懲役20年の一審判決が出たことを報じていました。
私と同世代の彼女は、判決後支援者にガッツポーズで
応えたと言います。法廷で書きとめたという和歌
「判決は おわりにあらずはじまりと まつろわぬ意志
ふつふつとわく」も披露されていました。
私がとっている日経の見出しは、「武装闘争 妄想の果て」。
確かに今このときに聞けば「妄想」であるような「武力革命」は、
しかしながら50年代まで日本共産党が標榜し続けた命題でも
ありました。朝鮮戦争を背景にした苛烈なレッドパージと有名な
「血のメーデー」を経て、55年のあの「六全協」の大方向転換に
至るまで、地下に潜る学生たちは、高校生も含めて後を絶たなかった
と言います。党の突然の方向転換で非常なショックを受けた学生たちが
混乱し虚無的になるなかで、まとまりを欠いたまま幾つかのセクトが
尖鋭化を極めていくという事態が引き起こされていきました。
60年の安保を経て一層の虚無的雰囲気が拡大するなか、重信被告も
私も20才を迎えたのです。
60年代の左翼学生にとって、重信被告は非常に魅力的でカリスマ的な
存在でした。彼女がパレスチナ解放戦線に身を投じ、武力闘争の中心を
担っていった頃、彼女の父親の「私は娘を誇りに思います」という発言を
新聞が報じていて、ひどく感銘を受けたことを覚えています。
その頃の私は、社会や世間に対する敵意と怒り、そして深い虚無感が
ないまぜになったようなわけのわからない感情をもてあましつつ、
あちこちのデモに出かけては一層空しさを募らせるといった日々を
送っていました。重信被告は私にとって遠い星のような存在であり、
また自らの内に渦巻く激しい感情を投影する対象でもありました。
あれから40年の年月を経て、今こうして彼女の名を目にしたとき、
はからずも私の身内にあのときの暗い怒りのような混沌とした感情が
湧き起こるのを感じました。そして何十年もの長い間そうした感情が
じっと私の中にあり続けたのだということに改めて気づかされ、
そのことにひどく切ない愛おしい思いを抱いたのです。
それはよく言う「青春への慕情」であるのかもしれません。
しかし、重信被告の「妄想の果て」に下された判決は、まさに私の
「青春」に下された判決のようでもあります。
胸の中で密かに彼女とガッツポーズを重ね、この苦い杯を飲み干したい
私です。