405さんがお返事をくれたので更にお返事を。
>>だから処理というより、
>>むしろ付き合っていくほうを選びますね。
確かに無くしちゃうことはできないですしねぇ。
この渇きと上手く付き合うってなかなか難しいですが。
さて、A子さんと同様、私も木村先生の「キャリアというのは死に方だ」というお話の後、
自分の死に方について考えていました。
そこで思い描くのは山口美江さんの死に方です。
(以前、405さんもブログに書いていましたね)
亡くなった当初はあたかも不幸な死に方のように報道されていましたが、
私からみれば彼女の死に方は理想の死に方のように思います。
親を看取った後に自分の選んだマンションの一室で
自分が選んだ家具と犬に囲まれて
独りで心不全でぽっくりと死ぬ。
このイメージはもの凄く理想的です。
やたらめったら家族だの絆だのを賛歌している方には反論されそうですが。
私が今まで看取った親族はやたらと管を刺されたり、
望みの持てない手術をされたりと身体をぼろぼろにして死んでいったので、
どうしても静かで孤独な死に憧れてしまいます。
ご時勢柄、ぽっくり野垂れ死ぬってなかなか難しいかも知れないけど、
私は…独りぼっちで死にたいなあ。
いざ実際に死に直面したらちょっとジタバタはするかもしれないけど、
やっぱり独りで死にたい。
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家族がいようといまいとそれは皆同じですよね。
しかし「死」と「死に方」は違うような気がします。
「死に方」に少しでも自分の意思を入れるとすれば、
それはどうしてもそこに至るまでの「生き方」に関わってくるところがある。
そして私たちが選ぶことのできるのは多分「生き方」の方でしょう。
どのような「死」を理想としても、それを自在に選び取ることはまずできません。
「独りぼっちで死にたい」のなら、「独りぼっちで生きる」ことを
果敢に選び取るしかありません。
そしてこの選択には「家族」などの外的条件は関与しません。
あくまでも内的な選択です。
ここからはイメージです。
分かる人にしか分からない。
そうした内的選択のうえでの「独りぼっちの死」を
私もまた実現したいと思っています。
確かにいざ「死に方」を語ろうとすると、勢い「生き方」を語らざるを得ないことになってくることを感じます。
以前のかなりんのブログ(2011年01月14日の「今更ながらの独り言」)にある「他者を侵食せぬほどの距離を保つこと、人間としての根源的な孤独を引き受けること」を選択することが「独りぼっちの死」の実現につながるんだろうと思います。
家族だの絆だの「孤独死」に対する報道のされ方だの、雑音が気になるうちはまだまだ腹の括り方が私は足りないのかもしれません。
>ハンスさん
頑張って成功したこと、頑張って失敗したこと、頑張ることから逃げたこと、諸々全て受け入れて、そんな自分を抱きしめて死にたいものです。