多分新郎新婦の友人たちなんでしょうが、かなり長い時間を費やして妙に熱っぽい雰囲気でした。こういう場で交際のきっかけをつかむというのもよくある話だし、結婚式というのは、未婚の男女の結婚願望を否が応でも駆り立てるようにできているので、きっとみんなそういう心理に支配されているんだろうな、などと勝手に想像してしまいました。
とはいえ、かくいう私は一度も友人の結婚式に出席したことがありません。考えてみれば、十余年に渡る長い学生生活であったにもかかわらず、結婚式に呼んでもらえるような親しい友人が一人もできなかったのですね。まぁ、卒業後しばらく実家に寄り付かない時期があって、音信不通だったから、呼ぼうにも呼べなかったということもあるでしょうが、結婚式に呼びたいようなタマではなかったという方が確かなところでしょうね。
結婚式に呼びたくなるようなタマとは、素直に自分の結婚に羨望の眼差しを送ってくれる性格の友人に限ります。「ウワー、××子、きれい〜!!」と嘘でも歓声をあげ、「ステキなだんな様ねえ、羨ましいワ〜ン」と大げさな賞賛を浴びせることが苦もなくできる、世の中にとても適応的な人であることが求められます。
それなのに当時の私はといえば、「あら、馬子にも衣装ね」と平気で口にしかねず、「あんなありきたりな男と結婚?××子もヤキが回ったねえ」くらいは言い放つ、全く性格ワルーい女でしたから、普段は「かなりんは自由で羨ましいわ〜」なんて言ってお茶くらいは一緒に飲んでたトモダチも、大事な結婚式にあんな奴は呼びたくないと思っていたのでしょう。
思い出してみれば、結婚式に限らず、学生時代の友達と卒業後もつき合うなんてことは全くと言っていいほどなかったですね。かの上野千鶴子大先生が何かの著書のなかで、「人間はどんどん変わっていくものなのに、若い半端な自分が半ば偶然につき合った友達とその後もずっとつき合い続けるなんていう人の気がしれない」と書いておられましたが、些か過激なご発言ながら、私も結構同感なんですね。
学生時代の私は、一人でいる方が集団でつるむよりずっと快適だと感じていました。映画を見るのも芝居を見るのも一人。休講になって読書新聞片手に駆けつけた新宿のアートシアターで、これもやはり一人で見に来ていた友人にばったりなんてこともありましたっけ。夜中のジャズ喫茶には、一人夜を過ごす若者たちがたむろしていて、お互いに口も聞かずに一人の世界を楽しんでいました。昼間はデモでつるんでも、夜は専ら一人で過ごす、これがその当時の私の生活パターンでした。
しかし、そんな青春が一般的だったというわけでもありません。同級生のなかには、結婚式に友達どころか先生まで呼んだ人もいたらしい。今でも付き合いを続けているクラスメートも多いみたいで、「ナントカさんの娘の結婚式に呼ばれた」なんて話さえあるほど。何年か前にたった一度だけ出席した同窓会で聞いて、「ウヒャー」という感じでした。
思えば「結婚式」というのは、「お葬式」と並んで、社会生活のなかで最も通念化したセレモニーと言えますね。着るものや作法も骨子が決まっていて、大幅にはみ出ることは許されない。どれだけ社会というものに無批判に適応しているかのリトマス試験紙のようなものです。だからこそむやみに反発を募らせた若い日を経て、今では「ほどほどの適応」という技を身につけました。これぞ「老練」というものですね。ですからCSNのメンバーで結婚する人は是非式に呼んでください…といっても当分いそうもないですね。残念!
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