2008年11月06日


405 <七色仮面の告白日記>

ぶあいそう

他者からの「カタチある援助」が、
時として「カタチない侵害」だったり、

他者からの「コトバある助言」が、
時として「カタチない驕り」だったりする。


互いに根本にあるものは相違していることや、
当人が不毛な結末と感じたなら何らかの払拭できない考えがあり、
理論武装でいくらでも払拭したつもりでも、
感じだけは残ってしまう。

その感じを見るのは、怖いですか?
その感じを気づいてしまうのは、おのれの根幹を揺らぎますか?


不毛な感じを背負った表現には、
別の不毛さや更に倍増した不毛さに気づかされる。


これほど自分に突き付けられた、
自分の激しさを感じずにはいられない。



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posted by CSNメンバー at 21:16 | Comment(2) | TrackBack(0)
この記事へのコメント
「何があったんだろう」と思っているのはかなりんさんだけではないと思います。不毛って?理論武装って?ん〜?援助とか助言とあるから405さんが何か援助と助言を受ける立場にいて、援助と助言をした人に、激しい無意味を怒っているような、そんな状況でしょうか。対話の不毛感。後味のまずさ。自分の激しさを(自分で保つのは大変ですが、それこそ病気したり災難にあったり、心地よい心理だけでなく、誰かを激しく憎んだりすること、そういう黒く渦巻く感情も…)自分の中で眺めているのは僕もおんなじです。微笑でもって自分の激しさを眺めていられたらよいですよね。自分の中で。
Posted by ハンス at 2008年11月07日 00:25
》ハンスさん

こんにちは。
今回のブログは、何かあったようなのに、抽象的な書き方でしたね。

背景の事情は逆の視点で、自分が援助や助言をしたことで、
相手から怒りを向けられ、
自分の心像が相手の行為に感情的ではではないにしろ、反応したことですね。

自分が相手の行為に逆転移したとも言えますが、
自分が怒りを感じつつも起きてることに冷静に見つめたい思いが、
相手の怒りの感情となり自分の怒りに照らされた感じです。

自分の中で怒りを微笑む、なんとも得難いものですね。



Posted by 405 at 2008年11月07日 11:58
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