2009年11月11日


スイマー <実業男スイマーの世渡り流々>

「始まれば終わるよ」

 先週末の私は、
家族の行事があった為に
実家の方に戻っておりました。

 短い滞在期間を終えて東京に戻ってきた翌日、
実家から送った荷物をほどいていたその時
イグサの香りが漂ってきたのです。

 ちょうど実家は畳を表替えしたばかりで、
家中にイグサのいい香りが漂っておりました。
その香りが私の服に移っていたようなのです。
畳以外にも屋根や外壁の塗り替えやら
庭の整理などが終わった後だったので、
まるで新築の雰囲気♪
いつもと違った気分の帰郷滞在のことが思い出されました。

 実家での滞在期間のある夜に
兄弟でお酒を飲んでいたときのこと。
地元で音楽活動をしている弟が
ある放送局の(地元では)有名なアナウンサーさんとの
打ち合わせの席での話をしてくれました。
彼女が若手だった頃に仕事について悩み、
番組の収録や取材が非常に苦痛だったことがあったそうです。
ただそんな日々を過ごしていた時に
はたと思い浮かんだ言葉が

「始まったら終わる」

だったとか。
始まった仕事はいつか終わる。
今は苦しいけど、それが永久に続くわけじゃない。
こういうところに思い至ったそうです。
それから少しずつ前向きに仕事ができるようになり、
今や地元では知らぬ者はいない
名アナウンサーでいらっしゃいます。

 エピソードはともあれ
私にとっては言葉そのものの響きがとても印象的で
意識の中に強く残りました。

 
 ちなみに、
この言葉をある近しい年配の方にお話したところ、
「そうそう、終わったらまた始まるしね」
との返事が返ってきました。
(伝えたのは飽くまで言葉だけですよ)


 人それぞれこれらの言葉を聞いての印象は違うでしょう。
ただ今の私はこう解釈しておこうかな、と思っています。

 〜始まった苦しみはいつか必ずわる〜

 〜終わった幸せはいつかまた始まる〜


 さ、明日はきっといい日だわ♪



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2009年11月10日


男N <男Nのニートからの旅立ち>

肝臓、治っちゃいました

締め切りを守れないことが当たり前のようになってきました。
午前0時を過ぎると「早くUPしなきゃ」と手抜きになりがちなんですが、
今日は締め切り云々はおいといて、腰を据えて書こうと思います。

まずは恒例になりつつある「カンゾウ検査」から

 ALP:316
 GOT:22
 GPT:28
 γ‐GTP:90

γ‐GTP以外は基準範囲まで下がりました。
医者から「もういいでしょう」と言われました。
なので、残念ではありますが今回で最終回ということになってしまいました。
みなさん、応援していただいて本当にありがとうございました。

 そりゃあ嬉しいことは嬉しいですよぉ〜
 酒だって飲めますしぃ〜熱が出る恐怖から解放されましたしぃ〜
 でもなんかぁ〜武器を失っちゃったっていうかぁ〜
 みんながアタシのことぉ〜構ってくれなくなっちゃいそうでぇ〜
  (※音声を変えてあります、風に読んでください)

なぜ「武器」と感じるのか、をうまく説明するのは難しいです。
もしそれができたなら、僕のココロの問題はかなり整理できそうです。

てなことをA子さんのブログにもあった「振り返り」で話しました。
かなりんブログにもナチュラルトラックバックしたかったんですが諦めました。
諦めるのが早かったような気がしないでもないですが。
「逃げた」ともいうような・・・

実際には「武器」という意識はそれほどはないんです。
「無意識」に鬱陶しく存在しているように思える、ということです。
これを意識化するのはなかなか難しいし、すぐには出来なさそうだし、メンドクサイです。
そういう理由をつけて逃げている・・というのもあるかな?

まあでも簡単ではなくて時間がかかるのは本当じゃないかと思います。
単に意識化すりゃあいいっちゅうもんではないとも思うしね。

そろそろブログを書くことからも逃げたくなってきました。
そもそもブログを書くのが遅れたのも、
快気祝いと独りで称して久々にビールを飲んだら酔っ払って寝ちゃった、
というのがホントのトコロだったりします。

 でも昨日も飲んだだろう?
 ホントはやっぱり逃げたいんじゃないの?

