数日前に送られてきた本を興味深く読みました。石川さんは現在横浜市立大学の講師をしておられますが、大学院時代からずっと「ひきこもり」というテーマを追っていらして、メールによると、この本も今年3月に提出された博士論文に手を加えたものだそうです。メールには「“当事者”にとって『ひきこもり』とは一体いかなる経験なのか、そこから回復するとはどういうことなのか、なぜ彼/女らは社会参加できない(しない)のか、という素朴ではあるけれども根本的な問いに真正面から取り組みました。また、近年『働いて稼げるようになること』が回復目標として強調される傾向にありますが、就労や経済的自立の達成、あるいは対人関係の獲得を回復とすることの問題点を指摘しました。」とあり、渾身の著作であることが偲ばれます。
昨晩から今日にかけて一気に読んでしまったのですが、確かにメールの文面に違わず読み応えがありましたね。著者自身が自助グループに参加したり、新たなグループの立ち上げに関わったりするなかで、多くの生の声を聞き取りながら問題の本質に迫っていくという過程が踏まれています。そして「何が真の回復になり得るのか」を掘り下げ、著者独自の見解を提唱しています。
著者はまた、論旨を展開する過程で、ひきこもりの支援活動に携わる機関や人々にも言及しています。自助グループが主体となったコミュニティー活動は、問題が顕在化してくるにつれて活発になるのですが、その目標は「対人関係の獲得」ということにありました。それが急激に「就労」に傾くのは、2003年に「ヤングジョブスポットよこはま」が設立されてからだと指摘しています。私も当施設からの依頼で講演やグループワークを行ったのですが、確かにその運営には「ひきこもり」の関連団体が深く関わっていたことを思い出しました。著者も“当事者”たちがいかに「働かなければいけない」という強い思いにとらわれているかを、数々のインタヴューから引き出しています。
活動家でこの立場を明確にしているのは、長年こうした活動に携わり、昨今の厚労省肝入りの事業である「ニート・ひきこもり支援塾」を受託していることでも知られる某NPOの代表者、工藤定次氏です。著者も触れていますが、彼は「内面的な葛藤はひきこもりならずとも誰にでもある」として、「経済的な自立」こそが本人たちの強く望むところであり、それ以外に問題解決はない、としている点で、著者ならず私にも「???」があります。翻って著者は、「ひきこもり治療論」を展開するメジャーな精神科医斎藤環氏にも触れています。氏は「ひきこもり」を「対人関係の欠如」と定義づけていますが、それだとコミュニティー活動などである一定の成果をあげ、「外にも出るし、友達もいるし、人間関係もある」という状態は、もはや「ひきこもり」とは呼べない、ということになり、それはようやく手に入れた「自己を語るための語彙」を喪失することに他ならず、「それでは果たして自分は何ものなのか」という不安のなかに放り出され、一時は気が楽になっても再びきつくなるという状況がある、と著者は述べています。
“当事者”の代表格として度々引用されているのは、上山和樹氏の手記です。彼については、私も「ビッグイシュー」誌に斎藤環氏との往復書簡が連載されているのを読んで、注目していました。氏は「ひきこもり」を“甘え”とみなす人々の批判対して、「自分は苦しくても頑張って働いているのだ」という主張との表裏一体性を指摘しています。「ひきこもり」とは根本的に、例えば「働かなければならない、しかし働きたくない」というような価値観の葛藤を伴うものであり、自身を動けなくするほどのその葛藤の強さは、ひきこもっていない人には理解できない、という氏の主張を受けて、著者は「どうすれば納得いく形で生きていけるのかを考え抜く作業を伴わない就労支援は、当事者にとって有意義なものとはなりえない」と述べています。
一般的な「回復」のイメージに疑念を唱える著者は、それでは終局的に何をもって「ゴール」とみなしているのでしょうか。多くの聞き取り調査からの実感として、著者は彼ら“当事者”のうちに「生きていくのか、それとも死ぬのか」というぎりぎりの問いが生起していることに着目します。「自分は何のために生きているんだろう」と問い、そしてそれが35年もかかって「ただ生きて、ただ死ぬのだということに尽きる」と気づいたとき、自然に吹っ切れたというある男性の例などを引き、そこにアンソニー・ギデンスが「実存的問題」と呼んだものがあることを提起します。「何故生きるのか、どう生きるのか」という「実存的な問い」に、「無意識や実践的レベルで『答え』をもっていること」が「存在論的に安心である」ということであり、それは言い換えれば「そんなことを日々強く意識せずに生きられる」ということです。日常的には全く意識せずに済んでいることを意識せずにはいられない、ということが、「存在論的に不安」だということなのです。
このようなことから、著者は「ひきこもり」からの< 回復目標>を、「存在論的安心の確保」だと述べています。それは引いては「日々のルーティーン」を立て直すことにもつながるのです。“当事者”を襲う「実存的疑問」は著しく日々のルーティーンを損なうからです。そして前記の男性が気づいたように、「生きる」とは、まさにそのルーティーンそのものだからです。しかし著者は、ひきこもりの元祖学者玄田有史氏が提唱するような、「実存的疑問」を一時棚上げにしてルーティーンの建て直しを図る、という方法の有効性を一部認めながらも、真正面から「実存的疑問」に取り組むアプローチがもっと尊重されるべきではないだろうか、と主張しています。これは、カウンセリングや「交流分析(TA)ワーク」などを通して、「自己受容感の獲得」を目標にしている私のアプローチとも重なるように思います。
先日読んだ日経出版の「格差論争」では、団塊世代かあるいはそれ以上と思われるおじさんたちが、「ひきこもりやニートなんぞは、恵まれているからできるだけなのに、今はマスコミに騒がれて金になるから支援のなんのという連中が出てくるんだ」みたいなことを話していました。そこまでひどくはなくても「彼らが就労できる仕組みや社会をつくることが必要」という論調が専らでした。今の行政や支援機関はこの世代が中心となっていますし、親たちもそうです。そしてかくいう私もその一人です。この世代の女性たちは、「経済的自立こそ女の自立」というフェミニズムを戦ってきています。「ひきこもる若者の苦しみ」を話しても、彼女たちの反応は概ね冷やかです。“当事者”の母親たちでさえ、「何で働かないの?!」という言葉を胸に溜め込んでいることが多いのです。「働かなければ一人前じゃない」という価値観を至上とする私たちの世代に、著者のような若い世代が「もっと理解を!」と真摯に叫びながら切り込んでいく姿勢に心からエールを贈ります。
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