2013年10月05日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「EB」なんてこわくない!

 あっという間にめっきり涼しくなった。
そして今年も残すところ3か月、何となく気忙しさが
忍び寄ってくるようだ。

 そんな中、今月の1日から放大院の放送授業が始まり、
慌ててラジオの録音態勢を整えたのだが、今はインターネット
配信というのがあって、サイトに入ってみたらすべての
科目が全回再生可能であることを発見。
いや〜、世の中便利になったもんだ。

 以前…といっても本当に大昔だけど、放大の学部の
選科生だったことがある。その頃はカセットテープで
録音するしかなく、とりそこねた時はわざわざ学習センター
まで行って視聴するしかなかった。今や録音機器も進化して、
小さなマイクロカード一枚で済むことに驚いてたら、
それすらも必要ないわけで、今更ながら隔世の感著しい
今日この頃なのである。

 さて、そんなわけで昔とは雲泥の差がある学習環境
ながら、学習そのものまで楽になったわけではなく、
授業が地味なところも相変わらず。だが、日本でも
超一流と謳われる講師陣の執筆するテキストと授業は、
内外に高い評価を得ているだけあってなかなかのもの
である。

 斎藤高雅教授の「臨床心理学研究法特論」では、昨今
盛んに奏上される「エビデンス・ベイスド(EB)」に触れ、
「近年、『EBP』『EBM』『EBN』など、『EB』ばやりとも
いえるが」と、それとなく揶揄した書き方をしてあったり、
「しかし、エビデンスとは何か」ということになると、そう
単純ではない。」として、科学的客観的データと、人間知と
しての臨床的データとは必ずしも一致しないのだということを
説いたりしている。そして「EB」研究が言われるのとほゞ時を
同じくして、「NB」即ち「ナラティブ(narrative based)」研究が
言われるようになったことを紹介している。

 「NB」とは、客観的なデータを基盤とする研究のみでは
くみ取れない、クライエントーセラピスト間で体験された
生きた「語り」「意味」を探求するアプローチである。
そうか、やはりそういう声もあるのよね、と意を強くする
思いで読んだ。

 ところで私はと言えば、俄かに「EB」を言い立て始めた
K区の「生活保護受給者意欲喚起事業」で、行政側に
エビデンスを示すための新たなアセスメントシートを作成中。
これが結構難しくて呻吟していたところへ、またまた
東京近郊某市の「生活困窮者・自立支援事業」と名づけた
大がかりな企画書が舞い込んだ。顧問を引き受けている
R社の受注を助けるため、またまたエビデンス思考を駆使する
はめになりそうだ。



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2013年09月28日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「人生の正午」と厄年

 この9月から放大大学院「臨床心理学科」の選科生に
なった。「臨床心理学特論」という分厚いテキストが
届いたので、今せっせと読んでいる。
今日は「ライフサイクル論」を読んだ。

 「ライフサイクル」といえば、すぐ思い浮かぶのは、
エリクソン,E.H.である。
かの「アイデンティティ(自我同一性)」という言葉を
つくった御仁であり、人生を8段階に分けたなかで、
とりわけ「青年期」の危機に重点を置いたことで知られる。

 勿論フロイト,S.もはずせない。
彼は特に「幼児期」に注目した。
誕生からの精神的発達段階を、「口唇期」とか「肛門期」
とか「男根期」とか、性を暗示する名前をつけ、その時期に
未解決の問題があることを「固着」と呼び、その後の性格や
病的症状の生起に関係があるという理論を展開した。

 口唇期性格は甘えん坊で依存的、要求がましく落ち込みや
癇癪を生じやすい、肛門期性格は過度の几帳面、潔癖、頑固、
倹約、吝嗇…なんて、「あら、思い当たるとこあるじゃん」と
一人でにんまり。

 次にフロイトと並ぶ巨匠、ユング,C.G.の名も挙がっている。
何と彼が最も重要視したのは「中年期」。彼はこの時期を
「人生の午後」と呼び、「午前から午後に踏み出すときは、
午前に属するものから脱皮しなければならない」と述べて
いる。西欧文明におけるこの期の人々の示す「嘆かわしい
疑似青年ぶり」に言及、東アフリカの部族に残る「通過儀礼」
の慣習と、その後の人格的成熟に敬意を表しているところは
いかにもユングらしい。

 「人生の午後」に折り返す節目のポイントを、ユングは
「人生の正午」と呼んだ。年齢にすれば35歳〜40歳、自我を確立し、
社会的地位を築き上げた人生の正午に立ち、人は今まで自分が
無視してきた側面気づき、新たな葛藤と苦悩に直面して
中年の危機を迎える。しかしそれを克服していく過程こそ、
彼の言う「個性化」のプロセスだ。「中年期こそ真の自己実現が
なされる時期だ」とユングは言う。