逃げる逃げると意識し過ぎるのは精神衛生上よくないと思われるのでこの辺にしますけど、
それにしてもねぇ・・・

 なぜ素直に自己表現することから逃げようとするのかね?男N君

エンカウンターグループでほとんど自己表現しなかったことをグジグジ悔やんでいますが、
それもこれも、
やっぱり得体の知れない「何物か」を恐れているからなんでしょうかねぇ・・・



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2009年11月09日


かなりん <カウンセラーかなりんの遊々随想>

母の日とカーネーション

 季節はずれのタイトルで恐縮です。
昨日のエンカウンターの振り返りを今日また振り返っていたらふと浮かんだのです。

 最近読み返した「太郎物語」(曽野綾子著・新潮文庫)にこんな場面が
ありました。高校生太郎の友人で、世間的な価値観を堅固に保持する両親を
持った藤原の家庭が、その兄の反逆的行為で崩壊したというエピソードが
あり、太郎の家を訪ねてきた藤原と太郎、その母信子が食事をとりながら
会話するところです。

 藤原 「僕ら、兄弟はね、物心ついてからずっと、親に復讐することを
      目標に暮らして来たんじゃないか、と昨日ふと思った」

 藤原の兄は、親の価値観が到底受けつけないような女性と同棲し、
一旦は家に連れ戻されるのですが、結局はその女性と無理心中を
はかって自分だけ助かるという事件を起こしたのです。また、藤原の弟は
潔癖症の母に過保護に育てられ、どんなものも素手で触れられないほど
腺病質な「バイ菌ノイローゼ」の子どもだったのが、学生運動にのめりこんで
「やってることは幼稚だけどただ生きるための安全を確保するだけではない、
もっと積極的に生きる味を覚えた」のです。これは70年代に書かれた小説
なので、このあたり私とちょっとだぶります。

 藤原 「弟だって本当は学生運動なんて信じちゃいないと思うんだ」
 太郎 「それをやれば確実に親がいやがるからな、その手応えがほしいんだろう」
 藤原 「うん、それでうっぷんを晴らしているんだ。現に直接は仕返しできないから…」
 太郎 「そうじゃないさ。それも一種の甘えというか求愛かも知れないぜ。親に憎まれる
      という形で親にかまって貰いたがってる…」
 
 藤原は、「それは信じられない」と言って唇を噛みます。そして「はっきり言えば、
僕たちはもし孤児だったら、ずいぶんうまく行ってたと思うんだ。」と続けます。
やはり「求愛」などという解釈は、当人にしてみれば受け入れがたいのよね。
それも同じ高校生の友人に言われたりすればなおさら。太郎自身も「瞬間的に
こんな風に考えついた自分が不思議だった」と書いてあるけど、「何かどこかで
出発点がまちがってしまった」藤原家の、「まちがってしまった理由」は、信子の
言うように「お互いの過大期待」であることは、客観的に見れば否めません。

 藤原 「だけど或る時、気がついてみたら、僕たちは皆、黙っちゃってたんだ。
      お互いに何か本当のことを言ったら、ダメになりそうな気がしたんだ。
      本当のことを言ったら、母さんはすぐ泣くし、親父は怒るし、そういうことは
      まず煩わしいし…それから、親を悲しませたくないっていう気持ちもあるし…」    
 太郎 「親がわかってくれっこないっていう絶望もあるしな」
 信子 「ちょっと待って頂戴。親がわかってくれないって、親は子どものこと、わからないのが
     当たり前なのよ。そんなに何もかもわかる親がいたら気味悪いじゃない」
 太郎 「しかしさ、つまり、君んちの場合、君がそこまでわかってれば、大したことないよね。」

