2012年12月07日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

誕生日の過ごし方

  昨日私は六十ン回目の誕生日を迎えた。
そこでしみじみ来し方を振り返り…なんて優雅なことはなく、
大根のステーキをつくって食べ、相変わらず天才的な我が料理の腕に
うっとりし、選挙のニュースを見てうんざりし、ケーキがないので
代わりにチョコレートをボリボリかじりながら、この間実施した
7人分のTATの逐語おこしをしていたら、つい食べ過ぎてげんなりして
寝たのであった。

 そこで一夜明けた今日、ブログを書くにあたって僅かなりとも
我が人生思い起こし、何かスッキリしない今日この頃のこの気持ち
見つめ直してみようじゃないか、と沈思黙考、審念熟慮…なんて
ご大層なもんでもないが、まあ、PCの画面見ながらちょっと胸の内
覗いてみた。

 昨日の新聞は、来る選挙について「自民過半数の勢い」と報じている。
その脇に「発達障害が小学生の6.5%にのぼる」という記事もある。
「6.5%!」、思わず大声を出すと夫が「何?」と怪訝そうな顔で聞く。
「ねえ、投票用紙が届いてるけど、選挙行く?」「う〜ん、わからん」。
小沢ファンの夫もさすがに今度ばかりはねえ。

 うかうかしてると憲法改正されちゃうぞ。
金融緩和でインフレ起こすとか言って、円は下がり株価は上がり、
グローバル資本主義はますます跋扈し、貧乏人はますます苦しくなる。
生きづらい人はますます増え、エクスクルージョンがますます進行する。
かといって、「原発反対!」「TPP反対!」の「白か黒か」発想には
単純にのれない自分がいる。

 それにつけても思い出すのは「安保反対!」のシュプレヒコール。
あれって、やっぱり「白か黒か」の思考停止だったんだろうか。
現実に安保がなかったら、日本はどうなっていただろうか。
国防に巨額を費やし、早々に徴兵制度が復帰していたかもしれない。
今頃は核兵器だって持ってたかも。

 「アメリカの属国」と揶揄されながらも、私たちの世代はその大きな
恩恵を受けて来た。「矜持か金か」。あの頃は単純に「矜持」と思って
いたけど、果たしてそうか。人間はそれほど強くも清くもない。

 発展の陰で切り捨てられた多くの弱き者たち。
それでも日本では今までになかったほど長く戦争のない日々が続き、
「矜持より金」の価値観は強まるばかり。
しかし、それほど頑なに守ろうとした「矜持」って、本当のところ何だったの?
一皮むけばつまらないプライドと稚拙さの産物じゃないの?
だから60年や70年を生きた青年たちは、次々と体制や企業の中枢に取り込まれて
しまったんじゃないの?

 多くの左翼青年たちが夢想した共産主義革命は、たとえ六全協がなくても
成就はなかったろう。儚く散った夢の残骸を抱きしめて海を渡った
一握りの若者たちもいたけれど、彼らのことなど世間はとおに忘れ果てた。
しかし今、「××反対」を叫ぶデモ隊の人々、ネット上のツイッターで
匿名で呟く若者たちは、果たして彼らほどのリスクがとれるだろうか。

 こんなにも激変してしまった世の中と、芯のところは一向に変わらぬ人間。
今私たちが真に戦うべきものは何だろう。それは、畢竟自分自身の内に
あるのかもしれない。

 もやもやした気分でいた数日前、本当に久々にTVで流れたこの曲。
「金八先生」の最初のシリーズ、「腐ったみかん」篇のワンシーン。
プロデューサーの独断で丸ごと一曲流されて以来、ずっと封印されてたという。
誕生日を間近にして奇しくも再会したこの曲を聞きながら、改めて自分の内側を
検証してみるとするか。

  


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2012年11月30日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

目と耳の効用

 まだ師走にもならぬうちから寒さが身に染みる今日この頃。
長年の懸案であった我が家屋の名義変更がようやく完遂目前となった。
今週は連日法務局に通いつめ、暖房のきかぬ待合室での長い待ち時間に耐え、
ようやく書類審査を通って提出を終えた。後は出来上がるのを待つばかり。
振り返れば一年がかりのプロジェクトとなった。

 母が亡くなってから早や8年の月日が経ち、やらなきゃ、やらなきゃと
言い暮らすこと5年余、やっと重い腰を上げて本籍地の世田谷区役所に
赴いたのが2年前、そこからまた無為に月日は過ぎ、「今年こそは」と
年の初めに改めて思い定めて何とか年内ギリギリで辿り着いたゴール。
いやあ、長かった〜!

