「ニッポンの嘘 〜報道写真家 福島菊次郎90歳〜」の
アンコール上演をやっていると知り、観に行った。
こういう時って、平日に時間があるといいよね。
ネットで予告編を見て、CSNで映画の感想を聞いたりして、
福島菊次郎という人はずいぶんチャーミングな人だなと思っていた。
しかし著作本を読み映画を見ると、そのチャーミングさとはうらはらに、
過去の出来事や独自の思想をここぞとばかりに展開し、
歴史の背景を知らないとわかりにくい箇所が多々あり、
今まで触れそうで触れることのない世界がそこにはあった。
天皇の戦争責任問題、
安保闘争、
成田空港三里塚闘争、
そして広島。
私がこうやって書いているのも不思議なくらい、
これらの出来事の推移はもちろん、
日本がなぜこのような道をたどっているのか知らないでいた。
知る機会はいくらでもあった。
父は若かりし頃陸上自衛隊に所属し、今でも自衛隊の行事には目がない。
母は皇室関連が好きで、一般参賀へ出向いたり、皇室番組は欠かさず見ている。
なぜそんなに好きなのか。
理由はひとつ「すごい、すばらしい、そういうものだ」だからだ。
そんな私は、飛行機が好きで何度か成田へ行っているのに、
開港までの背景や空港周辺の厳重警備への疑問までには及ばなかった。
「そういうものだ」という言葉で片づけた。
なぜ、この映画を観ようと思ったのか。
観る前までは、私が抱える課題のヒントになるかなと思ったからだ。
しかし、実際はヒントになるどころか福島菊次郎のジャーナリズム的思想を、
現実の自分とかけ離れたところで取り入れてしまいそうだった。
それは、私の気持ちや思想の脆弱さを表しているようなものだ。
氏の思想は、とても過激だ。
今まで見て、聞いてきたこととまるで違う解釈なのだ。
あくまで福島菊次郎という人物から見た出来事なのか、
それともそれが事実なのか自身で判断つかないまま、
頭の中を行き来しているようだった。
そうしていると、あることに気づいた。
それはいかに、私が一般的で受身であるということ。
自衛隊も天皇も三里塚も、ただ「そういうものだ」と信じてきたから、
それらを紐づかせる映像の連発に、私は消耗してしまった。
画面に映った氏の写真から見える叫び、傷み、戦い、犠牲は、
「そういうものだ」からを越えたところで感じてはならないような気がした。
不都合なことは言葉をすり替え、葬り、風化し、時には美化させおしまず、
最後には「そういうものだよ」とさせることが、
ニッポンの嘘たる由縁なのかとさえ感じた。
氏を写真家へ駆り立てた原爆は、
私のこれまでの暮らしにそこはかとなく結びついている。
敗戦、自衛隊、安保、三里塚、ウーマンリブのどれもがそうだ。
出来事としての事実はあれど、そこに渦巻いたものを問わずに
「そういうものだ」で済まされしまうのは、
私の原点まで揺さぶられるような気がしてならない。
人は事実を残し「そういうものだ」ど解釈し、なかったことにできるのだろうか。
氏は出来事の渦中に入り、
命からがらファインダーを切ることで言葉以上の現実を求め突きつけた。
私はゲイであること、障害者であること、生保受給者であるということを、
どこかで恥じる感覚を自身の中で形成し、暮らしの中に埋没させている。
私は「そういうものだ」でとどまり続けるのか、それとも「その中に入るのか」。
たまたま映画の前日に、この動画↓を見つけて、私ならどうすると考えていた。
「ニッポンの嘘」を見てやや過敏になり、混沌としている節もありますが、
「そういうものだ」というものに「そうじゃないだろう」と問うには、
自身の中のにある恐怖への対決が究極かもしれません。
福島菊次郎が劇中「いいか悪いかを言うのなら、その中に入らないとね」と、
ひょうひょうとして言ったひとことは、ジャーナリズムの仕事としてではなく、
生き方そのものなのだろう。
kanngaeru
私にとっても忘れられない映画です。
ヒロシマは嘘で塗り固められた今もこうして真実の叫びをあげます。