 そうなんですが、子どもはなかなか親を諦められないものです。果たして藤原は
「そうだろうか」と小声でつぶやいたきりです。「重々しい気分になってしまうより、
むしろ軽薄な気分になるほうがずっと願わしいような気がした」太郎は、
「母さんはどう思う?」と問い、「よそのお宅のことを、わかったつもりで何か
申し上げることはできないけれど…」と渋る信子を、「いいよ、遠慮するなよ」
とけしかけます。

 信子 「子供は誰だって親に怨みを持つと思うわよ、お父さんお母さんが絶対に
     正しくて好き、という人もいるかも知れないけど」

 ここで太郎は「きゃあ!」と叫んでいすの上からとび上がり、皿をひっくり返して
しまいます。「どうしたの?一体」と母に質され、太郎は余り言いたくないのだけれど、
そんなことをした手前「本当のことを言わなきゃいけない」と思って渋々白状します。

 太郎 「何でもないけどさア。母の日に、お母さんありがとう、って作文書いたり、
     花束捧げたりするのあるよなあ。あれ思い出したら、いたたまれなくなったんだよ」

 太郎は、「あれこそ、残酷物語だと思っていた。白々しさの極だと考え」、
「テレビにそういう催しがうつったりすると、ブリキの皿をスプーンで引っかいた音を
聞いたときのように歯が浮きそうになった」のです。

 信子 「憎み合っている親子というのも、世の中では意外と多いと思うのよ。
     ただ、親子の間の憎しみっていうのは他人に対する憎しみみたいに単一じゃ
     ないから、それで苦しむのよ。でも、もし憎んでいるとしたらね、藤原君が。
     そしたらそういう親にはうんと感謝した方がいいと思うわ」
 太郎 「どうして」
 信子 「だって、本当の憎しみを教えてやれる人なんて、人生にそういないの。
     愛によって教えられるのが一番いいんだけど、もしそれが不可能だったら、
     憎しみによっても同じものを教わるのよ。そこが面白いところよ」

 曽野氏は別の著書でも「親子の関係は特別だ」と言っています。
このことについては、もう十数年前になりますが、私が岸田秀先生のゼミで
発表したときに、先生と論争になったのを覚えています。先生は強固な「母親嫌悪」を
持っておられる方ですし、筋金入りのフロイティアンですから、クリスチャンである
曽野氏のこんな言い分を承服できないのは、当然といえば当然です。

 それでも先生は後に曽野氏の小説「夢に殉ず」の文庫版の後書きをされています。
「著者からの強い希望で」とのことでした。もっとも先生は「編集者が都合よく双方に
伝えるんだよ」と言っていましたが。

 後書きをしたぐらいでは容易に両者の溝が埋まるとも思えませんが、しかしその先生も
「母の日のカーネーション」に対する太郎の感覚には同意をしてくれました。

 今回のエンカウンターグループではからずも露呈した感がある「ジェネレーション
ギャップ」は、この両者間の溝よりも深いのかも知れません。


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2009年11月08日


A子 <OLA子のキャリアアップへの道>

振り返り

今日はTA講座
その後、自然とTA講座のメンバーでエンカウンター
グループの振り返りをする流れになった。

したくもない振り返り。
できればなかったことにしたいエンカウンター。

あの時の自分は、確かに人と関わることを極力避けて
いた。
いろんなことを頭で考えて、自分のぶざまな姿を見せ
ないようにしていたと思う。
誰に見せたくなかったのか。
CSNメンバーに、だと思う。
今日の振り返りの中でも、ちらっと話で出たけど、
メンバー内でエンカウンターをやることも必要なのかも。
でも、どんなものが出てくるのか、どんなものを見る
ことになるのか、恐いという気持ちがある。

臆病になっている自分。
そんな自分がいることに気付けたのは良かったのかも。
エンカウンターグループの中だけじゃなく、日常生活
の中でも出来るだけ失敗を避けようとしている臆病な
自分がいる。

