そこで私も世の中に合わせて仕事も勉強もオフ。
お昼過ぎに歩いて15分ほどのカフェに出かけた。
グラフィックデザイナーである知人の息子さんが
そこで展示会を開いているというのである。
斬新なポップグラフィックを堪能しつつ先着の
友人知人と落ち合ってわいわいお茶をのんだ。
いやあ、楽しかったです!
夜はまたわいわいと食事をしたのだが、
その席でこんな話題が出た。最近の脳科学で
分かったことだそうだが、私たちがする動作と
いうのは、行為のほうが先にあって、それを
後から脳が追認するというのである。例えば
食べ物を食べるために脳が指示して箸を
動かすのではなく、先に箸が動いて、それを
脳が食物を食べるために箸を動かしたのだと
後から認知するということらしい。
この話からまたもや想起してしまったのは
俄か試験勉強で詰め込んだ知識。
そういや心理学でも似たような説があったけな〜
何だっけ?
あゝ、そうだ!「ジェームズ=ランゲ」説。
これは、アメリカの心理学者ジェームズが
発表した情動に関する見解である。情動とは、
喜び、怒りなどの強くて一時的な感情のことで、
ジェームズは「外的な刺激によってまず生理的
変化が起こり、その変化を脳が受信することで
情動が生じる」と主張し、それまで一般的に
信じられていた「情動の発生後生理的変化が
生じる」という説をひっくり返して物議を
かもしたということである。
ジェームズ=ランゲ説によれば、
「悲しいから泣く」のではなく、「泣くから
悲しい」のであり、「恐いから震える」のでは
なく「震えるから恐い」ということになる。
こういう風に言われると違和感があるかも
しれないが、身体の反応が先立つ感じって、
ちょっと身体に敏感な人なら体験があるから
この説、私にはそれほど大胆だとも思えない。
そこで今日話題に出た脳認知動作後追い説も
妙に納得してしまった私。
「何でもかんでも脳が一番じゃないんじゃい!」
って叫んでやりたくなってしまった。
今日のポップアートだって、気の合う仲間と
一緒にワクワクしながら観るから面白いんだ。
やっぱり人間は生身なんだねえ。
ジェームズ=ランゲ万歳!!である。
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私の読み込みの仕方 また伝え方も悪く・・・・脳・・・にやはり負けている?かもです(>_<)
というのも・・・例えば コップを持つ動作をする時に 自分が持とうという意思を感じる前に・・・その前に脳の中に持つという運動準備電位とやらが発動して体が動く準備をしているのだとか
意思を持つ前に動いているというのはあるみたいですがその前にまたまた脳の中で指示がでている・・・のだとか
となると何事も 決定されているという決定論が通ってしまうかというと その先生もそれについては一人の人として嫌悪感すら感じるということでした
しかし 意識 意思 自我 など改めて考えると難しいですね・・・
一体 なんなんだろうって思います
で その先生いわく 人の特徴ってなんだろうって考えると 人間ってなんだろうっていうことを考えることかな って・・・。
何のために生きているのだろうと問うて生きる目的を探す理由を問うのは人間しかできない気がするとか・・・。
で しかし その理由なんてのはないのに理由を探し回るところも人である証明なのではないかと書いてありました。
何だか馬鹿げたことをしているみたいだけどそのプロセスが最高に楽しいのではないかとも。。。
今は 脳科学だとか宇宙物理学だとかいろいろな学問がいろいろな研究をしていて面白いなあって私はそういう本を読むとわくわくします
自分が生きていて多少は理解する力があるうちにどういう展開をしていくのかなあって
だから すべからく脳に支配?されているというわけでもなく それでないものが明らかになることもいつかあるのかなあとも感じます
この前テレビでしていた 立花隆さんが出ていた臨死体験の番組でも 臨死体験は脳の作用で・・・みたいなことが一つの結果として出ていた感じに見ましたが しかしその中でも そうではない何かがあるのではないか というような余韻は残された様な番組に見ました
データーなどに出ない何かがそのうち証明される時代がくるかもしれませんね
いやはや ごめんなさい ほんとm(__)m
脳に関しては、電気信号がどうたら…ということはこの頃よく耳にしますが、
まあ、事実はどうあれ、脳より先に身体が反応するというのは、
実感としてはすごく思い当たるので、私としてはやはり
「脳より身体」説がピンとくる感じなんですね。
でも考えてみれば脳だって身体の一部なんだから、
そんなに区別してとらえることもないのかもしれません。
そして人間の身体も脳も超えるようなものがあるということも
またあり得ることだと思います。