それにしても「時代の寵児」ともてはやされていた堀江氏がこういうことになった裏には、もっと陰湿で根強い「嫉妬」の感情が潜んでいるような気もします。謀りごとではやはり百戦錬磨のおじさんたちの方がウワテでしょうし。「生意気な若造に一泡ふかせておとなしくさせておかないとやりにくい」おじさんたちも多いんじゃないでしょうか。
それに、もてはやして木の上に登らせておいてパッとはしごをはずすのはマスコミの常套手段ですからね。マスコミが好んでそういうことをするのは、私たち大衆がそれを望んでいるからだとも言えます。「羨ましい」と「妬ましい」は紙一重。現代は「嫉妬の時代」だと我が敬愛する岸田秀先生も言っておられます。何事においても突出した才能を嫌うこの国の文化は、私たち一人一人の心に深く根づいているのかもしれません。こういう現代の気分もうまく利用されている感じがしますね。
「金」と「権力」は私にまったくご縁がない代表選手のようなものです。まぁ、かといって「何がなくても愛があれば・・・」というほどナイーブでもない。こんなかなりんですが、知らず知らずに欲望や嫉妬の鎖につながれちゃうことだってきっとあります。そんなときに自分がどれほど「まっとうさを守れるか」が試されるのですね。
以前木村周先生が私たちNPOの活動を「実にまっとうですね」と評してくださったことがあります。そのとき以来「まっとうさを守る」ということが私の「座右の銘」になりました。
東京タワーを眼下に見下ろす高層ビルに住み、「いずれはきっと天下を取る」と誓ったという堀江氏は今後どうなっていくのでしょうか。現代で「天下をとる」とはどんなイメージなんでしょうか。札束を武器におじさんたちの陣地に果敢に切り込んでいった彼は、その「札束」に足をすくわれたように見えます。それでもなお彼は「札束」を武器に攻撃をしていくのでしょうか。
確かにずば抜けた才能も金も羨ましい。でもどこか「まっとう」ではない臭いがする。そこにつけこまれたという感じでもある。こうしてみるとやはりこの世には大きな「理」という流れがうねっている気がしますね。
「盛者必衰の理あり」と謳う古典に待つまでもなく、それを実感する出来事は多いですね。究極には、「まっとうさは札束より強し」ということを信じたいと思います。