「感情にホンモノもニセモノもあるかい!」と思われる方も多いでしょうが、これがあるんですね。まぁ、あくまでもTA(交流分析)的に言えば、の話ですが。TAでは「『本物の感情』というのは4つしかない」と断言しています。即ち「おびえ」「怒り」「悲しみ」「喜び」の4つです。それ以外は全て「ラケット感情」と呼ばれています。「ラケット」というのはテニスに使うあれではなくて、マフィアの俗語で「いかさま」とか「いんちき」とかいった意味なのだそうです。日本語に訳せば「いかさま感情」ということになるでしょうか。
何が「いかさま」かというと、どんな感情でもそれを感じるときはその人にとってはとてもリアルに感じられるのだけれど、よくよく分析してみれば「本物の感情」のすりかえにすぎない、ということなのですね。バクチなんかで本物のフダと偽物とをすりかえてさも本当らしく見せるというのを映画なんかでよく見ますが、それと同じことをを知らないうちに自分の中でやっているということなんですね。
例えばA子さんが挙げていた「寂しさ」ですが、これはかなり曲者のフダなんですね。この感情に支配されるとまるでシンデレラのおとぎ話みたいにかぼちゃが立派な馬車に見え、ねずみがすてきな白馬に見えたりしちゃうのです。「寂しさからついふらふらと」なんていうのはよくあることですが、A子さんも書いているようにそこで起こした行動が「寂しさを解消する」などということはまずありません。ますます寂しさが募る結果になることが殆どです。シンデレラはおとぎ話の中にしか存在しません。
この「寂しさ」の奥に隠されている「本物の感情」は多分「悲しみ」です。「悲しみ」は過去の出来事を自分の内で消化するのに有効な感情です。悲しいことに出会ったとき心ゆくまで悲しむことはとても大切なことなのですね。幼いときにこの感情を出すことを禁止されると(みっともないとかはしたないとかいう理由で)、それができなくなってしまうのですね。そこで「寂しさ」とか「空しさ」とかにすりかえて表面を繕うわけです。
「寂しさ」の陰にはもしかしたら「怒り」もあるかもしれません。「怒り」は一番禁止されやすい感情です。それは「率直に感じたことを伝える」ということが、ともすると煙たがられたり嫌がられたりするからです。子どもの時に言いたかったことって、「どうして私を無条件に愛してくれないの?!」ということに集約されるんですね。でもそれをそのまま伝えることができた人は数少ないでしょう。殆どの子どもは幼くして「親の望むようにしなければ愛されない」ということを本能的に悟るのですね。それは「怒り」を感じる事態ではあるのだけれど、その「怒り」をそのままぶつければますます愛されなくなる。だから子どもはそれをしまいこむことになるのです。
大人になってみれば「無条件に人を愛する」などということは、親といえども生身の人間にそうできることではないと分かる筈なのですが、幼いときのラケット感情というのは厄介な代物で、その後もなかなか消滅せずに長く尾を引き、様々な場面で顔を出します。そのたびに隠された「怒り」は、「悲しみ」や「寂しさ」にすりかえられるのですが、たまってくると大きな「怒り」となって見当違いなところで爆発したりします。この場合の「悲しみ」や「怒り」はラケットです。本当の「怒り」は現実の問題を解決するために有効な感情です。まさに「今・ここ」で伝えるべき相手に率直に自分の「怒り」を伝えることが必要なのです。しかしそれには自己や他者に対する深い信頼感が必要です。「怒りを伝える」というのはだからこそ難しいのですね。
「おびえ」というのは未来の問題を解決するのに有効な感情だと言われています。「暗闇で何者かの足音が追ってくる」とか、「山道で獣の気配がする」とかそういうときは「おびえ」を感じなければ「逃げる」とか「武器を構える」とかいった行動に結びつきませんね。しかしこの「おびえ」も「不安」にすりかえられると、はっきりとした原因もないのに絶えず何かにおびえているような感じになってしまうのですね。
「喜び」というのは、「過去、現在、未来を通して人を幸福にするのに役立つ」と言われます。日常の些細なことにでもこの「喜び」を感じられることは、この上なく幸せなことだと言っていいかもしれません。
しかし、私たちが日々感じる感情はそれこそ数え切れないほどあるのに、「本物の感情は4つしかない」などと言われると、「え〜っ!?」って感じになりますよね。でも本当に自分がOKだと感じられるときはラケット感情は出てきません。ここに挙げた4つの感情以外の感情にとらわれたときは、「脚本に入りかけている」と意識してください。そのためにもA子さんのように「ラケット感情に気づく」ということは大事なことだと思います。
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