どうも馴染みがないというのか、馴染めない。
確かに自分には、友達が少ない。 いや、いないに等しい。
かと言って、いないからどうのということはない。
まがいなりにもそういう「友達」がいても、
自分は「友人」と呼ぶ。
別に「友達」という存在や、言葉に罪はない。
使いまわしとかトモダチという言葉の響きに、
どうも表面的なイメージや軽さがあってならない。
表面的に感じるのは、 自分の経験から感じたことなんだろうし、
経験による、友達という言葉の呪縛からの逃避なんだろう。
それだけに、友達というのに敏感だ。
じゃあ友人はいるのか。
そう考えてみても、友達同様少ないように思う。
それは、なにを持って友人と呼ぶのか、わからないからだ。
仮に共通の話題をもっていたり、 飲みに行く相手というのは、
友人なのか。。
例えば、CSN。 ここでも友人はいない。
メンバーは同志、もしくは仲間という感じだ。
メンバーを特別視しているわけではない。
でも、友人でもない。
人と交流する上での話題は、それなりにある。
鉄道関係、昔のアイドル、洋服、化粧品、、
でもそれを人と話すのは、そういう媒体と交流しているだけで、
その人そのものと話しているわけではない。
その相手を「友人」とするのかどうか。
もしその人そのものと交流するのなら、
それはその人との交流なんだと。
だから、友人ではないような感じがする。
きっと、不器用なのかもしれない。
何かの準拠枠なのかもしれない。
であるがゆえに、ストレートな感情の交錯を、
どこか「人との交流」と思ってしまう。
こだわりでもなんでもない、それが自分のスタイルなんだろう。
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