陰ながら応援したフランスは、思わぬハプニングで優勝を逃した。
あろうことかジダンの頭突き。
一発レッドカード退場のシーンにTVのこちら側の私もただ唖然。
「おゝ、ブルータスお前もか!」という何とも言えない気持ちになった。
TA(交流分析)理論には、「脚本」というユニークな概念がある。
人は誰でも幼い頃に、その頃の体験と感情を基に自らの人生を決断する。
例えば「ボクはだめな子だ。ボクがやることはうまくいくはずがない」というように。
そのストーリーは成長するに従って強化される。
その信条は直感的で不合理なものであるにもかかわらず、
強い感情に支配されているのでなかなか修正されない。
大人になって合理的な判断や理性的行動ができるようになっても、
人はしばしばこの「脚本」に引き戻される。
特に強いストレスがかかったときなど、ふいに子ども時代に感じた激しい感情に襲われ、
破壊的な行動をとってしまうことがある。
「脚本」の基盤には例外なく「NOT OK」の自分がいる。
今この「脚本」と悪戦苦闘しているのがOLA子さんである。
彼女の強い感情は多分「無力感」である。
「私はだめ。わたしには何もできない」という脚本を持っている。
似たような「脚本」は男Nにもあった。あえて「あった」と過去形にしたけれど、
ここまで来るには「脚本」との長い苦闘の軌跡があり、
そしてまだまだそこに引き戻される危険がゼロになったわけではない。
A子さんはTAを学び、自分の「脚本」と意識的に取り組んでいこうとしている。
昨日の彼女のブログにもあるように、苦しみながらも少しずつ前進していると言えるだろう。
この先まだまだ「脚本」は彼女を引き戻そうとするだろうが、
ともかくも自分の「脚本」の存在と様相に気づいたことで脱却の可能性は大きく開かれたと思う。
ジダンにはアルジェリアの移民としての恵まれぬ子ども時代があったという。
華やかなスター選手になってからも、激情的な面がときどき顔を覗かせてもいたらしい。
今回は「W杯の決勝戦」という大舞台でそれが出てしまった。
それも「引退を飾るこの上ない花道」を自らの力で勝ち取ったというのに…である。
「何もかも水泡に帰す」というのは、「脚本」の結末としてはよく見られるものだ。
成功が大きければ大きいほど、もう少しで手に入れられるものが素晴らしければ
素晴らしいものであるほど、無意識のうちにそれを台無しにしてしまおうとする力もまた
大きく働いてしまう。
誠に「脚本」というのは手強く厄介なものなのだ。
バーンは、「『脚本』は全て無意識のなかにあり、気づかなければ一生をそれと知らずに
支配されてしまう」と恐ろしいことを言っているが、確かに報道される様々な犯罪や事件から、
身のまわりに起きるちょっとした出来事まで、否応なく「脚本」の影響を感じることは多い。
ジダン選手は、引退してもまだまだこれから長い人生を送らねばならない。
自らの「脚本」への気づきと脱却を祈らずにはいられない。