時として「カタチない侵害」だったり、
他者からの「コトバある助言」が、
時として「カタチない驕り」だったりする。
互いに根本にあるものは相違していることや、
当人が不毛な結末と感じたなら何らかの払拭できない考えがあり、
理論武装でいくらでも払拭したつもりでも、
感じだけは残ってしまう。
その感じを見るのは、怖いですか?
その感じを気づいてしまうのは、おのれの根幹を揺らぎますか?
不毛な感じを背負った表現には、
別の不毛さや更に倍増した不毛さに気づかされる。
これほど自分に突き付けられた、
自分の激しさを感じずにはいられない。
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こんにちは。
今回のブログは、何かあったようなのに、抽象的な書き方でしたね。
背景の事情は逆の視点で、自分が援助や助言をしたことで、
相手から怒りを向けられ、
自分の心像が相手の行為に感情的ではではないにしろ、反応したことですね。
自分が相手の行為に逆転移したとも言えますが、
自分が怒りを感じつつも起きてることに冷静に見つめたい思いが、
相手の怒りの感情となり自分の怒りに照らされた感じです。
自分の中で怒りを微笑む、なんとも得難いものですね。