 ユング自身も、それまで30代を共に過ごしたフロイトと
38歳で決別、それから6年間は深刻な心理的危機に陥ったと
いう。苦しみながらも彼はそれを克服して、今日のユング
心理学の楚を築き上げた。これぞまさに彼の「個性化」の
プロセスだったのだろう。

 因みにユングが「人生の正午」とした年齢は、日本の
男女の厄年(女33歳、男42歳)とほゞ一致する。節目の
年齢はどこでも同じってことか。とはいえ正午になっても
一向に折り返せない「疑似青年」も増える一方だ。
ユングが見たら「何たること!」と嘆くかもしれない。



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2013年09月21日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

見えない「証拠」の見せ方

 当NPOが運営顧問を引き受けている
都内某区の「生活保護受給者意欲喚起事業」。
開始からからはや5か月がたち、先日久しぶりに
事業所を訪問。午前中は相談の様子を見たり、
スタッフに話をきいたり。午後からは
ちょうど開催されていたセミナーを見学。
参加者とも話をした。

 自分のの意欲を喚起するのもなかなかなのに、
人の意欲を喚起するのは難しい。まして就業に
つなげていくのは大変だ。民間受託の常として
「見える成果」を求められるのも悩ましい。
「見える」といえば「就業件数」という
千年一日の観念を役所に変えてもらうのは、
どうやら至難の業らしい。

 現場のスタッフさんたちは、増え続ける
来談者の対応にフル回転で頑張っているが、
ここに来て俄かに強調され始めた就業率に
幾何かの困惑と焦りも感じられる。せっかく
根気よく丁寧に進めてきたケースも方向転換を
考えざるを得ない。

 当方の運営指針も方向転換が必要だ。
当初は「意欲喚起」ということで「一人ひとりの
事情に即した目標設定と支援」という方針で
出発したのだが、それではなかなか「見える成果」
は出てこない。成果を見せられなければ、事業
そのものの存続も危ぶまれよう。
さて、どうしたものか。

 最近の心理臨床では「EBM」ということが
盛んに言われるようになっている。
‘Evidence Based Medicine’つまり「証拠に基づく医療」
ということだ。特にアメリカでは、保険金の支払いに
絡んで強調される。「医療を施すならそれが有効だという
証拠を見せろ、じゃなきゃ金は出せない」というわけで
ある。とりわけ成果が目に見えにくい心理臨床の世界で
こうした要求は今後益々強まる傾向にある。

 日本でも社会保障費の支払いが厳しくなるにつれ、
‘evidence’に対する要求は強まるだろう。今般の
生保事業への民間参入促進も、「官」では遂げられぬ
「成果の可視化」を求めてのことだとは、推測に
難くない。一人ひとりの生身の人間に接する現場と
机上で数字だけを眺める役人との溝は、今も昔も
深くて広い。そこをどう埋めるか、大局を俯瞰した
戦略が必要なときである。


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2013年09月14日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

曽野綾子の「違和感」

 かれこれ20年余も前のことになるが、
知る人ぞ知る「アグネス論争」というのがあった。
出産後仕事に復帰した歌手のアグネス・チャンが
子連れで仕事場にやってきて、傍若無人に動き回る
子どもの世話をADにさせて平然としているというので、
かの林真理子女史が、「職業人としての自覚に欠ける」
と週刊誌のコラムでかみついた。中野翠も「大人の
世界に子どもを連れてくるな」と援護射撃。

 「だって、だって…」と涙ぐむ可憐なアグネス。
意地悪な伯母さんたちにいじめられてかわいそう。
それが大方のオジサンたちの見方。世の女性たちの
物言いも所詮芸能界のゴシップレベルに留まってた。
それが突然上野千鶴子御大の介入で一気に働く女性の
子育て問題へとレベルアップ。アグネスが国会に
呼ばれて「働く女性の苦境」を訴えるところまで
エスカレート。マスコミは彼女をこぞって「働くママ
代表」として持ち上げ、林真理子はやがて沈黙。
それもこれも御大が出張ったからこそ。
今も昔もフェミニズムの大御所はお変わりない。

 かくいう私は、「難民の子どもは皆目がきらきら
輝いている」なんて平気で書くアグネスが大嫌いだったし、
フェミニズムを標榜する人たちの持つある種の教条性も
嫌だったから、林真理子に肩入れしてたんだけど、
何せ若かったし、その叩かれっぷりも半端じゃなかった。
今しぶとく生き残っているのはさすがだけれど。しかし、
一方のアグネスも、論争を機に「アイドルから知的タレント」
へと変身を遂げ、世を泳いでいる。こちらもなかなか
したたかである。

