と書きました。この言葉、結構あちこちで耳にします。
障害者自身からも、その支援に関わる周囲の人たちからも。
「障害」を「欠損」ととらえずに「個性」と捉えることは、
偏見や差別を排することとつながるし、障害者自身の
エンパワーメントにもなります。こういう捉え方ができる
ようになったことは、時代の成熟とも言えるでしょう。
しかし、この言葉については、批判もあります。
例えば、小浜逸郎氏は、その著書「『弱者』とはだれか」
(PHP新書)で次のように述べています。
「最近『障害は個性だ』などと言う言い方がよくなされる。
このスローガンも、戦後民主主義の甘さと欺瞞にもとづいた
扇情的な性格をよくあらわしている。 この場合の『個性』という
言葉の使い方には、その人のすぐれた持ち味とか美点とか
いったニュアンスがことさらこめられている。」
「しかし『障害』は勝ち取られた特性でもなければ、持って
生まれた美点でもないから、そういう意味では『個性』などとは
言えない。障害はあくまで『障害』である。つまり、それ自体は、
生きていく上で不利な条件と見なすほかないものである。」
「それを過剰に重苦しく考えていても生き抜く力は生まれて
こないが、逆に、ことさらポジティヴなものと見なそうとしても、
不自然さが際立つだけで、本人の不遇感や周囲とのバリアー
がたやすく払拭されるわけではない。」
「それどころか、この種の言い回しは、障害者に向き合う
一般の人々の心理に屈折した抑圧感や遠慮の感覚を与え、
かえってバリアーを高くする作用のほうが大きい。別に差別
など持たないごく健全な感覚として、こんな言い方に納得
できるはずがないからだ。」
引用が長くなってしまいましたが、これを読んだときは、
私にも「確かにそうだな」と思うところがありました。
もうかれこれ10年くらい前のことです。しかしその後
沢山の障害者に接するうち、「障害は個性」という実感
は、私の中で段々に強くなっていきました。
一つには、私が「個性」という言葉を、小浜氏の言うような
「その人のすぐれた持ち味とか美点」というふうには捉えて
いないということがあります。「個性」とは、ときにまことに
手に負えない厄介なものだと思っているからです。
我が敬愛する岸田秀氏は、「教育とは個性を矯正する
ために行うものだ」とおっしゃってました。だから一時
文科省がしきりに唱えていた「個性を豊かにする教育」
なんていうのは、土台矛盾に満ちた無理なお題目だと
喝破してました。
それによく企業のトップなんかが、「個性のある人材が
欲しい」なんてことを言ってるのを聞いたりすると、「ウソだろ!」
って思っちゃいますね。本当に「個性のある人材」が「企業」
のような枠の中に納まっているはずがありませんから。
そんな人材が入ってきたら、結局は持て余して排除する
ことになるのがおちです。そういう例も随分見てきました。
というわけで、昨今の「個性」という言葉の使い方が、
小浜氏の言う如く、「戦後民主主義の甘さと欺瞞に
もとづいた扇情的な性格」を帯びている面もあったわけで、
そういう感覚に反発して書かれた氏の主張が、否定
しきれない内容であったことも事実です。
それでも私があえて「障害は個性だ」と書いたのは、
前述したように、「個性」というものが、集団や社会に
適応するためには、否応なく矯められていくべきもの
だと捉えているからです。懸命にトレーニングをして
自身の障害を越えようとすることは、まさにこの
「個性を矯める」プロセスと重なります。
そこに苦しみや葛藤が生まれるのです。
人生の過程で、この「個性を矯める」作業がスムーズに
いかずに「生きずらさ」を抱えている人たちは沢山います。
私も、そしてサポートグループの面々もその傾向が強い
人たちです。最終的には、「障害」も「個性」も、越えきれず、
また矯めきれぬものをどう自身が受け入れていくかという
課題に集約していきます。
私たちが今行っている ピアサポート的な色合いを持つ
サポートグループが、場としての効力を発揮するのは、
そうした課題を皆が追求しているからだと思います。
究極的には「ありのままの自分を受け入れる」、この
易しげな難題に取り組み、障害者もそうでない人も
その道を模索している最中です。
そう、まさに「障害は個性」なのです。
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