その表層的な現象の裏に、無意識が作用している。
成功と思っていても、実は無意識の支配性が関与、あるいは「親の除外」であったり、
失敗と思ってしまうのは、無意識の否定感の確認、「子どもの汚染」だったりと、
人それぞれの人生脚本や他者との交流には、意識では捕らえきれない無意識が、
作用してしまう。
机上で交流分析やカウンセリング理論を学び意識でわかっても、
自分の無意識がどう作用し、人生脚本の何に根付いているかの「深い気付き」と、
とりあえずでもいいから「行動」がない限り、
学んだ理論はただの「知識」に留まってしまう。
それを痛感させられたのは、行政主催のピアカウンセリング単発講座と、自立支援のしゃべり場への参加で現状の自己を開示、
そして両親とのやりとりや、親戚絡みに起きている問題、同じ病気の友人の言葉に、
自分はどう「居て」どう「感じた」かの思いがあったからだ。
上記の参加や出来事のその場で感じたことを直後に考えてみても、
単なる自己満足か意識はどうだったかに気持ちを集中しないと、
そのとき感じたことが正当化されたりおろそかになったりして、
それこそ学んだ知識は「お飾り」になる。
それが顕著だったのが、今月初めのブログで中野でそれまでの自分から変わると記しながらも、
前々回、前回の落ち込み気味のブログになる。
そしてまた何かのきっかけで、前向きな気持ちになる。
これもパターンではないかと。
でも自分はそうやって気付いては考察して悩み、悩んで行動決断して新たに気付いていくことといったその繰り返すプロセスが、
「現実に対処する自分の力」になると信じている。
そのための行動、思考、感情や、決断するときのリスクを背負うという過剰な気持ちに、
「自分の確信」を恐れたり自信喪失することはなく、
それは先に述べたプロセスを幾度も繰り返して身につけていくものだと。
失敗した、上手くいった、楽しかった、不全感だったと感じるのは、
単に自分の感情内でしかないことで、無意識が不満足でも、意識で自分を許せる道筋を少しずつ造ることで、無意識に変化を与えられるのではないかと。
そして何より、そこに誰かが居てくれたからこその感じ方なんだと。
「先のことは考えない。すぐ来てしまうから」
アインシュタインの言葉ですが、
これを聴いてじんわりと溶け込んでいく気持ちになった。
それは、自分が焦りと不安に如何にイライラしていたかということへのカンフル剤だったし、
適性な防衛にもなるから。
時間が自身の不安の整理のために、時間を止めたりはできない。
時間の概念はさて置いておき、常に動いている時間の中で、
行動、思考、感情そして決断と結果とリスクを、動いている時間の中で焦らず見据え続けて、
幾度も起きる出来事につまずいたり、傷ついても「自分の確信」を持って対処することで、
自分なりの信念の育成と、人生脚本の脱却が図れる一因になると思った。
成功や失敗と言った位置づけや社会的価値観に揺さ振られない、
自分本来の安らぎや心の安定のある「成功者の脚本」をめざしたい。
そこまでいかなくても、自分を誉め称えられるくらいにはなりたい。
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小学生の詩になりました。
こんにちは。
私はハンスさんのコメントを読んで、
ハンスさん自身がどの点で、「小学生の詩」としたのか、わからないです。
私は逆に、気づきをもらいました。
それは心を表現するには、小学生がわかるくらいがいいなと。
どうも私は、文章を小難しくさせてしまって、
自身でも表現できてんの?と思うこと多々あります。
心の問題に取り組むのは難しいけど、
表現はシンプルがいいなと、今回また気づきを与えてくれました。
ハンスさん、コメントと気づきをありがとうございました!