありながら、それが現在の自分を十分支える
ものとはなっていない。「こうしてセンターに通えるのは幸せ」と
言いながら、「でも自分はもう何の役にもたたない」という
喪失感も色濃く漂う。今の自分に心からOKを出せていない。
これでは、「後悔しない死」に至る生き生きとした未来を
創り出すことは難しい。

 回を重ねるにつれて、「後悔しない死」へのカギは、
「今、いかに生きるか」ということのなかにあるのだ、ということが
はっきりしてきた。当初から聴き取りのテーマは、それを通して
「現在から未来への生きるリソースを発見する」ということにあったが、
身体的にも精神的にも衰えの進む高齢者は、過去にできたことも
今はもうできないと思い込んでいる(或いは実際にできない)ことが多く、
何らかの可能性への主体的な係りを引き出すのは、容易なことでは
ないだろうと思われた。

 いかに今が楽しそうに見えても、その底辺にあるのが「諦め」や
「喪失感」であれば、それは今を主体的に、能動的に生きているとは
言えない。人は自らの生をただ与えられるままに生きるのではなく、
自らが常に目標を設定し、その達成をめざして生きるとき
「生きている」という実感を持つ。私たち援助者がするべきは、
その場をつくることではないだろうか。高齢者の一人ひとりが、
過去にとらわれず、あきらめず、喪失感にうちひしがれずに、
生き生きと主体的に自らの可能性を生きることができる、そんな場を。

 …というようなことを日夜考え続けていたある日、
思いがけずに私は出会った。「これだ!」というものに。


http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=00qNrx4_kSQ
 

 誘われて何気なく出かけて行ったコンサート。すごい!
オーチャードホールの客席で、多くの観客とともに
スタンディングオベーションをしながら、私はまるで
天啓に打たれた気分になっていた。

 会場で入手したDVDを昨日のミーティングでメンバーに
観て貰った。T社長以下総じて感受性の豊かな面々のこと、
全員感涙しきりの試写会となった。大いなるヒントを得て、
さあ、これからがいよいよ本格的なスタートである。

 
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2012年09月21日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

一味の違いを支えるもの

 今日はクライエントさんからの依頼で、
当NPOの法律顧問である設楽先生の事務所をお訪ねした。
顧問と言っても報酬なしのボランティアでやってくださっていて、
私たちにとっては何とも有難く、心強い存在なのである。

 先生とはサンプラザ相談センター以来のおつき合いである。
センターには隔週で法律相談が設定されていて、東京弁護士会から
1年毎の持ち回りで弁護士さんが派遣されてきていたが、たまたま
センターが閉鎖する年に担当してくださったのが先生だった。
まだ30歳そこそこの若い先生だったが、クライエントさんの話を
とてもよく聴いてくださる方で、カウンセラーたちの信頼も
厚かった。最後の回には相談終了後に私が挨拶に伺ったのだが、
「ここが無くなってしまうのは本当に残念ですねえ…」と
しみじみとおっしゃって、心なしか涙ぐんでいらしたのを覚えている。

 センターの閉鎖後、私たちがやっとの思いでNPOを立ち上げたのと
時を同じくして、先生も京橋に事務所を構え独立なさった。顧問を
お願いにあがると快く引き受けてくださり、「顧問料はお払い
できないんですけど…」という何とも図々しい条件も「いいですよ」と
あっさり承諾してくださった。「僕も独立したばかりですから、
その厳しさは十分わかりますよ。お互いに頑張りましょう」と励まされて
感激しきりであった。

 その後先生には、電話でアドバイスを頂いたり、何件かのケースで
実際にお世話になったりしたが、いつもとても良心的に対処して
くださって助けられた。このところしばらくお会いする機会が
なかったが、今日久しぶりに再会できて、変わらぬ誠実な先生の
たたずまいに触れ、何だかとても懐かしい感じがした。

 帰り際に先生と短い会話を交わした。
「新地さんとも随分お久しぶりですね」
「私たちのNPOももうかれこれ10年になります。先生も
 同じ時期に独立されたのですよね」
「そうです。来年で足かけ10年です。あっという間ですね」
「これからもお世話になります」
「お互いに頑張りましょう」

