渋谷区女性センター・アイリス恒例の「しぶやフォーラム」に
登録団体として参加をしました。
午後からの「渋谷(シブタニ)あやめさんの一日」と題した寸劇では、
会場とのトークで出された意見を板書したり、質問への回答数を
数えたりするお手伝いもしました。「若い男性がカウントして
くれると嬉しい」という実行委員さんからのリクエストにお応えして、
ちょっと渋り気味の男Nを無理矢理動員。他の登録団体には
若い女性はちらほらいても、こういうところに出てくる若い男性と
なると殆どいないようです。会場の平均年齢もかなり高め。
世代交代はなかなか進みませんね。
寸劇は、中年の家庭の主婦であるあやめさんの日常を通して、
普段の生活に潜む「ジェンダー」の問題を浮き彫りにしようという
もので、脚本を書いた実行委員のKさんが老婆に扮して狂言回しの
役割を取りながら、会場とやりとりをするという趣向でした。
例えば「劇中であやめさんが夫を『お父さん』と呼んでいるけど
皆さんは配偶者をどう呼んでいますか?」といった質問をして、
「YES」「NO」のカードで答えてもらい、そのことに関する意見も
聞いていきます。私はせっせとそれらの意見を板書し、男Nと
ともにカウンタ片手にカードを数え、それも記録するという
聖徳太子なみの働きぶり。まあ、自分が進行するよりは
ずっと楽ではありましたが、手だけがやたら疲れました。
その中で印象に残ったのが、「自分の配偶者のことを他人に
話すとき『主人』という呼び方をする人が多い」という指摘でした。
問題の提起者は、「『主人』という言葉は対局に『奴隷』を連想
させる」と言い、それに対して「私は『主人』と言っているが、
だからといって夫が私のことを『奴隷』と思っているわけでは
ないし、いちいち意識する必要もないと思う」というような反論が
相次ぎました。
助言者として列席していた諸橋先生からは、「『主人』というのは、
『家の主』を表した言葉で、対局の言葉が『奴隷』というわけでは
ないが、習慣化して何気なく使っている言葉でも、それが含む
意味や概念が知らず知らずに意識に及ぼす影響は看過できない」
という趣旨の提言がありました。
私の友人に結婚してもずっと夫婦別姓を通してきた人がいます。
彼女は声高に「ジェンダー論」をぶつ人ではありませんが、深く
静かに、自らのフェミニストとしての信条をその私生活の中で
貫いています。日本では夫婦別姓は未だ法律で認められている
わけではないので、彼女は制度上は「結婚」の枠外にいます。
子供達は夫の姓を名乗っているので、家族の中で彼女だけが
別の姓ですし、夫の給与には「配偶者控除」も適用されないなど、
「結婚」という制度の内にいれば得られる数々の優遇措置とも
無縁の生き方をしています。それは紛れもなく孤独で厳しい
戦いです。彼女はとても穏やかで思慮深い人ですが、どこかに
凛とした筋金入りの気概を感じさせる人です。つき合って10年近く
になりますが、彼女の口からは当然ながら「主人」などという言葉は
聞いたことがありません。
「男女共同参画」を叫び、そのための活動をするなら
これくらいの覚悟と意識は必要じゃないのかと私は思います。
そういう私とて別姓を貫くような行動には遥かに及びませんが、
「女のくせに」という言葉を幾度となく投げつけられながら仕事をし、
我が夫ともそれ相当の戦いは続けてきました。勿論「主人」
という言葉は意識して避けています。言葉くらい意識できない
ようで「何の男女共同参画か」という思いでいます。
上演中はとにかく割り振られたお役目に追われ、意見を
言うことも出来なかったのですが、その後の懇親会で
そういう話が出たので思うところを話しました。若い人は
「そんなことどうでもいい」と思うかもしれませんが、この一見
「どうでもいい」ことが、突き詰めれば「無意識の意識化」という
大きな命題を孕んでいることに気づくくらいの洞察力は
持って欲しいですね。それが何らかの行動につながり、
その人の「筋金」をつくるのだと思います。
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