2012年07月06日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

未練じゃないかよそんなもの

 新年度が始まって3ヶ月。
今年は花見もしたし、総会も開いた。
新プロジェクトも発足し、先月からはSVクラスが始まった。
これからは結構忙しくなりそう。

 そんな日々のなかで、何かが溜まっていく。
密かに、気づかないほど僅かずつ溜まっていく。
じっと内に意識を向ければ見えてくる。
心の澱のようなもの…。

 身体がだるい。
何となく浮き立たない。
浅瀬に身を留めるエネルギーが切れそうだ。

 じわじわと侵食してくる怒り。
細胞の一つ一つに重く沈みこんでゆっくりと増殖する。
身に覚えのある感覚だ。
苦い唾を飲み込む。

 学生時代。
薄汚い格好でほっつき歩いている私に母が言う。
「小さいときはかわいかったのにねえ…」
「うるせえ!」
手にしていたグラスを母に向かって投げつける私。
殴りかかる母。殴り返す私。

 ちゃらちゃらと身を着飾って口紅つけたバカ女たち。
おしゃれと男と芸能人の話しかしない頭の空っぽな女たち。
次々と強姦して殺してやりたい。
心のナイフを研ぎまくり、胸に暗い炎燃やしたナインティーン。

 コンプレックスの塊は焼いて食べた。
皿もきれいに洗ったけど、私が私でなくなったわけじゃない。
あの頃の私が今の私に嫉妬する。
戻っておいでと囁きかける。

 堕ちていく…深みへ。
憎悪と敵意に満ちた澱にまみれて抱き合う
19の私との蜜月。何という快感!

 ここには長くいられない。
因果を含めた別れ話は、激しい愛撫に遮られる。
ミイラ取りがミイラにならぬ保証はどこにもない。


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posted by CSNメンバー at 21:41 | Comment(7) | TrackBack(0)
この記事へのコメント
19の頃のかなりんに会ったことはないけれど、そういうかなりんがあって今のかなりんがある気がします。
だからいいと私は思います。
嫌いじゃないです。むしろ好きかな。

その昔のかなりんも 今も残っていると感じるし、どれが本体かは私にはわからないですが自分とのつきあいかたっていうか、社会との付き合い方っていうか 作戦っていうかそういう参謀もかなりんの中に生まれているようなそんな感覚がします。
感想ですが・・・
Posted by ma at 2012年07月08日 15:54
何年か前、あの頃の私を知っている人に会ったとき、
壇一雄の「火宅の人」を読んであなたを思い出した、と言っていました。
小説に出てくる主人公の愛人、矢島恵子が(当時の)私に似ているというのです。
人から見たらそんな感じだったのかと妙に新鮮でした。

今は確かに「あれも私、これも私、全て私」という感じです。
しかし今でもあの頃の私に無性に会いたくなる時があります。
まるで未練に身を焼く小説の主人公のように。
その果てにふっと深みにはまって溺れることができるのも
必ずや賢い参謀が浅瀬に引き戻してくれるという確信があるからかもしれません。
Posted by かなりん at 2012年07月08日 23:27
その19歳の時期はきっと様々な苦悩があったことでしょうが、振り返ると生きているっていう実感みたいなものがある時期だったのかも・・・。青い炎の様に、時に赤い炎の様に燃えて生きていたところが魅力として感じられていたのかも・・。今、その頃の自分をある意味客観的に感じる時、その自分が当時の周囲の人が潜在的に感じていた様に魅力的に改めて感じる・・・っていうか・・・。
しかし、その当時のかなりん当事者としては苦悩が大きくて辛かったのかもしれないなあ・・・とか。

何が、世の中の真実なのか、何が正しいのか、何をもってまともというのか・・・そういう事はまあ社会との折り合いの中で何とはなしに感じ、そこをとりあえず守ろうと私などもしますが、しかしその頃のかなりんは、苦悩と共にいてそこから抜け出そうとされていたのもあるのかもしれませんが、その当時・・・というかそれよりもっと子供の頃からなのかなあ・・・かなりんが感じられていた世の中や人間とはみたいな事って私は的を得ているところ大いにあると思うんですよね。