 先生は法律扶助協会や法テラスのボランティアも積極的になさっていて、
社会に対するボランタリー精神が非常に旺盛な方である(そうじゃなきゃ
貧乏NPOの無給顧問なんか引き受けないよね)。一方で仕事に対する
熱心さ、的確さにはサンプラザ時代から定評があり、いかなる分野の
どんなケースにもきちんと対応してくださり、参考になる判例の資料などを
素早く送ってくださるなど、お願いした以上のことを実に迅速にこなして
くださった。同僚のNカウンセラーなどは、「う〜ん、すごい!これがプロの
仕事ってもんだ」とその度に感心していたものである。

 昨日の405のブログにもあったように、独立して何かをやろうと
いう人の仕事の仕方はどこか違う。私はこれまで老若何人かの弁護士さんと
仕事をさせて貰う機会を得て、彼らの優秀さや苦労には文句なく敬意を
覚えるのだが、設楽先生にはやはり何か一味違うものを感じるのである。
それは、多分あくまでもクライエントの立場に寄り添おうとする先生の
姿勢からくるものなのであろう。若くして独立し、金儲けにはとんと
縁遠いように見える(失礼!)先生が、変わらぬ姿勢で仕事を続けて
おられることに、勝手に「同志」のような親近感を抱いてしまうのである。



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2012年09月14日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

フェイスブックの使い方

 最近良SNSのサイト名がしょっちゅう耳に入る。
曰く、ツイッターで誰それがこう言ってた…とか、
我が社はフェイスブックで情報を発信してます…とか。
国会議事堂前の反原発デモの火元はツイッターだというし、
エジプトの内乱さえも引き起こすその力はもはや無視できぬ存在となった。 

 そういうことにはとんと疎い私は…といえば、
ツイッターには何年か前に登録だけはしたものの、
何をどうしていいのか分からずそのまま放りっぱなし。
SNSの元祖みたいなミキシも、もっと以前にちょこちょこっと
やってみたが、何だか余り意義を感じず、今は全く捨て置き状態。
その間にネットの世界はどんどん歩みを速め、ぼやぼやしてると
追いつけなくなりそうな様相を呈してきた。これ以上食わず嫌いが
進行しないうちに味見だけはしておかなくちゃ…ということで、
つい最近とりあえず<tェイスブックに登録してみた。

 めざすはニッポンの内乱…に留まらず「世界の意識改革」!
なんてでかいことを夢見つつ、現実はページを整えるだけでも
一苦労。どうもツイッターとも連動しているらしいけど、
どうすりゃどうなるのかは未だ解明に至らず。
まだ「友達」は3人のみ。
「もしかして友達かも」のリストがバーッと出てきて
びっくりしたり、全然知らない人から友達オファーが来たり、
はて、これをどうしたものやら戸惑うことばかりである。

 一歩先んじて始めたF子さんは、開始直後から精力的に発信を
続けている。いろいろなサイトから様々な記事を拾ってきては紹介し、
ツイッターでもばんばんつぶやいていて、私は「いいね!」と
「シェア」をクリックするのが精いっぱい。彼女はIWJを訪ねて
団体のなかでの役割もゲットしてきている。行動にもつなげているのは
本当に「いいね!」である。

 もっともいち早くオファーが来て「友達」になった
仕事仲間のみよみよは、先日ひょっこり訪ねてきてくれて、
「フェイスブックなんかで交信するより、こうして直に話す方が
よっぽど楽しいから、話したいときは会いに来るわ」と言っていた。
私も同感。二人とも根っからのアナログ世代なんだねえ…。

 でも、そのみよみよのこんなブログを発見したのは
他ならぬフェイスブックのおかげである。是非みんなにも読んで欲しい。

<フェイスブックユーザーはこちらから>
http://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=113102928837029&id=100004119671296

<その他の方はこちらから>
http://eyn.blog93.fc2.com/blog-entry-218.html

 みよみよも言ってたけど、フェイスブックのページを開いたのは、
ブログなどの発信の幅が広がる、とアドバイスされたからだそうだ。
そういう効果は確かにある。
そう信じて私も少しずつ発信していこう。

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2012年09月07日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

何をどうすればそうなるか?

