こんな質問がありました。
「かなりんさんはどうしてカウンセラーをしているのですか?」
そのメールには「唐突ですが」というタイトルがついて
いましたが、確かにいきなり聞かれてもそう簡単に答え
られそうもないので、ちょっと戸惑ってしまいました。
メールを下さったMさんもカウンセラーで、ちゃんと
ご自分のことは書いてありました。そこで私も返事を
しようとは思ったのですが、どうも私はこういうことを
メールに書くのが苦手なので、今日のブログにその問いへの
答えらしきものを書いて、Mさんへの返信代わりにしようか
という目論み。果たしてうまく伝わるかどうか分かりません
が、まあやってみようと思います。
過去のブログをたどってみたら、そんなようなことを
書いたものがありました。こちらです。
これを「カウンセラーの仕事をしているワケ」として
理解してくださるかどうかは分かりませんが、私の中の
非常に内面的な側面が関与していることは確かです。
若い頃の私にとって、世界は常に理不尽さに満ち、
生きることは虚しい営みの繰り返しにすぎず、自分は
ただただ卑小で無力であり、他者など誰も信ずるに足らぬ
ものでした。それでも自分には燃えるような「欲求」が
あり、もがいてももがいてもそこから逃れられなかった。
カウンセリングを学ぶ過程で徹底して自分と向き合うことで、
私は少しずつ「全てを受け入れ、引き受ける」という在り様を
身につけたのです。そして「カウンセラー」という仕事を
通してそれが肉体化されていくのを実感しました。長年の
私の「自由」への希求は、遂にここで道筋を見出したのです。
このブログの中で私は「私にとって『自由であること』は
目的ではない。」と書いていますが、「カウンセラーであること」
も同様に目的ではなく、紆余曲折のあげくの果ての結果でしか
ありません。一瞬一瞬に「自由」と渡り合える仕事であれば、
そして私にその才と資質さえあれば、女優でも芸術家でも
スポーツ選手でも賭博師でも何でもよかった。それがたまたま
「カウンセラー」であったのは、いろいろなきっかけとか、
出会った人たちとか、そのときどきの出来事とか、時期とか、
さまざまなことが絡み合ってのことです。一口で言えば
「めぐり合わせ」ですね。
もっともこの頃は、「カウンセラー」よりも「NPOの運営者」
としての仕事の方が重量感を増しています。それはそれで
面白くはあるのですが、何だか少し窮屈になっている気もします。
「社会の矛盾」とか「差別」とかそういうものと戦おうとすると、
戦略だとか行動だとか思想だとかがフロントに出てくる。そうすると
私の「カオス」は心奥に退かざるを得ないからです。
「カウンセリングルーム」の中だけではなく、
どこにいて何をしていても「自由であること」を希求し続ける。
そうできたらすてきですね。
でも「すてきな自分」なんていうのも「幻想」にすぎませんから、
やはり今のありのままの自分を引き受けて、自分に与えられた
道が途切れるその日まで、この思うに任せぬ日々を何とか生きて
いこうと、今はそんな風に思っています。
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自由になりたい という気持ち 奇遇なことに私も以前ある人にどうなりたいかと聞かれて 自由 って答えました そう思っていたのは子供の頃からでした
かなりんの言うところの自由とは違うかもしれませんが 自由っていうキーワードが同じってのが面白いなあって思いました。私の思う自由ってのは仏教でいうところの解脱ににたところがあります でも、よく何の苦労もない 何も重荷もない天国がこの世よりもいいかというと、かっての高名な僧侶たちもこの世のほうがいいと語ったり、釈迦も この世は美しいこの世は甘美であると言ったとかなんとか・・・ともいいますね。
確かに混沌とした中を生きる、というか生きられるということが自由っていうか、いいのかもしれないですね
以前、かなりんさんに「あなた位の年齢の時は苦しい もっと年をとると楽になるよ」っていってもらったことがあります 今、あの頃よりも少し年をとってみてそうだなあって精神的には思うことがあります 肉体的にはちょっと痛いなあとかいろいろありますが・・・^^;
自分ってものが、カオスの世の中の一部として自然に少しずつ同化してきたのかしら・・・
今日、80才位の人と会って話をしましたが、人生いろいろあるけどそれから逃げてばかりだと面白くない つらいことがたくさんあるけど挑戦したりぶち壊したりしないとねえ って言われました。そういう一つの方針をもって生きるやりかたも確かにあるし、いいことだなあとも思ったりしました。(辛いことや苦しいことがいろいろあるって認めていること自体がカオスを生きているという側面ではある意味自由なのかなとも思いましたが)