 さて、今回世を騒がせている「曽野論争」。
「だって、だって…」と泣く子連れアイドルがいないから
ちょっと様相は違う感じだけど、その代わりに「ウワーッ」
と噛みつくネット諸姉の群れ。これ見てると世界の果てまで
フェミニズムは行き渡ったかと錯覚しそうな勢いだ。

 しかしこんなことで怯む曽野綾子じゃない。
それは、彼女が今まで書いてきた小説やエッセイを読めば
分かる。自慢じゃないけど、私はほゞ網羅してる。
そしてどんなに騒がれようと叩かれようと涼しい顔を
している彼女が目に浮かぶ。その覚悟がなきゃあそこまで
時流に反したことは言わない。

 問題の週刊誌のコラムは、「私の違和感」という
タイトルらしい。曽野綾子は、「制度」や「権利」に
ついて述べたわけではなく、あくまで自分の感覚を
吐露しただけだ。多分それは私が「だって、だって…」
と泣きべそをかいてみせるアグネスに感じた違和感と
同質のものだろうと勝手に思っている。何故なら
私は彼女の物書きとしてのそうした感覚に引かれて
あまたの著書を読んできた愛読者だからである。


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2013年09月07日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

「スーパー」はやっぱりすごい?!

 所用で甲府に行くのに、初めて中央本線の特急に乗った。
午前10時新宿発「スーパーあずさ」である。これがまた、
予想以上の快適な乗り心地。かかる時間も1時間半弱。
これまでは高速バスを使っていたが、30分以上も短い。
但し料金は倍近くだけど。

 以前伊豆方面に行ったとき「スーパービュー踊り子号」に
乗ったのだが、座席の下からウワーンというイヤな感じの
揺れが身体に伝わってきて、連れの女性が酔ってしまい
大変な思いをしたことがあった。だから今回も乗り心地には
余り期待をしていなかった。ただ、土曜日でもあることから、
渋滞を恐れたのと、何はともあれバスよりは楽だろうと
思って特急にしたのである。
それがこんなに乗り心地がいいなんて!

 ちょっと調べてみたら、新宿─松本間を特急「あずさ」が
走ったのが1966年、狩人が「あずさ2号」を歌って大ヒット
したのが1977年、そして「スーパーあずさ」が登場したのが、
1994年ということである。特急「あずさ」には、若い頃に
結構お世話になっているのかもしれない。

 「スーパーあずさ」には、JR東日本初の「制御付き
自然振り子式構造」なるものが採用されているという。
これはカーブの多い中央本線用に開発されたもので、
カーブでもスピードを落とさずに走れるのが特徴なんだ
そうである。な〜るほど!それであんなに滑るように
走れるのね。だてに「スーパー」がついてるわけじゃないんだ。

 新幹線をはじめとして、日本の鉄道技術は世界一と言われる。
どこまで速くなるのかと思われるくらい、特急列車の進歩は
著しい。「踊り子号」にも「制御付きナントカ構造」が
採用されれば、あの変な揺れも改善されるかもしれない。
もう少し料金が安くなればとも思うが、年をとるにつれ
スピードはともかく、身体への負担は金で買っても減らしたい。
帰途は時刻が合わずに「スーパーあずさ」には乗れず、
ただの「あずさ」になってしまったが、料金は同じなので
次の機会には往復ともに是非「スーパー」つきを利用したい。


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2013年08月31日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

広がれ!サポートの輪

  昨日は猛暑のなかを朝から歩き回った。
知り合いのデザイナーMさんと一緒に、幡ヶ谷と
高田の馬場にある作業所を2軒訪問したのである。

 Mさんから、彼女が制作するオリジナルバッグの
材料となるTシャツ糸をつくってくれるところを
探してほしいとの依頼を受けたのは、まだ夏の初めの
頃だった。彼女とはそれまでに1回しか会ったことが
ないのだが、迸る泉のような才気を感じさせる
魅力的な若い女性だった。

 私は、何よりも「やろうと思う」と「やる」の間に
立ちはだかる高く分厚い障壁を、軽々と飛び越えていく
人が好きである。そしてそれが「軽々と」と見えても、
全くそうではないことも知っている。だから彼女から
頼まれたとき、力になりたいと思ったのである。