何か嫌なことが起こると、それと同じような事態を
出来るだけ避けようとする自分。
そんな自分がいることを再認識できた。
気が重い振り返り。


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2009年11月07日


moco <新米ママmocoの子育て日記>

ほのぼの幸せ

日曜日
三人で久々に遊園地へ出かけた。
そこは、あきらかに子供向け遊園地でほのぼのとしていた。

二歳児でも、他の遊園地よりも乗れる物が多く
自動でコースを走れる車に運転手として息子を乗せると
それはそれは自慢げな顔でハンドルをぐるぐる。

生まれて始めてのジェットコースターに乗った息子は
ヒビリながらも笑顔で、二回も続けてのっていました。

私達も、息子の笑顔、反応、一緒にアトラクションに乗れることが
とても、嬉しく楽しい一日を過ごすことができました。

我が家は、毎年といっていいほど年末バタバタで
年始に私が寝込んだりしたし、子供アレルギーの事もあるので
今年は、今月からコツコツと大掃除をやる予定です。

明日は、夫が大掛かりに家具を移動して掃除をしてくれる予定です。
私は、息子と二人で非難です。
ホント夫に感謝感謝です。

明日の夕ご飯は夫の好きな物でも作りたいと思う。
では、また、来週!!


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2009年11月06日


ひろみん <臨床検査技師・ひろみんのラブ&ピース>

私の中の「死」

私の中の「死」。
久々というよりも、真正面から対峙しようとするのは初めてかも知れない。
先日のCSN主催、エンカウンターグループでの後遺症は、今週ずっと尾を引いて
いた。心身の疲れは、仕事に行くのがやっとで毎晩、早く就寝した。

ただ椅子に座り、十数名で思い思いに話すだけだったのだが・・。
さまざまな感情が渦を巻き、全員を巻きこんで良くも悪くも、かなりのパワー
で静かに脈々と吹き荒れた感覚が残った。

私にとって「死」は、いつも畏敬というより目を背けたくなるような恐怖だった。
臨床検査技師になって数年は、検体だけを扱う仕事だけで楽だった。
しかし、ベッドサイドで採血したり骨髄穿刺による血液を標本にして顕微鏡で見たり
する検査は、若い頃の自分にとって「死」を意識するに十分すぎて、日に日に神経が
すり減って行った。

小さい子供達の「死」や生きたいのに生きれない人達の「死」が身近に在った。
逃げたかった。全てのドクターに訊きたかった。「死」をどうすれば客観的に捉えら
れるのか?どうすれば「死」を乗り越えられるのか?

そんな中、立て続けに起きた若い技師の同僚、上司、身近にいた人達の死は、あまり
にも強烈で、「死」の恐怖が自分自身を悩ませた。
自分の中で、「死」に対する境界線が引けない事に、もがき苦しんだ。
周りにいる医療従事者は平然と「死」に対する線が引けている様に見えた。

悩みまくったが答えは出なかった。哲学と宗教の世界に答えを見出そうとした。
しかし私にとって納得できる答えは、無かった。そのうち家庭を持ち、生きる事に
必死で「死」からは遠ざかって行った。

人間の生死に日々関わっている看護師や医師、介護職は、「死」だけでは無く「生きる」
という事も、同じ様に対峙しているのではないだろうか?私達パラメディカルとの差は、
生身の人間と直に関わり、避けがたい現状や喜びを日常茶飯事に直視し、寄り添って生き
る事にある。

そんな環境が「死」を客観視できる要因、嫌、しなければならない要因になっている
のではないか、と最近は思う様になった。勿論それだけでは、ないだろうが。
大変な精神力と心構えが必要なのだろうと敬服する。

私は、「死」が先にあるのでは無く、「生」が先にあるのだと思いたい。
私は、「死」を追及する前に「生」を追及したい。自分の為の「生」と自分の為の「死」。
「生」を懸命に貫く事で「死」を自然に受け入れる自分で在りたい。
「死」も歓喜「生」も歓喜なんて境涯には、程遠くても、自分の人生、在るがままに、生
きて行けたらいいな、と最近は思う。

恐るべき一泊二日のエンカウンターグループだったが、疲れた分だけ、得たものも大き
いような気がする。参加する前は気が重く、終えた後は、貴重な温もりと優しさを貰った
事に感謝したい気持ちが残った。皆様お疲れ様でした!そして、有難う!

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