その方は一つのことを成し遂げている方なんですが、かなりんさんも今運営という仕事をされているわけで、そうなるとある一定のスタンスに自分を立たせることが必要となるような気がするので、なかなかいつもカオスを全面にだすことは難しいかもしれませんね
でも、奥のほうにあるその人のもつカオスっていうかそういう見えずらいものがその人のイメージっていうか存在にすごくかかわっているかんじがしますね そういうものがあるから、かなりんさんは話をしていると面白いなあって感じるのかなあって思いました。そして、そういうものがないとなんだか薄いというかちょっと私自身は物足りない感があります。(前述の80位の方にもカオスがあるのを感じます)
カオスをもってそれを自然に身にまとっているところがその人のなんか重みっていうか、訴えてくるところっていうか・・・うまくいえませんが大事な感がします。
ありがとうございました
遅ればせながらのこんな形での返信を受け入れて
くださってありがとうございます。
テネシーウィリアムズは、「我々はみな孤独という
牢獄の住人である」と言いました。
「自分という牢獄」から逃げようとあがいた結果が、
「精神病理」という状態なのかとこの頃考えたりもします。
「牢獄」のなかに正気でいることはつらいことですから。
まして「牢獄」にいて「自由」を希求するなんぞは、
正気の沙汰ではできません。
それでも「狂気」の世界へ逃げ込むわけにも行きません。
CSNのスーパーバイザー、高瀬講師の言うごとく、
まことに「カウンセラー」とは、因果な商売ですね。
精神科医の平山正美医師が、リストカット等をする方は、命を賭してまで守りたいものがあるのではないか、死ぬかもしれないのに行ってしまうのは、命よりも存在確認の方が大事と感じているのではないか。また、自分の存在をわかってもらいたいとか、何か役に立ちたいとか、生きがいってなんだろうとかいろいろなメッセージがあるのではないか・・・
と言われていました。
人間は孤独な存在だからこそ、お互いの気持ちを響きあったり、認めあったり、存在を確認したりなどといい関係をもっていけるといいなあなんて思ったりします。
でも、近代化に伴って、孤独がより前面に現れてきたような感じがします。まあ、あれもこれもとはいかないので仕方がないのかもしれませんが、なかなかハードな状況なのかもしれないなあとふと感じます。
私は、カウンセラーというほどのものではないのですが、ある種のカウンセラーは確かに因果な商売ですね
。
その対象が“相手”ではなく、“自己の存在確認”であったりするところに現代の病理を感じます。
私はインドやタイ、バングラデシュの農村を訪ねた経験をもちますが、そこで暮らす人々の心の豊かさを感じるにつけ、自分自身が知らず知らずのうちに育んできてしまった価値観や死生観にいかに支配されていることか…とのたうちまわった経験がございます。
気分変調症との診断を受け、2年程服薬治療をいたしました。服薬中止して約2ヶ月。服薬中程前向きではないかもしれませんが、憂いと共にいくらか以前よりも肩の荷おろして現実を前向きに見つめることができるようになりました。
高齢者福祉(介護保険制度)においてケアマネージャーの仕事をさせて頂いております37才バツイチ男性です。
突然の書き込み失礼いたしました。丸
リストカットには、人が自らの牢獄から「私はここにいる!」と
叫んでいるような悲痛さを感じます。
何びとも彼(彼女)をそこから救い出すことはできません。
しかし、その叫びに耳を傾け、「私もここにいる」ということを
全存在をかけて示す、それが「カウンセラー」たる者の
仕事なのではないかと思います。
まあ、「言うは易し」ですけれど。
丸さま。
お久しぶりですね。
自らの孤独を少しずつ受け入れていくとき、人は傍らの
他者の存在に気づくのかもしれません。
高齢者の「徘徊」などの行為にもまた、孤独で悲痛な
ものがありますね。
お仕事を通してそうした「孤独」と向き合われていくことは、
丸さんにとっても大事なことなのだと思います。
また、私自身以前 マザーテレサさんのところで何かできないかなあと手紙を書いたら、来ることはいいのだけど、日本の足もとのことですることがたくさんあるかもしれない というようなお返事をいただいたことがあります(マザーご自身からというわけではありませんが)
テレビとか楽しんでそこそこ見ますが、なんだか私には空虚に感じることが多いです。自殺者等がこんなに多い国 でも、町もテレビも浮かれたような感じ・・・不気味な気もすることもあります。
インド、タイ、バングラデシュなどの方々と私は話したこととかはないですが、他の文化に触れたりするといろいろ感じることがあるんだろうなあって感じました。私は田舎生まれ育ちですが、田舎に帰るだけでも、また、違う年代の方とのかかわりの中でも、ふと 自分の価値観にあれ?って思うことがあります。