 法務局にはNPOの登記で毎年のように通っていたので、最初の相談は
ついでにという軽い感じだった。母が亡くなって確か1年後くらいのこと。
そのときは、法務局らしからぬ人の良さそうな年配の男性が相談に
あたってくれて、丁寧に説明してくれたのだが、集めなければならない
書類の多さとその余りの煩雑さに呆然としてしまった。とても自分だけの
力では無理な感じがしてそう言うと「行政書士とか司法書士に依頼する
手もあるけれど、何十万ものお金がかかりますよ。自分でやった方がいい」
と諭された。そういえば、母が登記をしたときは法律事務所に頼んで
25万円もかかったとこぼしてたっけ。

 「もし名義変更をしなければどうなるんですか?」と尋ねると、
「次に相続をする人がその分までやらなければならなくなります」
との答え。何だかちょっとやけくその気分になって、「死んだ後の
ことなんかどうでもいいから、もう放っとこうかな」と言うと、
彼は真顔になって私を見つめた。そして「あなたは目が見えますか?」
と聞く。「はい」。「耳が聞こえますか?」「はい」。
そこで彼は大きく胸を張り、力強くこう言った。
「じゃあ、大丈夫。あなたは自分でやることができます!!」

 確かにその通り。私は自分でやることができた。
客観的に見れば大して意味のないことかもしれないが、
この達成感、私にはもう格別。難関をクリアしたアスリートみたいな気分だ。
それにしても「目と耳があればできる」というあのセリフ。
常に私の頭のどこかにあって、投げ出したくなるたび思い出した。
挫けそうになる私を、かくも長きに渡って支えたこの言葉。
名も知らぬ老相談役の気迫に満ちた口調とともに甦る。
蓋し名言。忘れ難い。


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2012年11月23日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「本物の感情」についての再考察

 昨日のブログで男Nが「本物の感情」についていろいろと考察を
巡らしていたが、今日はその補足も兼ねて、私なりの再考察を試みたい。
先週の「嗜癖」ブログに続く他メンバーからの「触発ブログ」第2弾!
(ナンチャッテ、平たく言えば「ネタもらい」だけど)

 さて、「ラケット感情」と「本物の感情」の区別を最初に示唆したのは、
かの「ホットポテト」でおなじみのファニタ・イングリッシュである。
「ラケット感情」とは、「子ども時代にその家族によって禁止されたために、
許容された代理の感情に素早くスイッチを切り替える、そのすり替えられた
感情」のことであり、「本物の感情」とは、「禁止による検閲を学習する
以前の、幼い頃に経験した感情」のこととされる。

 彼女は「本物の感情」に‘real feelings’という語を用いた(男Nも
リアルフィーリングと書いていた)が、最近では‘authentic feelings’
という語が専ら使われているらしい。確かに英語では、‘real’より
‘authentic’の方がイメージが近いんだろうね。しかし日本では、
「リアル」というと「バーチャル」」の対義語みたいに使われるから、
より実体的な感じがするし、‘authentic’という語はなじみが薄いから
イメージが湧きにくい。でもラケット感情も別に「バーチャル」ではなく、
現実に本当に感じられるわけだから、「リアル」と言えば「リアル」な
わけで、ノンネイティブの私たちにとっては、その辺りの分かりにくさが
TAのネックの一つになっている。我がTA講座にとっても、これ、越年の
課題(また年越しそう)ね。