フクシマはどうでしょうか。
私たちは苦悶のなかにいます。
安保や三里塚の映像のどこかに若き日の私がいます。
そして「私を見て!」のゼッケンの女性は、友人Iさんの友人だといいます。
今もなお戦い続ける90余年の人生に圧倒されつつ、
あの頃の私が今の私に「お前はどうする?」と迫ります。
Iさんは今も静かに戦い続けています。
私もCSNの活動を通して、今ここでの私の戦いを続けていこうと思います。
405にとっても、この衝撃が自分との戦いの糧となることを切に願っています。
こういう状況というか差別というか・・・こういうことはない方が良いのでしょうし、自分自身もされたくもないししたくもない、また、そういう状況に際してはしっかりとした態度でそれはいけないですよと言いたい・・・けれども・・私は後で報復されたらどうしようだの考えてしまいせいぜい何てことをいうのだろうと顔をしかめたりひどいことを言われた本人に目配せをしたり、後で慰める程度しかできないかもしれないなあって思いました。
学生時代、私は私なりに多少いやな目にあってもきていますが、それを助けてくれる人は誰もいませんでした。先生も友達も・・・。ただ耐えてきたっていう感じがします。そして、私なんかよりももっとひどい目にあっていた今考えるとある障害があるだろうと思えるYさん・・・友達の一部はいつもからかったりしていました。しかし、私はそれを強く否定して助けることもできなかった。
卒業の時にYさんが私に「やさしくしてくれてありがとう・・」って書いてくれました。他の人の言葉はほとんど覚えていませんが、彼女のその言葉だけはしっかりと覚えています。
彼女は被差別部落の地域に住む人でもあり、今も地元に帰ると彼女の住んでいる坂道の地域を通ると何とも言えない気分になります。
それは自分は彼女にやさしくしていたんだ 良いことをしていたのだなあなんて気持ちではなく、何とも言えない気持ちです。元気にしているのかなあとか 卒業した後どんな生活をしているのかなとか・・・もしかしたら私は彼女の存在にしらないうちに支えられていたのかもしれません。
ほとんど話をすることがなく、私自身もほとんど話しをしなかった様に思います。また、自分自身やさしくしたということがあまり記憶にありません。ただ、気にしていたという感じはします。静かにたたずんでいるたんたんとたたずんでいるその様子が結構好きだった様に思います。
その、ほとんど会話らしい会話をしたことのないほとんど話をしないYさんが書いてくれたその言葉は、いかにYさんがつらい気持ちで毎日を過ごしていたのか・・・何ともいえない気持ちがします。
そんなことをふと思い出しました。
そして、そういう障碍者差別だとかそういう類のもの以外にも普通に生きている中で様々な否定的な言葉や苦しみを喚起する様なことはいっぱいあって・・・そういう中を何とかかんとか生きていかないといけないもんなのかもなあって・・・。
そしてそのためにも自分を少しずつでも確立っていうか 私は私 私はこう生きる こう考えるっていうものを日々それなりに使いながら過ごしていけるようになりたいなあって思ったりしました。
時に様々な必要なヘルプを出したり必要な手助けを借りながら・・・なかなか生きていくということは骨の折れる作業でもあるなあなんて思ったりします。
でもうまく楽しみつつも歩みたいものだとも思います。
また、イライラすることもあったりした時などに加害者側っていうか動画でのいやな人の側にならない様に気もつけないといけないなあって感じます。
私は、かなりん世代の戦い方を知りません。
ただ、叫びや怒りをいつも内側に向けて沈めていたような気がします。
戦いの矛先はなんであれ、内に秘めた闘志というものを私の中に育てていきたいです。
>maさん
かつて、同じ障害だから仲良くなれるかなと思ったことがありました。
しかし、いくら同じ障害でも人によって感じたり生き方は違うんだと知ったとき、
障害は障害でしかないだと気づかされました。