箱根路の小さな峠でかつて見たこともない見事な富士山に出会った。
まるですぐそこにあるかのように近く、頂上から3分の2あたりまで
雪で化粧を施した優雅な姿を惜しみなく晒して私の眼前に悠々と
聳え立っていた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、空気は澄み切って
いた。眼下には遠く房総の海が臨めるパノラマが、富士をひときわ
引き立たせて広がっていた。
その時の感動が忘れられず、その後何回も峠を訪れているのだが、
一度としてあの日のような富士を見ることはできなかった。
靄のなかにボンヤリと見えるだけだったり、厚い雲に半分近くを
覆われていたり、濃霧に包まれてチラとも姿を現さぬこともあった。
その度に私は落胆し、そして「今度こそは」と勇んで出かけて行く
のだが、いつも期待は裏切られた。
勿論それ以前も富士を臨んだ事は幾たびとなくある。
湖を渡る遊覧船から、東海道線の車窓から、湘南の海辺から、
或いは都心の高層ビルのレストランの窓からも。
その度に何故だか心が躍って晴れやかな気分になった。
私にとって、そして恐らく多くの人々にとっても、富士は
そうした魅力を湛えた唯一の山だ。
しかしあの日から私の富士はあの富士だけになった。
他の所からは決して見られぬ富士。
低地から仰ぎ見るのでもなく、遠くから眺めるのでもない、
圧倒的な存在感をもって眼前に対峙する富士。
あれこそがまさしく富士であった。
そしてこの週末、総勢6名でまた富士に会いに出かけた。
今回はあの日と季節も同じ初冬の昼前、宿を出発するときの空は
快晴だった。否が応でも期待は膨らむ。
「どこかを回って行きましょうか?」という運転手さんの申し出も
断ってあの峠にまっしぐらに向かってもらった。
しかし…車を降り立った私の目に度込んできたのは、頂上を隠して
広がる大きな雲の塊だった。あいにく風はそよとも吹かず、
その雲はまるで性悪な娼婦のように私と富士の間に居座っていた。
落胆を隠せない私たちに、何とか雲のない
富士を見せようと、 頑張って御殿場の富士の
裾野にある自衛隊の演習場まで車を走らせてくれた
運転手さんのおかげで、今回はもう一つの素晴らしい
富士に出会えた。戦に備えた演習をするための
だだっ広い荒野から見上げる富士は、雲を払って
勇壮にそそり立ち、人間たちの愚かな行為をただ
淡々と睥睨しているかのようであった。
思えば富士はこれまで一度として同じ姿を見せたことがない。
もうはるか昔になるが、エンカウンターグループに参加した
山中湖半の合宿所では、部屋の窓から富士がくっきりと眺望できた。
何時間も同じ場所に座ったままその姿を眺めていると、
雲の動きや光の強弱、色などが絶え間なく変化するにつれて、
一刻一刻に富士はその姿を変えていくのであった。
一瞬前の富士は次の瞬間にはもう消えて、また新たな富士が
現れるのである。僅か1日にしてそうなら、10年も前の
富士と同じ姿に出会えるわけはないのだ。
まことに富士は一期一会である。
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