 まあ、言葉の問題はともかくとして、本題に入ろう。
「本物の感情」とは、いかなるとき、いかなるように体験されるのか、
ということね。F・イングリッシュの言うように、それが「検閲前の
幼児期の感情」ならば、かなり原始的で身体的な感情だから、
「子ども」の自我状態の強い人なら、大人になっても感じることは
ある筈ね。但し日常の生活や社会的な対人関係のなかでは、その
感情は邪魔になる。そこで私たちは、そんな感情を感じなかった
ことにしてすり替える。その行為のベースになるのは、強い愛情欲求。
そしてその行為自体は愛されるためのA1戦略。まずは、この「すり替え」
というA1戦略が行われなければ、そこには「本物の感情」がそのまま
ある、ということになる。

 例えば男Nの場合。電話工事に纏わる一連のトラブルのなかで、
彼が感じた「怒り」には、「本物の感情」が関与していると思われる。
何故なら彼のラケット感情は「無気力」「メンドクサイ」であり、
それへのすり替えが発動すれば、脚本に陥り、行動としては、
「いやになって全て投げ出す」となるからである。だから「本物の感情」
である「怒り」はすり替えられずにそこにあったのである。

 さて、ここで一つ問題なのは、その「本物の怒り」が、そのまま
問題解決にストレートに役立った、とは言えないところである。
「本物の感情」が問題解決に役立つ機能を持つことを指摘したのは、
ジョージ・トムソンという学者であるが、F・イングリッシュは
そんなことは言っていない。あくまで「すり替えた感情」が、その人を
脚本に導き、不快な結果を招くことを指摘しているだけである。

 それでは、G・トムソンが主張したのは嘘なのか、と言えばそうでもない。
何故なら、物事を解決する行動には必ずやエネルギーが必要であり、
そのエネルギーは「本物の感情」にしか含まれていないからである。
「ラケット感情」には、問題解決に向けた行動を起こすエネルギーが
そもそも欠如しているのだ。だからF・イングリッシュが言ったように、
「ラケット感情」からは「脚本行動」しか生まれないのだ。

 それでは、「本物の感情」の持つエネルギーをそのまま表出すれば
問題は解決するのか?否である。男Nのトラブルも、彼がその怒りを
何の制御もなくぶつけていれば、多分事態は混乱し解決から遠ざかった
だろう。では、「問題解決」に至らしめたカギは何か? それは、
「本物の感情」そのものではなく、「本物の感情」の表出の仕方にある。
ということは、男Nブログの「仮説1」に近い、と言えるかもしれない。

 注意すべきは、「本物の感情」そのものに、問題解決の力があるわけでは
ないということだ。人間は「感情」「思考」「行動」のトライアングルバランスで
生きている。その人生が脚本に繰られないようにするためには、まず「感情」が
すり替えられないこと、そしてその感情を制御する「思考」が働くこと、
制御されたエネルギーによる「行動」をすること、である。「制御された感情」
が「本物の感情」なのではない。念のため「TATODAY」を読み返してみたが、
どうもその辺りが曖昧なのよね。これは同書が、「本物の感情」を提唱した
F・イングリッシュの主張と、その機能を指摘したG・トムソンの主張をただ
並べただけで、肝心の二人の主張を繋ぐ理論に言及していないからだと思う。

 然るに大切なのは、「本物の感情」そのものではなく、「本物の感情を
制御すること」である。それにより問題解決に向けた行動をとることである。
フロイトの「暴れ馬」理論で言えば、馬を檻に閉じ込めて「暴れ馬」の素質を
殺すことなく、馬を繰る強靭な手綱を編むことである。願わくば男Nには、
今回のトラブルでの体験と実感を糧に、より強靭な手綱の獲得を目指して欲しい
ものである。
 

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2012年11月16日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「嗜癖」─この難儀なるもの