 彼女は古着のTシャツを細く切り裂いて繋ぎ、糸の
ようにして編んだバッグをつくろうとしていた。だが
その糸を安定してつくってくれるところが見つからずに
困っていた。私は知っている作業所に声をかけてみる
ことを約束し、実行した。具体的にするまでには
2か月近くを要したが、何人かの方々の協力を得て
その約束を果たすことができた。

 幡ヶ谷の作業所に辿り着いたのは、渋谷区内の
作業所連絡会で就労部会の委員長をしておられる
ワークセンターひかわのN所長の尽力のお陰である。
私が持ち込んだ仕様書に実際的な注意点を付け加えて
区内の所属作業所にメールで回してくださった。
そこで手を挙げてくれたのが、優れた手工芸品を
多く作っているM工房である。昨日Mさんと訪ね、
快諾して頂いた。

 もう一か所の高田の馬場にある発達障害者作業所
Nカフェを紹介してくれたのは、会員のKカウンセラー
である。こちらの方も良い返事が得られ、Mさんの
バッグは増産が見込めることになった。作業所の方も
将来Mさんのバッグで安定した仕事を獲得できる
かもしれない。そうなればわざわざ同行してくれた
Kカウンセラーともども、猛暑のなかを歩いた甲斐も
あったというものだ。

 そういえば、Mさんを紹介してくれたのは、
このブログにもたびたび登場する介護センター
「ラベンダーの丘」のT社長である。彼もまた
「やろうと思う」と「やる」の間を「軽々と」
飛び越えていく人である。T社長には私も長年
サポートをして頂いている。「サポートの輪」は
こうして広がっていくのである。


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2013年08月24日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

空と海とゴミバケツ

 先日夫が通販でクール素材の敷きパッド&枕カバーの
セットを購入。私の分も買ったとかで1セットを貰い、
早速使用してみる。メッシュ編みでしゃりしゃりしていて
確かに涼感がある。色が青いのがちょっと気になったけど、
夏だけのことだし、私が金払ったわけじゃないし、ま、
いいかとそこはあっさり妥協した。

 そんな折、たまたま翌日の日経夕刊「プロムナード」に
国文学者の田中貴子氏がこの寝具のことを書いていたのだ。
氏もまた使い心地のよいこの敷きパッドと枕カバーを愛用
しているとのことだが、「問題点が一つある。」という。
それは…「みな一様に青色をしている」ことである。

 「夜に朝に敷きパッドを見るたび、ゴミバケツの中に
寝ているような気分に陥る」からである。あゝ、分かる
その気持ち! 

 氏によると、青色がゴミバケツに広く使われるように
なったのは、1964年の東京オリンピック開催あたりかららしい。
そういえば、私が子どもの頃は、木製の黒のゴミ箱がデンと
家の前に置いてあった。町の美化のために「清潔」を
イメージする青色が採用されたというけれど、
「ゴミ→清潔→青色」って、いかにも短絡的でセンス皆無。
お陰である種の「青色」には何とも言えぬ不快なイメージが
つきまとう。

 日本には古くから伝わる藍染があって、情趣豊かな
様々な「青色」を生み出してきた。「それが青色と涼しさを
結びつけるもう一つの要因になっているのではないか」と
氏はそのエッセイの後半で分析しているが、「でも、やはり
私は白い敷きパッドがどうしても欲しい!」と結んでいる。

 昔読んだ曾野綾子氏の小説に、主人公が思いを寄せる女性が
水族館の裏手で大きな青いポリバケツを抱えて働いているのを見て、
「何だってポリバケツは揃いも揃ってこんな青色をしているんだ。
それは言いようもなく不快で嫌な色だ。君はこんなひどい色の
ものを抱えちゃいけない」という思いに駆られる場面があって、
その時も「あゝ、分かる、その気持ち!」って思った。

 敷きパッドの他にこの青色を目にしてウエ〜ッとのけぞった
比較的最近の記憶がある。老いに鞭打った我が努力の賜物
社会福祉士の合格証がまさにこの色のケースに入れられて
いたのだ。封を開けるまでは、来し方の苦労を偲びつゝ
つらつら眺めて感慨に耽ろうと思っていたのだが、ひと目
見た途端に速攻で戸棚の奥深くにしまいこんだ。
ゴミバケツに金の麗々しい彫り文字。
一時たりとも見ちゃいられない悪趣味の権化みたいな代物だった。

 それに比べりゃ敷きパッドは、その上に寝てしまえば
目には入らず、起きたらさっさと肌がけで隠せばいい。
寝るときは暗くしてから肌がけを剥げば色は分からない。
何たって夫からのもらい物では捨てるわけにもいかないし。
とはいえ、身の回りから「ゴミバケツ色」を一掃したいと
いう気持ち。寝るたびに益々強まっていくような気がする。

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