彼女はブログに「反省するのはサルでもできる」と言われた、と書いていて、それだけ読むと、「このスーパーバイザーは何と嫌味なことを言う奴だ」と思われた向きもあるかもしれませんので、もう少しその文脈が分かるように補足しておきます。
A子さんのレポートには、カウンセラーの聞き方や態度が未熟であったことの反省が随所に書かれています。曰く「質問ばかりしている」、「クライアントのペースに添っていない」、「カウンセリングの方向性を定め切れていない」などなど。確かにその傾向は顕著で、それに気づくこと自体は決して悪いことではありません。高瀬講師が指摘したのは、気づいたその後にどうするのか、ということなんですね。
「反省するのはサルでもできる」という言葉の後に、講師は「反省というのは、往々にして、そこで思考をストップさせてしまう装置になりがちなんだ」と続けています。即ち「だめなところを何とかしよう」ということに気をとられ、何とかしようと思えば思うほど何ともならない、というパラドックスに陥りやすいのだ、と。そしてそれは、「あゝ、うまくできない自分はダメだ」という自己否定につながっていくのだと。
大切なのは「自己受容」だ、と彼は強調しました。「どうしても質問をしてしまう自分」、「沈黙に堪えられない自分」、「うまくやらなくちゃ、と焦る自分」、そういう自分を、「どうしてそうなってしまうのか」と考え、自己理解を深めるとともに、「まぁ余りうまくできなくても仕方ないか」と認めていく。不完全でダメな自分をありのまま受け入れ、「それでもいい」と思えることが、引いては目の前のクライアントが自身に対して抱いている否定感を和らげていくことにつながるのだ、と。
交流分析の用語では、「自他に対するOK感」ということになるのですが、講師は「そうなんだけど、いかにもアメリカ的でしっくりこないんだよね」と言いつつ、「愛しい」という言葉を提示しました。「かなしい」と読めた人はかなりの日本語通ですね。
ダメなところのある不完全な人間同士が、だからこそお互いに思いをかけ合う、その気持ちのありようが「愛しい」という一言には籠められています。日本語独特の感性を持つ言葉ですね。確かにアメリカ渡来の交流分析にはないニュアンスがあります。
心理学だけではなく、仏教や民俗学にも造詣が深い講師の授業は、受講生たちにとってとても新鮮だったようです。当分安ギャラには目をつぶってもらって、またちょくちょく来てもらおうと目論んでいるところです。
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