 このところmocoちゃんが「禁煙」に挑戦して
涙ぐましい努力を続けているようだ…なんて
他人ごとのように言ってるけど、かくいう私も喫煙者。
近頃とみに排斥されている人種ではあるが、
これ、何を隠そう(別に隠しちゃいないが)「嗜癖(シヘキ)」の一つ。
「嗜癖」って難しい言葉だけど、要するに「依存症」だ。
「依存症」とは、依存が症状として定着しちゃった状態。
抜け出すのはなかなか難しい。

 しかし依存症は喫煙だけじゃない。
アルコールもあれば、カフェイン、糖分、麻薬までさまざまある。
これは、物質依存と呼ばれるものだが、この他に行為依存や対人関係依存もある。
アメリカのカウンセラーKatherine Degenhardtは、「日常生活に潜む依存症」
として、以下のようなものを列挙している。

アルコール、読書、カフェイン、世話焼き、追跡、チョコレート、
慢性疾患、宗教、掃除、ダイエット、運動(ジム通い)、嘘、コンピュータ
(インターネット)、コントロール、クレジットカード、白日夢・空想、
いたずら書き、薬物、心理的虐待、女性(男性)依存、ギャンブル、ガレージセール
(フリーマーケット)、欲張り、恋愛、お金、音楽、ニコチン、過食、痛み、
身体的虐待、ポルノグラフィ、力、処方薬、ラジオ、自己憐憫、セックス、性的虐待、
万引き、買い物、睡眠、メロドラマ、スポーツ、砂糖、支援団体(ボランティア)、
お喋り、電話(メール)、テレビ、ビデオゲーム(ネットゲーム)、暴力、仕事、
研究集会

─Katherine Degenhardt's Workbook;“Breakinng Family Addictions”(1993)より
※()内は私が「今なら…」を補足したもの

 なんとまあ、随分沢山あるもんだねえ!
この他にもスピード、芸能人、アニメ、ファッション、化粧など挙げればきりがない。
誰だって一つや二つは身に覚えがあるんじゃないかな。
因みに私は、ニコチン以外では読書、それにカフェインくらい。
以前は恋愛とか運動、男(父性)依存とか大変なのもあったけど、今はもう卒業した。
これらは、身体的社会的ダメージの軽重はあるにせよ、どれも元を辿っていけば
根っこは同じ。どうしても埋められない深い深い心の穴に行き着く。
嗜癖とは、その穴を何とか埋めようとする空しい試みが習慣化して、
どうにも抜け出せなくなってしまったものなんである。

 それじゃあ、その穴はいかにしてできたのか。
そこにはやはり「愛着」の問題がしつこく絡み付くのである。
幼い頃に満たされなかった愛。求めても求めても手に入らなかった愛。
今もなお無意識深く潜んでいるそれに対する激しい欲求。
ここを見ずしては嗜癖問題からの解決はないのである。
※これについてはこちらこちらを参照されたい。

 もとより人間というのはそれほど完璧にはできていないのだから、
誰しもが多かれ少なかれ「愛着」の問題は抱えていると言っていい。
それは誰しもが「脚本」を持っているということとほぼ同義である。
誰もが一つや二つの嗜癖はもっているというのもそれ故である。
まるで歪みのない人間などまずいないのである。

 であるからして、嗜癖から抜け出すためには、この根っこを
掘り返さなくちゃならないのである。そしてそれを何かで埋めなきゃ
ならないのである。而してここに大きな落とし穴がある。
「嗜癖」というのは、一つを取り去れば自ずと代替の嗜癖が出てくる
ということである。そしてそれは通常、取り去った嗜癖よりも
刺激が大きくなるということである。

 現在、私はある性嗜癖のケースに取り組んでいる。
それは、アルコール→薬物(睡眠薬)→麻薬→窃視症(覗き)→強姦と
嗜癖が進んだケースである。このケースでは、Clは途中で麻薬を
断つことに成功しているが、その薬物嗜癖が「覗き」という性嗜癖に
よって代替され、それが進むにつれてより大きな刺激を求め、
強姦にまで至ったものである。

 かくなるように、嗜癖というのは厄介なものである。
癌を手術で除去してもしつこく再発するように、嗜癖も再発するのである。
臓器ごと根こそぎにすれば命にかかわるようなこともある。
重症であればあるほど、しっかりとした治療プログラムが必要なのである。