人間って とか 世の中って・・・みたいなこと。
苦悩と共にあったからそれが感じられたのか、それとも苦悩がなくても感じられたのかというのは白黒つけられないですが、しかし、苦悩と共に青や赤の炎をまといながら世間的には暴れながら しかし静かに世の中や人間を自分の能力や感性で見つめている・・・そんなかなりんを私は感じます。
感想ですが・・・

火宅の人・・・昔映画館で見たなあ・・・



Posted by ma at 2012年07月09日 10:57
「苦悩と共に青や赤の炎をまといながらそこから抜け出そうとしていた…」
ってすてきな表現ですね。
当時の私はそんな詩的なイメージとは程遠い
不様な生き方をしていたように思いますが…
炎をまとったような激しさはあったかもしれません。

その後のカウンセリングの実習のなかで、私がそれほどまでに激しく
希求していたものは「自由」なんだ!ということが分かりました。
まとわりつく「苦悩」は、自分でも正体がわからずに持て余していた
「欲求」の産物です。

今では大分その正体がはっきりしてきました。
しかし抜け出しきれずにこうして時折あがくわけです。
「自由」の荒野に突き抜けるのは、そんなに生易しいことではありませんね。

Posted by かなりん at 2012年07月10日 17:00
自由・・・ですか

実は私もある人に あなたは何を求めているのか? と聞かれて 自由 と答えたことがあります。

自分でも思いがけない自分の言葉だったのですがどうもそれが気になり、自由って・・・?って自分なりに調べたことがあります。その中で語源としては自由というのはもともと仏教用語で、英語のフリーダムとかリバティーとかとは本当は違うのだけども まあこれでいいだろうということで自由という日本語をあてた という事を東洋文化関係の本で読みました。

日本語でいうところの自由というのは、自らによる というか 人は人に(阿頼耶識とかとつながる本当の人間・・・かな)。。。みたいなこと ではないかと読み進める中ではそう感じました。
とはいえ勉強不足ですからよくわかりませんが・・・

私は子供時代 大人たちが表と裏の使い分けだとか 他人のことを思うふりをして実は自分のことしか考えてない言動をじっと見つめていましたが、その中でそういう色々な感情にとりつかれないで なんというか自由にいたい と子供時代から思っていました。
しかし、難しいものですね。ああまたいやな感情や欲が私の中にもくもくとわいているなあとよく思います。

かなりんの思う自由の荒野・・・スカーっと突き抜けられるといいですね。
Posted by ma at 2012年07月10日 23:34
いい言葉です。

「自由」

私は「自」は「自ら」と訳します
そして、「由」は「良し」と訳し
「自ら良し」
I`m OK です!

ちなみに、昔「火宅の人」みたいな生き方してるね」
と言われて、気になって読んでみました。
感想・・忘れてますね〜
自分でも、いい加減だな〜って思いますが
人生「加減」が大事。
良い加減で生きるのって、楽です。
Posted by T社長 at 2012年07月11日 00:00
>maさま。
人間ってなかなか自由になれませんね。
仏教で言えば「煩悩」を超越した境地でしょうか。
西欧的な自由というのは、やはり「選択」にかかってきますね。
踏み絵を踏むのも踏まぬのも自由、さあ、あなたはどちらを選ぶ?
というような。
結果の全てを引き受ける覚悟を求められるのが自由です。
フロムのように逃げ出したくなりますね。

>T社長
 私はかなりいい加減な生き方をしていますが、
「自由」に対してはとてもストイックな捉え方をしているのだと思います。
しがらみも欲求もない荒野に独りスクッと立つ…
そんなイメージです。

 それはそうと社長が「火宅の人」みたいな生き方をしてらっしゃるときに
出会わなくてよかったですね。
Posted by かなりん at 2012年07月11日 23:04
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