ある時期は私自身はえらそうに何だか進んだ個人主義的な感覚に浸っていたこともあるかもしれないなあって思ったりし、冷って思うこともあります。
自分の価値観や死生観にのたうちまわれたとのことですね。大変だったことと思います。でも、きっとそれがあって今の丸さんがおられて、いいお仕事もされているのではないかなあと思いました。お忙しいお仕事と思いますが、お体大切になさってください
知らない方に対して偉そうなことを書いたかもしれません すいません^^;
なるほどなあって改めて読んで思いました。
暗い暗闇の中で、おーい 私はここにいるよお だれかいないかあァ・・・
おおい・・・ここにいるぞお
迷い込んだジャングル・・
遭難した広い海・・・
そんな中での小さな灯、その灯の元には人がいる、同じ苦しみをもつこともある同じ人としての人がいる・・・
そんな感じがしました。
そういえば、昔とても大変な状況にいたあるクライアントさんが、「灯がほしい」とぽつりとつぶやいていました
そうだよなあ 人間皆突き詰めれば孤独な存在で、自分で結局のところいきていかないといけないのだろうけど、一人で孤軍奮闘するのはやはり苦しい・・・なあって思いますし・・・
丸さん かなりん共に お元気に(^−^)
通りすがりのブログ読者に尋ねられては答えられない質問かもしれませんが。
私について。
大学では国際福祉を専攻していました。
フィールドワークとして先述のアジア諸国を訪ねましたが、そんななかで“フィールドワーク”というフィルターを通すことで他者の人生に踏みいることを正当化してしまう自分に耐えられなくなり、大学は最終学年で退学しました。
迷いの中、十代後半より愛読していた故灰谷健次郎さんの著書に触発され、半年ほど沖縄を放浪。
波照間島で島の人達の暖かさに十分過ぎるほど癒され、内地に戻り国内の福祉の世界に携わる決心をいたしました。
あれから10年…色々な人達に支えてもらいながら、時に遠回りなどしながらも現在の地に辿りついております。
ケアマネという職種、性にあっているとは思っています。お年よりが“徘徊”する気持ちが何となく理解できる気がしたりして。
かなりん先生のお陰で、自分自身の性格傾向、投影(転移?)しやすい条件設定などいくらかではありますが自覚できるようになったと思いたいところです。
字数制限
プライベートでのストローク飢餓気味かな
私が、なぜカウンセラーになったか・・は、環境もあるし、感受性だとか、時代や出会い等の影響等があるのでしょうか・・・
思うに思春期とやらになった頃から、色々なものを客観視するようになり、一般論で言っている事って本当なのかしらとか、ははあ・・そういう裏があるんだなあとか色々観察していた自分を思い出します。
そういう、世の中の真実 だとか なぞだとか 本当は・・・みたいなことが知りたくて、哲学とかを学びたかったのですが色々あり、別の学部に・・・で、世の中の既存の中心みたいなとこから人に関わるより外側から関わりたいなあと思い、教授に相談したらそういう仕事を教えてもたい・・・という感じでしょうか・・・
カウンセラーといっても、私はやや特殊なキャリアカウンセラーなのでかなりんさんや臨床心理士とは違う部類になるかと思います。
フィールドワークということで他者の人生に踏み入る事への耐えられなさ・・というのを読み、私自身は適正テストなどを行うこともありましたが、なぜこういうことをしないといけないのかがかなり疑問で辛い気持になったことがあります。
沖縄を放浪・・
沖縄というと、山之口獏さんという詩人がいますね。なんだか好きです。
「博学と無学」「自己紹介」「世はさまざま」なんて詩が好きです(^−^)
「博学と無学」なんて、私は読むとすっきりします。
そういえば、私の敬愛するある女性は、大学時代、一人で日本の全県めぐりをしたみたいです。
そういう人って、なんだか豊な何かを得ておられる様に感じます。丸さんもお書きになっておられるようにきっと色々なものを得られたんでしょうね・・・読んでいて私自身学びになりました。
個人的な質問にご丁寧にお応え頂きありがとうございました。
かなりん先生をはじめ、今まで数人のカウンセラーさんにお世話になったことがありますが、クライアントという立場からはなかなか尋ねにくい質問だったもので聞いてみたくなってしまいました。カウンセラーとしても、どこまで、どうやって自己開示すらかは悩みどころかもしれませんね。
ここまで諸々コメント頂きありがとうございました。惜しいところではありますが、きりがつかなくなりそうなのでこのへんで
返信不要でごさいます。
ありがとうございました。丸