 そこでmocoちゃん、焦らないで!
このブログでmocoちゃんの感じている不可解な気持ちって、
大事なものだと思うよ。
もう少ししっかり見つめ直してもいいんじゃないかな。
今のままで禁煙を焦って新たな嗜癖に嵌っては元も子もない。

 私は自分が癌体質ならぬ「嗜癖体質」だと分かっているので、
長い時間をかけて改善するしかないと思っている。自分を見つめ、
掘り返しするうちに若い頃は沢山あった嗜癖も今は数種に落ち着いたし、
喫煙も読書もさほど度を超さぬところまでコントロールできればいいか、
という気になっている。

 mocoちゃん、また、機会があればその辺りを話し合いたいね、是非!
 

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2012年11月09日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

今を生き抜く武器

 なんだかんだと言いながら、図書館通いをしている。
つい最近もTAT関連の資料本を10冊近く借り、昨日返しに行った。
いやー、重かった!
全部返本して軽くなったバッグに心まで軽くなって、久しぶりに
目黒駅に向かって権の助坂を歩いてみた。途中に古本屋を見つけて
立ち寄り、1時間近くを費やしてまたバッグが重くなった。
図書館帰りに古本屋で本を買い込むって、我ながら本嗜癖重症だね。

 そこで早速そのうちの1冊を昨夜読了。
「僕は君たちに武器を配りたい」(瀧本哲史著・講談社)である。
京大准教授にしてエンゼル投資家でもあるという著者が、若者に向けた
資本主義社会への戦い方を伝授している。表紙には「本書は、これから
社会に旅立つ、あるいは旅立ったばかりの若者が、非情で残酷な
日本社会を生き抜くための『ゲリラ戦』のすすめである。」との
キャプションがある。最近若い人が書くこの手の本が多くなったよね。

 著者は「資本主義は善でも悪でもなく、ただのシステムである」と説く。
しかも「人間のいい意味での欲望に合致した、社会を進歩させる動力を
内包した結構優れたシステムなのだ」と。だが、そのシステムも今や
グローバリゼーションの波にさらされて先鋭化を極めている。以前は
高度な技術とされていた「会計士」や「弁護士」、果ては「医師」に
至るまでもはや安泰とは言えなくなった。

 こんな厳しい社会に真っ向から戦いを挑んでも、あえなく討ち死に
するだけだ。状況に応じて臨機応変に戦術を変えるゲリラの戦い方こそ
ふさわしい。神出鬼没なゲリラ戦を支える武器は、現実の状況を正確に
見据える目と知識、そしてしっかりリスクとリターンを読む先見性である。
そうした戦略による働き方を著者は「投資的働き方」と呼ぶ。株に投資
するように自らの時間と労働力を投資する相手をしっかりと見極めねば
ならない。

 …とざっとまあ、こんなことが書かれている本である。
猛スピードで読み通したので、全体を仔細にに吟味するまでには至らなかったが、
結構共感する箇所は多かった。特に著者が「大学では就職のための技術や
専門知識を学ぶより、リベラル・アーツ(一般教養)を学べ」と言っている
のには好感を抱いた。「大学で学ぶ本物の教養には深い意味がある。
それは人間を自由にする」と説き、比して「英語・IT・会計知識」の勉強などは、
あくまで「人に使われるための知識」であり、いわば「奴隷の学問」である、と
少々過激にアジっている。しかし確かにその通りだと思った。

 著者が主張する如く「本物の教養」は人の土台をつくる。
勿論それは大学で身につけなくても同じことだ。若いうちに文学、思想、
哲学、宗教などの幅広い知識を自らの血肉にしている人は、人生を自分の足で
しっかりと生きている。TAで言えば、リベラル・アーツは「A(大人)」を
成熟させるのである。

