気が早すぎました。こんばんは、F子です。
沖縄でオスプレイ配備反対運動を展開している人物の一人に
平良夏芽さんという方がいます。
オスプレイ問題について色々と調べている時にこの人のブログにたどり着き、
いくつか拾い読みをしたことがありました。
その時に以下の「怒りと非暴力」というエントリーが物凄く心に残り、
今も時々読み返しています。
http://blog.livedoor.jp/natsumetaira/archives/52271135.html
彼はこのエントリーの中でガンジーの言葉を引用しています。
「武器を取る勇気のない者や、自分は暴力を用いる抵抗運動はできないと考える者は、非暴力運動はできない。非暴力は、死ぬことを恐れるような者や抵抗する力を持たない者には教えることが出来ないものである」
何と激しい言葉だろうか。要約すると、非暴力直接行動とは、武器を持って闘うよりも遥かに厳しい闘いであるということである。
彼自身、比喩ではなく「死ぬ気で」抗議行動を実行しているのだと思います。
IWJの映像を見ていても、鬼気迫るものを感じます。
私は3.11以降、「何かがおかしいだろう!」という思いを抱え、
たまたま見つけたIWJに飛び込みました。
ここでの活動も国や時代が違ったら、殺されても仕方ない内容だろうと思う時があります。
(まあ、殺されちゃったら何もかもおしまいなので、
本当に国や時代が違ったらまた違うやり方になるとは思いますが。)
「それはおかしいよ!」と自分の意見を表明し、何かと闘おうとする時というのは、
「死んでも闘う」というところまでは行かなくとも、
自分の中の何らかの覚悟が試される時なのだと思います。
私も…ああ、試されてるなあ。
私の場合は「嫌われる覚悟」かもしれません。
最後に平良さんの言葉を引用します。
私たちが闘うのは、目の前の人間ではない。暴力装置、暴力を生むシステム。それらを容認するシステム。そして何よりも、自分の内なる暴力性なのである。
↑ブログを読んだらクリックしてね!
自分は何を選び何を引き受けるのかを。
このところそれを痛いほど実感しています。
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」とは、
聖書にあるよく知られた言葉です。
ともすると揶揄の対象になりがちな言葉ですが、民族や宗教の
激烈な戦いが繰り返されていた時代背景のなかにこの言葉を置けば、
これがいかに覚悟の要ることだったかが察せられます。
非暴力の原点とも言えますね。
「非暴力直接行動とは、武器を持って闘うよりも遥かに厳しい闘いである」
という言葉は迫力がありますね。
しかし、なかなかに「覚悟」というやつは難しい。
まあ、私は「嫌われる覚悟」くらいはとっくのとおにできているけど、
「殺される覚悟」となるとどうかなあ…
とはいえ、どんなことにしろ行動するには何らかの「覚悟」は必要。
ささやかではあるけど、そういう意味では日々「覚悟」の連続かもしれません。
活動している様子は見受けれらますが、
彼の活動にはどこか命がけなものがあるように思います。
平良さんの本業(?)は牧師さんなので、
宗教の有無も大きいと思いますが。
「殺される覚悟」までいかないけれど、
私も最近、日々自分を問い直しています。
細かい判断や選択をするたびに
少しずつ「覚悟」を決めていくしかないのかな
と思います。