 言われてみればそうなのだ。
大勢の人が取りついていなければ機械が回らなかった
生産システムはもはや過去のこと。今やほんの一握りの
技術者で事足りる時代になってしまったわけだから、
人力は殆どいらない。ましてや国境のないグローバル経済が
推進されれば、労働力はできるだけ安い国から調達すればいい。
相当に高度な技術者でさえ、国内よりもかなり安い賃金で
調達可能だ。アメリカの中産階級がこぞって貧困層に脱落し、
二極化しているのも、主にITの技術者の仕事をインドなどの
発展途上国にどんどんアウトソーシングしているからだという。

 もちろんこの波はアメリカのみならず、世界中の先進国を
襲っている。日本も例外ではない。もはや雇用されることで
生活の糧を得る時代は終わりつつあるのだ。今週のF子さんの
ブログにあるように、安富歩×岩上安身のトークセッション
のなかで、安富氏は、はっきり「雇用で飯を食うというのは
幻想だ」と言っている。「ますます小さくなっていく雇用の
パイにしがみつくことは、雇われた会社に魂を売り渡して
生きることだ」とも。

 彼は「今こそスワラージを!」とアジる。
「スワラージ」とはガンジーの言葉で、「自らの魂の自由を
妨害するものと戦う」ことだという。「今や私たちはそのための
格好の道具(PCやスマホ)を手に入れたではないか!」と
焚きつける。確かにそうなんだろうね。

 しかし、既成メディアの偏向を暴くために、ネットを利用して
ニュースの配信をしている岩上氏は、「正直食えません」と
本音を明かしている。ひも付きにならぬためスポンサーを一切
とらずに、賛同者の会費だけで運営するのはかなり大変だろう。
「でもとにかく続けること、考えてないで行動することだ」と
彼は言う。まあ確かにその通りではあるね。

 そうなんだ、確かにそうなんだけど…
じゃあ、それを我と我が身に落とし込んだとき、私は何をするのか?
となると、これが難しい。結局食えなくちゃ話にならないからだ。
特別な才能がなくても、コミュニケーションが苦手で不器用でも、
自分と世界を繋ぐことにとても臆病で、足を竦ませてしまっている
そんな若者たちでも、とにかく食っていけなくちゃならないのだ。
そのためには、何か今までとは違った新しいシステムが必要なのだ。
きっと。

 …と、そんなことをぐるぐる考えていたら、昨日の日経で
評論家の渡辺京二氏がこんなことを言っているのに出会った。

 「文明の行き着いたところでは、人間は生きづらいという自覚を
出発点に、自分が一人の人間と対応する時に、喜びのある関係が
作りだせるのかどうかがカギだ。他者との交わり自体を喜び、
できる範囲で相手に対座し、時間を共有して行く。いわば宴席の
ような雰囲気を他者との関係で築くよう心がけることだ。」

 これって、カウンセリングやグループワークを通して
 まさに今私がやってることじゃない?まあ、ちょっと
 手前味噌かもしんないけど…

 「明治初期に日本各地を旅し、『日本奥地紀行』を著した
旅行作家のイザべラ・バードは、当時の新潟で、傘だけを売る店や
扇子だけを売る店の商売が成り立っているのに驚いている。当時
日本の社会には無数のニッチ(隙間)があり、そこに特化することで、
社会の中に責任と地位を占め、職分となっていた」

 ふ〜ん、そうなんだ!

 「大企業に日本の経済を引っ張ってもらい、雇用を頼るのは限界が
来ている。私は今の若者にもニッチを探せと言いたい。地域で自足する
道は必ずある」
「他者と交わり、ニッチを探せ」という表題の渡辺氏の言説は、こう
結ばれている。

 そうか、ニッチか…。
 行政のしくみや制度からこぼれ落ちている人たちは沢山いる。
 そうね、それって確かに現代の「ニッチ」かも。
 何か、ちょっとだけ視界が開けた感じ。

 奇しくも同時期に同じような主張に出会った。
やはり時代は想像以上に物凄い速さで動いている。



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