 今日は折しも川崎市による「介護職への再就職支援セミナー」の講師を
担当した。テーマは「自らの理解を深める」。これまでの「資格取得講座」
と違って、既にヘルパー2級を取得している方が殆どだった。彼らはもう
「若者」ではないが、自分に向き合うとき、やはり「A」の成熟が大きな
課題として浮かび上がった。前夜読んだ本の言説がちらちらと頭をかすめ、
かなり突っ込んだ内容の講座となった。たった一日の講義ではあるが、
幾何でも彼らの再出発の糧にしてもらえれば嬉しい限りである。




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2012年11月02日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

そこに生まれ出づる「格差」

 おなじみI文庫のIさんが、「ニートの歩き方」(技術評論社)
という本を持ってきてくれた。著者はphaという変わった名前の人。
近頃「ニートの星」とか「ニートの憧れの的」とか言われているらしい。
Iさん曰く、「ニートにも格差があるんですねえ」。

 ほう、格差?そりゃまたどんなもんだ?と興味津々で読んでみた。
ふーん、なるほどねえ…。

 phaさんは、6年くらいかけて京大を出た後、できるだけ楽そうな
会社を選んで就職するも、「なんでくそ面白くもないのに毎日満員電車
乗って出勤して、毎日くそ面白くもない仕事をしなくちゃなんないのか」
といやになり、3年でやめてそれから毎日寝たいだけ寝て働かずにだらだら
暮らす「夢のニート生活」に突入。そもそも彼は子どもの頃から
「だるい、面倒くさい、働きたくない」とずっと思っていたんだって。
アッパレ、子どもの頃からの夢を28歳にして叶えたわけだ。

 彼は、自分がその生き方をしたくて、その生き方を選んだんだね。
彼がそこいらのニートと違うのは、ここのところだね。
「格差」はここから生まれるんだね。
京大出とかそんなことじゃないんだね。

 phaさんの飯のタネはインターネットだそうだ。
「本当に今の時代だからできる生き方だ」って当人も言っている。
彼は「適当にアフェリエートをサイトに張ったり、ブックオフの
安い本を仕入れてきて中古で売ったり、大したことはやってない」
って言ってるけど、プログラミングまでできるっていうから、
ネット関連の技術は結構なものらしい。PCいじってるときは
全然苦じゃないっていうから、まあ、私にゃマネできないけどね。

 それに「自分の理想の生き方」に対する追求心も強い。
最初はデポジットのみで住めるシェアハウスを根城にしていたが、
もっと居心地のいい楽しい空間をめざして、「パソコンとかインターネット
とかが好きな人が集まってもくもくとインターネットをする」という
コンセプトの「ギークハウス」というシェアハウスを自分でつくって
しまった。全てネットでの呼びかけから事を為したのだそうである。

 彼によると、ネットというのは、いくらでも物々交換ができるし、
必要なものはほぼただでそろうとのこと。ときにはお金まで貰うらしい。
その代わり、自分に余裕のある時は困っていそうな人に5百円とか千円
とかを送金する。ツイッターで呟けば誰かが応じてくれるし、
リアルにともに暮らす仲間もいるし、一人になりたいときは自由になれる。
食べるにゃカツカツ、全く贅沢はできないけど、同じような仲間とともに
思い通りに楽しく生きられる。まさに「ニート生活万歳!」って感じである。

 彼は、世の中の掟通りに働くのは「だるくて面倒くさい」と感じても、
それ以外の自分の好きなことには結構アクティブである。本も沢山
読んでるみたいだし、今じゃ自分でこうして本まで書いて、講演なんかも
してるらしい。ニートらしからぬ大活躍だ。

 結局は、ニートであろうがなかろうが、自分がしたい生き方を積極的に
選び取ることができるかどうか、ということに尽きるんじゃないかな。
積極的に選択すれば、行動する知恵も力も湧いてくるってことだよね。
世間や他人の価値観に縛られて自分では何も選ばず、現状への不全感に身を窶す。
ニートじゃなくてもそんな人は多い。
これからは、そういう風に「心の格差」が広がっていくのかもしれない。


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2012年10月26日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

無意識のおかたづけ

 人には無意識というものがある。
「無意識」だから、なかなか意識はできない。
できないけれども、それはものすごく人の行動を左右する。
何故なら「無意識」は意識しなければ制御できないからである。

 人は意識の中に「自己イメージ」をつくる。
「自分はこういう人間だ」というイメージである。
そこには、「こうありたい自分」や「こうでなければならない自分」も
色濃く反映する。そして、そのイメージにそぐわない要素や感情は
全て無意識に放り込んで蓋をする。

 「無意識」には見たくもない嫌な自分の断片が詰まっている。
しかしそれは時に悪臭を放ち、一杯になれば中身が溢れ出す。
ぎゅうぎゅうに詰め込んで外側をコンクリートのように堅牢なもので
固めても、いつも内側から自分の平安を脅かす。「悪臭」はもとから
断たなきゃだめ、なのよね。

 その無意識のなかに「脚本」(byエリック・バーン)はある。
普段はゴミに埋もれていても、何かのきっかけでひょっと顔を出す。
それはストレスフルな状況におかれて強い感情に襲われたときだ。
その感情がスイッチとなって脚本が作動する。

 「脚本」の材料となっているのは、幼い頃の自己イメージだ。
「一人では何もできない無力な自分」、「愛されないことをひどく怖がる自分」
「思うようにできない外界への怒りに満ちた自分」、「強いものに怯える自分」
幼い頃は、誰しもが多かれ少なかれこんな「ダメな自分」に脅かされる。
そして「どうせ僕は愛されないんだ」とか「やっぱり自分はできないんだ」と
思うことで現実の課題に立ち向かう苦しさを回避する。
だって、A(大人の自我状態)が全然できていないんだから
そうするしかないんだよね。

 「脚本」の筋書きは簡単だ。
「僕は現実的な問題を何も解決できない。あゝ何とダメな自分…」
その後の結末は、破滅か失敗か無気力か、人によって様々ではあるが、
必ず否定的なものだ。

 人はやがて大人になり、Aをつくり、自己イメージも変化させる。
僕はもはや無力な子どもじゃない。
外界の理不尽さに立ち向かえる力を持っている。
たとえ愛されなくても、思うようにできなくても、それに耐える知恵と理性を備えている。
もうこんな「脚本」なんぞ必要ない。
そんなものがなくたって現実に十分対処できるさ。

 人は「脚本」を捨てる、或いは捨てようとする。そして捨てたつもりになる。
ところがこれがそう簡単に煙のごとくは消えてくれない。
脚本はその人の無意識のなかにしっかり留まる。
だって無意識はそうやってできてるんだもん。
「自分のイメージする大人にそぐわないものを捨てる」ってことは、
「無意識に追いやる」ということと同意語なんだもん。
かの偉大なフロイト先生が発見しちゃった如く、人のこころの仕組みって
そういう風にできているだもん。

 …とそれで、人は「脚本」を無意識のなかに持ち続ける。
そのスイッチは何かのきっかけで知らぬ間にオンになる。
作動した脚本は、人をその否定的な結末へと導く。
バーンが「気がつかなければ人は一生を脚本に繰られて送る」と言うのも
強ち大げさではない。

 普段は無意識のなかに埋もれていても、事あるごとに顔を出す「脚本」。
知らぬ間に捕えられたら、始末に悪い。
だって捕らわれていることにすら気づかないんだから。
脚本の筋書き通りに行動し、筋書き通りの結末を迎え、それを繰り返すうち
脚本の補足力はどんどん強くなる。
無意識から取り出そうとしたって、余りにも色々なものが絡み合って姿も見えない。
気づきもせぬまま、もうにっちもさっちもいかなくなる。

 そうならないうちに、無意識から「脚本」を取り出そう。
無意識の中身を点検し、整理して取り出しやすいようにしよう。
イモヅル式にくっついてくる感情の一つ一つもしっかり見よう。
その姿かたちを意識に引き上げよう。
そしたら捕らえられた我と我が身の状況がよく見えるようになる。
そうすれば脱出への道も開かれる。


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